第7話 何も知らないふり

 黒瀬は、わざと少し遅れて学食に入った。


 昼休みのピークが過ぎ、人の流れが緩んだ時間帯。騒がしさが落ち着き、席の間に余白ができる。話しかけるには、ちょうどいい。


 トレイを持ったまま、視線を巡らせる。


 ――いた。


 窓際の席。

 一人。

 スマホも見ていない。


 黒瀬は、深呼吸を一つしてから歩み寄った。


「ここ、いい?」


 声は、いつもより少し高め。

 意識して、何も考えていない声を作る。


「……あ、黒瀬」


 彼は少し驚いた顔をして、それから頷いた。


「どうぞ」


 向かいに座る。トレイを置く音が、やけに大きく聞こえた。黒瀬は、自分の手が震えていないことを確認してから、箸を取る。


「この時間、珍しいね」


「午前の講義、早く終わって」


「そっか」


 他愛のない会話。

 何も知らない人同士の距離。


 黒瀬は、安心しかけてしまう自分を戒めた。


「昨日さ」


 軽い調子で切り出す。


「停電、なかった?」


 彼の反応を、見逃さない。


 一瞬。

 ほんの一瞬だけ、まばたきが遅れる。


「……ああ、あったかも」


 言い方は自然だ。

 曖昧で、曖昧すぎる。


「古い建物だしね」


 彼は、そう付け足した。


「だよね」


 黒瀬は、笑う。


 追及しない。

 今は、しない。


「最近、インフラ系の話題多いじゃん。

 通信が遅れただの、データが欠けただの」


 あくまで、世間話。


「へえ」


 彼は、相槌を打つ。


「よく分からないけど、

 生活できてるなら問題ないかなって」


 その言葉に、黒瀬は一瞬、視線を落とした。


 生活できているなら。


 まるで、結論を知っている人の言葉だった。


「そうだね」


 黒瀬は、肯定する。


「研究者的には困るけど」


 冗談めかして言うと、彼は小さく笑った。


 その笑顔が、胸に刺さる。


 これは、責められる人の顔じゃない。

 逃げている人の顔でもない。


 必死に、普通でいようとしている人の顔だ。


 食事が進む。

 周囲の雑音が、ゆっくり戻ってくる。


「ねえ」


 黒瀬は、箸を置いた。


 ここだ。

 踏み込みすぎず、でも意味を残す。


「もしさ」


 声を、少しだけ落とす。


「説明できないことが起きて、

 それでも誰にも言えなかったら」


 彼は、黒瀬を見る。


 逃げない。

 逸らさない。


「……うん」


「どうする?」


 答えを、求めていない問い。


 彼は少し考えてから、言った。


「……とりあえず、生活するかな」


 黒瀬は、息を止めた。


 正解すぎた。


「理由が分からなくても?」


「分からないから」


 彼は、困ったように笑う。


「壊すより、続けたほうがいい気がする」


 黒瀬は、何も言えなかった。


 この人は、

 世界を変える気なんてない。


 ただ、

 壊したくないだけだ。


「……そっか」


 それだけ言って、食事を再開する。


 もう、これ以上は聞かない。

 今日の目的は、達した。


 黒瀬は、理解した。


 この人は、

 問い詰めた瞬間に壊れる。


 理屈で追い詰めたら、

 きっと一人で全部背負う。


 だから――

 今は、隣に座る。


 学食を出る時、黒瀬は立ち止まった。


「また、話そう」


「うん」


 短いやり取り。


 それなのに、

 黒瀬の胸は、ひどく重かった。


 背中を向けて歩きながら、彼女は思う。


 まだ、言わない。

 まだ、暴かない。


 でも――

 一人にはしない。


 それが、黒瀬が選んだ立場だった。


 知らないふりをしたまま、

 世界のすぐそばに立つ。


 それが、

 今できる唯一の正解だと、

 黒瀬は信じることにした。

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