第12話 条件は、先に出した者のものだ

沈黙を破ったのは、神崎だった。


 鷹宮が何も言わないことを、神崎は見逃さない。むしろ、その沈黙を「合図」だと理解している。国家が踏み込まないと決めた瞬間、市場は一歩、前に出られる。


「安心していいよ」


 神崎は、軽い調子で言った。玄関の壁に背を預けたまま、視線だけを俺に向ける。


「今すぐ何かを差し出せ、なんて話じゃない。契約書も、独占も、囲い込みもない」


 黒瀬が、微かに身構える。

 鷹宮は、動かない。


「ただ、条件を一つだけ出しに来た」


 神崎は、指を一本立てた。


「最初に値段を付けるのは、俺にさせてほしい」


 空気が、わずかに張る。


「値段?」


 俺が聞き返すと、神崎は満足そうに頷いた。


「そう。君が持ってる“それ”にだ」


 言葉を濁したままでも、意味は通じる。

 黒瀬は視線を落とし、鷹宮は初めて神崎を見る。


「値段を付けないものは、世界に長く居場所を持てない。これは経験則だ。善意でも、秘密でも、例外はない」


 神崎は一歩、前に出た。ただし、境界線は越えない。玄関の敷居には足を掛けない。


「君が何を選ぶにしても、最終的に“交換”は発生する。時間、責任、沈黙、安全。全部コストだ。だったら、最初から数字にしておいたほうがいい」


「……独占する気はないって言ったよな」


 俺が言うと、神崎は肩をすくめた。


「できない。できるなら、もうやってる。これは独占に向かない。だからこそ、条件なんだ」


 鷹宮が、低く言った。


「条件は、管理に変わる」


 神崎は即座に首を横に振る。


「違う。管理は“守るために縛る”。条件は“選ぶために置く”。縛らない。逃げ道も用意する」


 黒瀬が、思わず口を挟む。


「それって……結局、圧力じゃない?」


 神崎は黒瀬を見る。敵意はない。評価でもない。


「圧は、もうかかってる。市場じゃなくてもね。だったら、形が見える圧のほうがマシだ」


 俺は、息を吸った。


「具体的には」


 神崎は、待っていたと言わんばかりに頷く。


「第一に、供給の量とタイミングを、君が決めることを前提にする。市場は、それを尊重する。無理に増やさせない」


 鷹宮の視線が鋭くなる。

 黒瀬は、黙って聞いている。


「第二に、最初の“価格”は、象徴的な数字にする。高くもしないし、安売りもしない。理由は簡単だ。誰でも払えるが、冗談では済まない額」


 俺の頭に、一万円という数字が浮かぶ。

 神崎は、それを見透かしたように続けた。


「第三に、君の名前を出さない。少なくとも最初は。供給源は“匿名”。市場は“現象”として扱う」


 鷹宮が、ここで口を開いた。


「匿名は、責任の所在を曖昧にする」


 神崎は、静かに返す。


「最初から責任を一点に集めるほうが、よほど危険だ。国家も、分かってるはずだろ」


 鷹宮は答えない。否定もしない。

 その沈黙が、神崎の提案を“切れない”ことを示している。


 俺は、玄関の床を見つめた。


「……それで、俺に何の得がある」


 神崎は、少しだけ真面目な顔になる。


「生き延びられる。選択肢を残したまま」


 即答だった。


「君は今、選べるようで選べない状態にいる。隠しても、配っても、使わなくても、圧は増える。だったら、条件を一つ置くことで、圧の形を変える」


 黒瀬が、小さく言う。


「もし……断ったら?」


 神崎は、正直に答えた。


「別の誰かが、別の条件を置く。たぶん、もっと乱暴なやつだ」


 鷹宮の目が、わずかに細くなる。

 否定はしない。否定できない。


 神崎は、最後に俺を見る。


「今、決めなくていい。今日は条件を置いただけだ。先に置いた者の条件は、後から来た条件より、必ず参照される。それだけ覚えておいてほしい」


 玄関に、再び沈黙が落ちる。


 黒瀬は何も言わない。ただ、俺の横に立つ。

 鷹宮は踏み込まない。だが、撤退もしない。

 神崎は一歩引く。条件だけを残して。


 俺は、ゆっくりと顔を上げた。


「……今日は、それだけですか」


 神崎は笑った。


「十分すぎるほどだ」


 その夜、

 最初の条件が、世界に置かれた。


 契約はない。

 署名もない。

 だが、確実に。


 そして鷹宮は理解している。

 踏み込まない間に、主導権の一部が市場へ移ったことを。


 黒瀬も理解している。

 理屈では止められない段階に入ったことを。


 俺だけが、まだ完全には分かっていなかった。


 ――条件を受け入れることと、

 条件を選ばされることの違いを。

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