十二月の異物
@melon99
第1章:『三三手詰の静寂』【第1話】十二月の異物
十二月の教室は、乾燥した冷気と、焦げ付くような焦燥感に満ちていた。 進学校であるこの高校の三年生にとって、休み時間は「休息」ではない。それは単語帳を指でなぞり、模試の判定に一喜一憂し、隣の席の鉛筆の音に神経を尖らせる、終わりのない消耗戦の合間に過ぎない。
「……一ノ瀬蓮です。よろしく」
教壇に立った転校生の挨拶は、驚くほど短かった。 担任が補足する経歴や前の学校の話を、一ノ瀬はまるで自分とは無関係な噂話でも聞くような顔で受け流している。窓から差し込む冬の低い陽光が、彼の少し伸びた前髪を白く透かしていた。
割り当てられた席は、クラスの「王」を自認する佐伯のすぐ後ろだった。 佐伯は、新入りを値踏みするように細めた目で見上げたが、一ノ瀬は彼と視線を合わせることさえしなかった。鞄から取り出したのは、数学のチャート式でも、英語の頻出問題集でもない。
茶色く変色した、薄い文庫本。 表紙には、古めかしいフォントで『詰将棋パラダイス』と書かれていた。
一ノ瀬は椅子に深く腰掛けると、そのまま世界から音を消した。 周囲では共通試験の足切りラインについての議論が激しさを増していたが、彼の指先はただ、机の端にある仮想の九×九の宇宙を、ゆっくりと、正確になぞり始めた。
一ノ瀬蓮。 それが、この停滞した教室という盤面に打ち込まれた、最大かつ最悪の「異物」だったことに、まだ誰も気づいていなかった。 休み時間を告げるチャイムが鳴ると、教室内には参考書をめくる音と、低く抑えられた私語が混ざり合った。 クラスの「中心」は、自然と佐伯の周りに形成される。彼は模試の結果が印字された成績表を机に無造作に置き、取り巻きたちとの会話に興じていた。だが、その視線は時折、斜め後ろに座る新しい背中に向けられていた。
佐伯は、椅子を鳴らさないようにスマートに立ち上がると、一ノ瀬の席へと歩み寄った。
「一ノ瀬……君、だったっけ」
穏やかで、聞き取りやすい声。いかにも育ちの良い優等生といった風情で、佐伯は一ノ瀬の机の横に立った。 一ノ瀬は、ボロボロの『詰将棋パラダイス』を見つめたまま動かない。ページをめくる指だけが、乾いた音を立てた。
「一ノ瀬君?」
佐伯は少しだけ声を強め、覗き込むように顔を近づけた。一ノ瀬がようやく顔を上げる。その瞳は、焦点が合うまでに数秒の時間を要した。まるで遠い異国から、ようやく帰還したかのような目だった。
「……何か、用?」
「いや。この時期の転校は大変だと思ってさ。何か困ったことがあれば言ってよ。一応、僕が学級委員をやってるから」
佐伯は親切な微笑を浮かべたが、その視線は一ノ瀬の手元にある古い文庫本に、明らかに「場違いなもの」を見る色を込めて固定されていた。
「それにしても、熱心だね。それは……趣味かな?」
「趣味……かな。僕にとっては、呼吸に近い」
一ノ瀬の声には、謙遜も気負いもなかった。 「今、三十三手詰の最終盤なんだ。あと少しで、この王将が捕まる。だから、悪いけど後にしてくれないか。今、指を離すと手順が消えそうなんだ」
佐伯の眉が、ピクリと跳ねた。 学級委員として、親切心(を装ったマウント)を見せた自分に対し、一ノ瀬は「将棋の思考」を優先したのだ。周囲にいた生徒たちが、ハッとして手を止める。
「……あ、ごめん。邪魔しちゃったかな」
佐伯は笑みを絶やさなかったが、その瞳の奥には冷ややかな光が宿った。 「でも、少し心配だな。今の時期はみんな必死だし、教室の空気もピリついてる。将棋を指すなとは言わないけど……あまり一人で浮いちゃうと、損をするのは一ノ瀬君自身だと思うよ?」
それは、明確な「忠告」という名の威圧だった。 だが一ノ瀬は、既にその言葉の半分も聞いてはいなかった。彼の意識は再び、机の上の木目に展開された仮想の戦場へと沈んでいた。
「アドバイス、ありがとう。……でも、浮いてるのは僕じゃなくて、王将の方なんだ」
一ノ瀬は独り言のように呟き、ペン先で盤面の一点を静かに突いた。 佐伯は、自分が差し出した「優等生の手」が、完膚なきまでに空を切ったことを悟った。怒りよりも先に、理解できない存在への不気味さが、背筋を通り過ぎる。
「……そうか。なら、邪魔したね」
佐伯はスマートに踵を返した。取り巻きたちの元へ戻る彼の背中は、先ほどよりも一層硬く、鋭い拒絶のオーラを纏っていた。
一ノ瀬は、その気配にさえ気づかない。 窓の外では、鉛色の雲が冬の太陽を隠そうとしていた。 一ノ瀬蓮という異物が、この教室の欺瞞を根底から粉砕していく物語の、それが最初の一手だった。
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