第6話 黒瀬は、合わない数字を見る
最初は、ただのノイズだと思った。
研究室の端末に向かい、黒瀬は公開インフラデータを流し見していた。研究テーマとは直接関係がない。別件の検証に使ったついでに、画面に残っていただけの数字だ。
だから、見逃してもよかった。
だが、目が止まった。
「……合わない」
独り言は、癖だった。
都市部の電力使用量。時間帯別の需要推移。全体としては安定している。急激な変動も、異常なスパイクもない。系統負荷も、予測の範囲内だ。
それなのに。
ある時間帯だけ、欠けている。
使われた形跡がない。
供給が止まった記録もない。
事故ログも、警報もない。
にもかかわらず、数値だけが存在しない。
「欠損……?」
過負荷では説明できない。
停電でもない。
計測ミスにしては、位置が正確すぎる。
黒瀬は時間軸を拡大した。
夜、二十一時過ぎ。
人が帰宅し、生活を再開する時間帯。
だが、同じ場所で同じ欠損は繰り返されていない。日によって規模が違う。発生する日もしない日もある。
再現性がない。
研究対象としては、最悪の部類だ。
彼女は、別のデータを重ねる。通信ログ、系統制御の履歴、需要予測の補正値。どれも「正常」の範囲に収まっている。
異常は、結果にしか存在しない。
黒瀬は、椅子に深く座り直した。
もし、供給が増えたのなら、どこかに痕跡が残る。
もし、消費が減ったのなら、生活パターンに変化が出る。
だが、どちらもない。
あるのは――
最初から、不要だったかのような振る舞い。
「……置き換わってる」
思わず、口に出た。
電力が生まれたわけじゃない。
消えたわけでもない。
意味が、失われている。
黒瀬は、背筋に小さな寒気を覚えた。
こんな現象は、自然には起きない。
自動制御でも、説明がつかない。
では何が必要か。
――判断。
状況を見て、
必要かどうかを決める何か。
黒瀬は、手元のメモに何も書かない。スクリーンショットも取らない。ただ、数字を眺め続ける。
これは発見じゃない。
法則でもない。
誰かが、選んでいる。
だが、それは世界を壊す選択じゃない。
誇示するための操作でもない。
規模が小さすぎる。
影響が限定されすぎている。
まるで――
生活を続けるためだけの判断。
「……やめて」
声は、自然に零れた。
この先を言葉にしたら、戻れなくなる。
名前を付けた瞬間に、対処しなければならなくなる。
黒瀬は、画面を閉じた。
報告はしない。
共有もしない。
今ここでできることは、
“まだ分からない”場所に留まることだけだ。
研究室を出ると、夕方のキャンパスは穏やかだった。学生たちの笑い声。自転車のベル。売店の呼び込み。
世界は、何も変わっていない。
それが、いちばん怖かった。
黒瀬は歩きながら、静かに理解する。
これは、理屈では止まらない。
理屈に辿り着いた時点で、遅い。
必要なのは、説明でも証明でもない。
話すことだ。
相手が誰かは、まだ分からない。
だがきっと、
それは現象じゃない。
人だ。
黒瀬は、初めてそう確信してしまった。
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