第11話 ドアが開く
ノックの音は、なかった。
鍵が回る音もしなかった。ただ、ドアノブがゆっくりと下がり、まるで「最初からそういう予定だった」かのように、玄関のドアが静かに内側へ開いた。
俺は、その瞬間に理解してしまった。これは偶然じゃない。予定でもない。だが、避けられない重なりだ。
開いたドアの向こうに、三つの視線があった。
一番近い位置に立っていたのは、黒瀬だった。息を少し乱し、肩にかけたバッグを無意識に握りしめている。研究室で見るよりも、ずっと“生活側”の人間の顔をしている。それでも、目だけは違った。見てはいけないものを、もう見てしまった人間の目だ。
その少し後ろ、半歩離れた位置に、鷹宮が立っていた。姿勢は崩れていない。呼吸も整っている。こちらを正面から見ているのに、視線は俺ではなく、この空間そのものを測っているようだった。踏み込む気配はない。だが、引く気もない。
さらにその横、壁際に寄りかかるように立っているのが神崎だった。腕を組み、楽しそうに口元を歪めている。視線は一直線に俺を捉えていた。迷いも、躊躇もない。値段を付ける対象を見つけた人間の目だ。
誰も、すぐには口を開かなかった。
沈黙は、玄関の狭さを強調する。ここは六畳一間の入り口で、会議室でも、研究室でも、交渉の場でもない。ただの帰る場所だ。だからこそ、この状況は異様だった。
「……」
最初に息を吸ったのは、俺だった。
このまま黙っていれば、誰かが喋る。黒瀬は、きっと優しい言葉を選ぶ。神崎は、条件を出す。鷹宮は、何も言わないまま場を支配する。
だから――先に、言う必要があった。
「何か、用ですか」
自分の声が、思ったより低く聞こえた。
黒瀬が、わずかに眉を動かす。その変化は小さい。だが、予定と違うという反応だった。
「……突然、ごめん」
黒瀬が言った。声は柔らかい。あくまで、友人としての距離感を保っている。
「連絡、つかなかったから」
嘘だ、と俺は思う。黒瀬は連絡がつかない程度で、ここまでは来ない。だが、その嘘を指摘する意味はない。
「帰り道が、たまたま一緒でね」
今度は神崎が言った。明らかな嘘を、楽しそうに混ぜる。視線を外さない。
「いやあ、生活圏ってのは面白い。数字が全部、ここに集まってる」
鷹宮は、何も言わない。
ただ、ドアと俺の距離、三人の立ち位置、靴の向き、逃げ道の有無を、静かに把握している。その沈黙が、一番重い。
俺は、玄関のドアを全開にはしなかった。半分だけ開けたまま、体で内側を隠す。この部屋の奥を、誰にも見せないための無意識の動作だ。
「立ち話で済むなら、ここで」
神崎が笑った。
「いいね。玄関は交渉に向いてる。帰るか入るか、二択だから」
黒瀬が、神崎を一瞬だけ睨む。その視線は短く、だが鋭い。彼女は、この場を壊したくない。
「私、今日は……」
黒瀬が言いかけて、言葉を切る。言う理由がないことを、彼女自身が分かっているからだ。
鷹宮が、ようやく口を開いた。
「心配するな」
低く、抑えた声だった。命令でも、助言でもない。ただの事実確認のような言い方。
「今日は、確認に来ただけだ」
その言葉に、神崎が小さく笑う。
「それを“確認”って言うのは、国家だけだよ」
鷹宮は、神崎を見ない。
「値段を付ける話でもない」
今度は、俺を見た。その視線は、評価ではない。境界線を引く人間の目だ。
「管理する話でもない」
黒瀬が、息を呑む音がした。
俺は、ここでようやく理解する。
この三人は、目的が違う。だが、ここに来た理由は同じだ。
――俺が、ここにいるから。
「……入りますか」
自分でも驚くほど、冷静に言えた。
三人の視線が、一瞬だけ揃う。
神崎は楽しそうに。
黒瀬は不安そうに。
鷹宮は、何も映さずに。
「それとも」
俺は続ける。
「ここで、用件だけ言いますか」
沈黙が、再び落ちる。
この瞬間、選択権は俺にあるように見える。だが、実際は違う。どちらを選んでも、同じ場所に行き着く。
鷹宮が、わずかに顎を引いた。
「踏み込まない」
それだけ言った。
だが、踏み込まないことで、この場を完全に支配している。
黒瀬は、何も言わない。ただ、俺を見ている。助ける気も、暴く気もない。ただ、隣に立つ覚悟だけがある。
神崎は、玄関の床を見下ろしながら呟く。
「……やっぱり、いい場所だ。ここ」
その言葉が、やけに不吉に響いた。
俺は、ドアノブから手を離した。
ドアは、開いたままだ。
閉じても、意味がないと分かってしまったからだ。
この夜、
生活の入り口が、世界と直結した。
そして、誰もまだ、
一番危険な言葉を口にしていない。
それが、
本当の衝突の始まりだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます