第10話 同じ夜に、別の理由で
1.黒瀬
黒瀬は、研究室の明かりを消してからもしばらく立ち尽くしていた。
端末の画面は落ちている。
データは保存していない。
何一つ、持ち出していない。
それでも、もう戻れないことだけは分かっていた。
彼女は、スマホを取り出す。
連絡先の一覧を、開いて、閉じる。
開いて、閉じる。
名前は、分かっている。
声も、知っている。
だが――
聞く理由が、まだない。
黒瀬は、深く息を吸った。
「……直接、見たほうが早い」
それは研究者としての判断であり、
同時に、人としての逃げでもあった。
生活の場所。
理屈が及ばない場所。
そこに行かなければ、
この違和感は言葉にならない。
黒瀬は、バッグを肩にかけ、研究室を出た。
向かう先は、
まだ誰にも言っていない、ただの場所。
2.鷹宮
鷹宮は、官庁街を出るとき、コートの前を留めなかった。
夜風は冷たい。
だが、寒さを理由に行動を変える人間ではない。
車は呼ばない。
随行も付けない。
この件は、公式ではない。
彼は歩きながら、頭の中で線を引き続けていた。
越えてはいけない線。
引いてはいけない線。
国家が踏み込めば、
それは「管理」になる。
管理になった瞬間、
守るはずのものが、対象に変わる。
だから――
見るだけ。
鷹宮は、ポケットの中の端末を一度だけ確認する。
表示されているのは、地図。
赤も、警告も、ない。
ただ、空白がある。
「……ここか」
独り言は、風に消えた。
鷹宮は、理解している。
この一歩は、
踏み込みではない。
境界を確認するための接近だ。
3.神崎
神崎は、エレベーターの中で笑っていた。
理由は単純だ。
面白い夜になる。
投資先からの連絡を、すべて保留にした。
数字はもう見ない。
今日は、
数字になる前のものを見に行く。
「値段が付かないなら、
付ける前に触るしかない」
神崎は、コートを羽織り、車に乗り込む。
運転席には、誰もいない。
目的地だけを入力する。
ナビが、無感情にルートを示した。
「……生活圏、か」
小さく呟く。
工場でもない。
研究施設でもない。
オフィス街ですらない。
誰かの帰る場所。
神崎は、舌打ちする。
「一番、金の匂いがしない場所だ」
だからこそ、
市場は後手に回る。
だからこそ、
最初に触れた人間が勝つ。
4.主人公
その夜、俺はいつもより早く風呂を済ませた。
理由はない。
ただ、落ち着かなかった。
電気は、問題なくついている。
エアコンも、静かに動いている。
なのに、
部屋が狭く感じる。
スマホを見る。
連絡はない。
黒瀬からも。
大学からも。
それが、逆に不安だった。
「……今日は、使わないようにしよう」
声に出して言う。
誰に聞かせるでもない。
自分に言い聞かせるための言葉。
窓の外を見る。
アパートの明かり。
道路を走る車。
いつもの夜。
だが、
同じ夜じゃない。
理由は分からない。
説明もできない。
ただ、確信だけがある。
今夜、何かが来る。
俺は、玄関の鍵を確認した。
閉まっている。
問題ない。
それでも、
胸の奥がざわつく。
この場所は、
俺が選んだ場所だ。
逃げ場じゃない。
隠れ家でもない。
生活そのものだ。
だから――
ここで起きる。
同じ夜。
同じ街。
同じ、名もない地点。
理由の違う三人が、
同じ場所へ向かって歩いている。
誰も、
まだ会っていない。
誰も、
まだ言葉を交わしていない。
だが、
衝突は、もう始まっている。
次にドアが開くとき、
世界は、もう一段近づく。
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