第1章【第2話】ノイズと盤面
一ノ瀬蓮が転校してきて一週間。教室の空気は、緩やかに、だが確実に変質していた。 佐伯を中心とするグループは、あからさまに一ノ瀬を無視し、彼がそこに存在しないかのように振る舞う「透明化」の戦術をとっていた。それは、和を乱す異分子に対する、この進学校で最も洗練された刑罰だった。
だが、その刑罰は一ノ瀬には全く通用しなかった。
「……あ、三手前、飛車を振るんじゃなくて歩を突くべきだったか」
昼休み。ざわつく教室内で、一ノ瀬は独り、弁当の横に広げたノートに自作の局面図を描き込んでいた。 彼にとって、クラスメイトが自分を避けることは、対局中に観客が静かであることと同じだった。むしろ「ノイズ」が減って、思考の純度は高まっている。
「ねえ、佐伯君。この前の模試の数学、大問四の解説してくれない?」 佐伯の周りに、数人の生徒が集まっていた。佐伯は一ノ瀬のすぐ前の席で、わざと大きな声で応じる。 「ああ、あれね。あれはベクトルと見せかけて、実は図形の性質を使うと三行で終わるパズルなんだ。一ノ瀬君みたいな、将棋好きの人なら得意なんじゃないかな。まあ、将棋と受験数学が同じレベルならの話だけどね」
取り巻きたちがくすくすと笑う。佐伯は一ノ瀬の反応を伺うように、背中で気配を探った。 だが、一ノ瀬はノートから顔を上げない。 「……三行か。それは美しい手順だね」
ボソリと漏らされた言葉に、佐伯が眉を寄せて振り返る。 「え、何? 聞いてたの?」
「うん。その問題、僕もさっき解いてみた。確かに、補助線を一本引けば、あとはドミノ倒しみたいに答えが出る。良い構成の問題だと思ったよ」
一ノ瀬は初めて佐伯と目を合わせた。その瞳は、嫌味を言われた被害者のものではなく、同じ難問(パズル)に挑んだ戦友を労うような、無邪気な敬意に満ちていた。 佐伯は鼻を鳴らした。 「……ふうん。まあ、僕たちは『合格』っていう出口があるから必死なんだよ。出口のない将棋をずっと考えてる君とは、時間の使い方の重みが違うんだ」
「重み、か。……確かに、僕の考えてるこれは、誰にも評価されないからね」 一ノ瀬は自分のノートを見つめ、少しだけ寂しそうに微笑んだ。 「でも、出口がないからこそ、どこまでも遠くに行ける気がするんだ。合格した瞬間に捨ててしまうような知識より、一生付き合える『問い』の方が、僕にとっては重い」
教室内から私語が消えた。 受験を「人生の重荷」として耐えている生徒たちにとって、一ノ瀬の言葉は、自分たちが必死に守っている価値観が、ひどく薄っぺらなものに聞こえてしまう毒を持っていた。
佐伯は、奥歯を噛みしめた。 一ノ瀬を「浮いた存在」にしているつもりが、いつの間にか自分たちの方が、狭い檻の中で騒いでいる猿のように思えてくる。
その日の放課後。 佐伯は一人の取り巻きに耳打ちした。 「明日さ、あいつのあの薄汚い本、どこかに隠しとけよ。ちょっと頭を冷やさせてやる」
窓の外、冬の木枯らしが校舎を叩く。 一ノ瀬は、帰り際にもう一度ノートを開いた。 明日は、将棋連盟の道場へ行く日だ。そこには、受験の合否など誰も気にしない、ただ「次の一手」に魂を削る老人や子供たちが待っている。
一ノ瀬にとっての戦場は、もはやこの教室にはなかった。
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