第三章 崩壊のサイレン、あるいは産声
夜、彼は再びAMGのハンドルを握っていた。
隣にはレイナがいる。彼女は今夜も完璧だ。だが今の彼には、彼女が精巧な蝋人形に見えて仕方がない。彼女が唇を動かすたび、言葉の意味よりも、顎の関節がカチ、カチ、と鳴る乾いた摩擦音ばかりが耳につく。
「ねえ、聞いてる? 今度の休暇はモルディブに……」
彼女の声が、不意にノイズ混じりのラジオのように歪んだ。
空間が、軋んでいる。
フロントガラスの向こう、高速道路の中央分離帯に、またあの少女が立っていた。
濡れた制服。裸足のまま。
彼女は今にも泣き出しそうな顔で、彼に向かって手を伸ばしていた。
『急いで!』
今度は、声が聞こえた。鼓膜ではなく、肋骨の内側を直接鷲掴みにされたような、痛みを伴う叫びだった。
その瞬間、彼の中で張り詰めていた何かが、音を立てて決壊した。
「……もう、いいんだ」
彼は呟いた。ハンドルを切る。車線変更ではない。彼女のいる場所――論理も、常識も、これまでの積み上げてきた「成功」という名の舞台装置が存在しない場所へ。
「ちょっと、何してるの!?」
レイナの悲鳴が、早回しのテープのように甲高く変質して遠のく。
その歪んだ音の中に、彼は一瞬、怯えた少女の気配を感じ取った。彼女もまた、この張りぼての舞台が崩れ落ちる恐怖に震えながら、必死に「幸福な女」の役を演じ続けていたのかもしれない。自分と同じように。
だが、もう戻れない。
彼はアクセルを踏み込んだ。少女の伸ばした手に向かって。
指先が、ガラス越しではない、彼女の実存に触れた瞬間。
世界が、ホワイトアウトした。
ガガガガガガッ!
耳をつんざくような音が響いた。
それは車の衝突音ではない。もっと無機質で、冷徹な電子音――生命維持装置のアラートだった。
視覚情報が、暴力的に遮断される。
煌びやかな夜景も、完璧な婚約者の顔も、閃光の中に掻き消えた。
残ったのは、音と、痛みだけだ。
高級車の革の感触は消え失せ、代わりに全身の骨がきしむほどの圧力が襲う。
熱い。いや、寒い。
鼻の奥をツンと突く、鉄錆と血の匂いが逆流してくる。
ドン!
胸に、巨大なハンマーで殴られたような衝撃が走った。
息ができない。肺が焼けるようだ。
けれど、その耐え難い激痛こそが、彼が久しく忘れていた「生」の感触だった。
虚構の麻酔が切れ、現実の痛みが彼を食い破る。
(痛い……苦しい……)
だが、その苦痛の濁流の中で、右手だけが、確かな「質量」を握りしめていた。
それは、少女の手の荒れた感触。
その一点だけが、崩れ落ちる世界の中で唯一、彼を現世へと繋ぎ止める碇(いかり)だった。
ピー、ピー、ピー、ピー。
規則的な電子音が、彼を底なしの闇から引きずり上げていく。
「戻ってこい! 死ぬな!」
誰かの怒声。遠くで泣き叫ぶ女の声。
光の渦が、彼の意識を飲み込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます