最終章 ただいま

 まぶたの裏側で明滅していた白い光が、ゆっくりと形を成していく。

 色彩のない世界。

 最初に認識したのは、天井のシミだった。

 剥げかけた白い塗装。古びた蛍光灯の微かな唸り。


 鼻腔を満たしているのは、あの甘い香水の香りではない。

 強烈な消毒液の匂いと……微かに漂う、古い紙の匂い。雨に濡れた、図書館の匂い。


 彼は呼吸をしようとして、喉に異物が通っていることに気づいた。身体は鉛のように重い。

 記憶が、泥の中から浮かび上がってくる。

 事業の失敗。積み重なった負債。追い詰められ、逃げ場を失い、自ら全てを終わらせようとしたあの夜のこと。

 ここは、その果てにある場所だ。


 視界の端で、何かが動いた。

 彼はゆっくりと、錆びついた首を巡らせる。


 パイプ椅子に座り、ベッドの縁に突っ伏して眠っている女性がいた。

 艶やかなドレスも、完璧なメイクもない。

 着古したカーディガンに、乱れた髪。

 その手には、あの文庫本が握りしめられていた。

 彼が成功への階段を登る中で、唯一捨てられずに持ち続けていた過去の遺物。全てを終わらせようとしたあの夜、彼が無意識にポケットへ突っ込んでいた、細く切れそうな蜘蛛の糸。


「……あ……」


 彼の気配を感じたのか、彼女が顔を上げた。

 充血した瞳が、彼を捉える。頬はこけ、目の下には濃い隈がある。

 彼が眠り続けている間、家に押し寄せる督促や、明日の生活への不安を、彼女はたった一人で受け止めてきたのだ。彼が身勝手に捨てようとした日常の残骸を、拾い集めて。


 彼女は逃げなかったのではない。逃げる場所などないこの泥濘(ぬかるみ)の中で、ずっと僕の手を探してくれていたのだ。


 そこには、彼が夢見た「成功」は何一つない。

 あるのは、どん底の病室と、疲れ切ったかつての恋人だけ。

 だが、そのやつれた顔は、彼が夢の中で見たどんな絶景よりも鮮烈で、胸を締め付けるほどに美しかった。


 彼女の瞳から、大粒の涙が溢れ出し、頬を伝ってシーツに吸い込まれていく。

 言葉にならない嗚咽を漏らす彼女の手を、彼は弱々しく、けれど精一杯の力を込めて握り返した。

 その掌の荒れだけが、彼が生きている証だった。


 喉の管の違和感に抗いながら、彼は唇を動かす。

 声にはならなかったかもしれない。

 それでも、その言葉は確かに、二人の間の空気を震わせた。


「……ただいま」


 世界は終わらなかった。

 あるいは一度終わり、ここからまた、不格好に始まるのだ。

(了)

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午前0時のエンドロール | 幸せな悪夢と、痛いほどの現実について 銀 護力(しろがね もりよし) @kana07

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