第2話 我があるじ

 おれはしかたなくチュールからいったん口を離し、チヒロの顔をじっと見つめた。ちいさく鳴き声をあげてみる。猫にとって、あるじの精神状態の変化には敏感になっておかなければならない。万が一にも、飼育を放棄されるようなことになれば死活問題だ。


 チュールへの欲望をぐっとこらえて、おれはチヒロの膝のうえにとことこと移動した。体を伸ばして、おおきな胸にまえ足をのせる。肉球の裏にやわらかな感触。猫が人間ほど表情豊かな動物じゃなくてよかった。

 おれはできるだけチヒロの顔に自分の鼻先を近づけ、ひくひくとにおいを嗅いでみた。化粧品、香水、シャンプー、ヘアフレグランス。どれも正直、不快なにおいでしかない。

 だが、チヒロの身体から放たれるフェロモンには、不思議なリラックス効果がある。あたたかい透明の膜につつまれる感覚。今はそのなかに、すこししょっぱい感情が混じっている。神秘的な猫の感受性。

 チヒロは指先で涙を拭うと、おれを突然抱きかかえた。


「おまえはカワイイなあ。私を心配してくれてるの?」


 そういって、おれの鼻先に人差し指をつんつんとあてる。おれはとりあえず、ニャーと返した。ようやくチヒロの顔に笑みがもどる。やれやれ。

 チヒロの涙の理由はまったくわからないが、しゃべることもできない猫の状態では、こうやってあるじを癒すことしかできない。

 いや、むしろ猫だからこそよいのかもしれない。仮に今おれが人間に戻ったとして、赤の他人のチヒロにしてやれることなんて、なにひとつない。

 そう考えると、人間のときの仕事よりも、今の自分がやっていることのほうが、はるかに意味があるように思えた。衣食住を保証してもらう代わりに、とびきりの癒しをあるじにあたえるのだ。実に立派な仕事である。断じてヒモなどではない・・・・・・。たぶん。


 その夜は、いつも以上にチヒロと遊んでやった。投げられたボールを全力で追いかけ、チヒロが振りまわす先っぽに羽がついたおもちゃに、いちいち反応して猫パンチをくりだす。無邪気に笑うチヒロの顔。すこしは元気になっただろうか。


「そろそろおやすみしようか。今日はいっしょに寝てくれる?」


 チヒロはそういって、おれを抱きかかえて寝室のベッドに移動した。そのまま布団のなかにいれられ、体を引き寄せられる。チヒロの心臓の鼓動がはっきりと聞こえた。すこし息苦しくなって体勢を変えると、目に飛びこんできたのは、ざっくりと開いたTシャツの襟元。やわらかな胸の谷間。ノーブラ。今だけ人間に戻れないだろうか。よこしまな考えが頭をよぎる。

 だが、不思議とそれ以上の興奮を感じることはなかった。たぶんその理由は体が猫になったからではない。そう、おれは去勢済みなのだ。


 その事実に気がついたときには、さすが

にすこしショックを受けたが、まあ、冷静に考えるとあたりまえのことか、と納得した。望まない繁殖防止。病気予防。マーキングや発情行動の抑制。去勢は猫を飼ううえでメリットしかない。

 別に雌猫としたいわけでもないし、余計な煩悩から解き放たれたと割り切ろう。

 そのままチヒロの胸のなかにもぐりこんでやろうかとも思ったが、やめておいた。それは別の人間の男に譲ってやろう。おれにはあるじのあたたかい体温と、あまいにおいに包まれながら眠るだけで十分だ。

 まあ、もしもこの部屋に男があがりこむようなことがあれば、おれの爪と牙で八つ裂きにしてやるのだが。

 隣でしずかに寝息を立てるあるじの顔をながめながら、おれもゴロゴロと喉をならして眠りに落ちた。



 翌朝、チヒロはすっかり元気になったようで、ブラックコーヒーとベーグルをふたつあっという間に平らげると、ばたばたと会社へでかけていった。

 今日外に出るのは勘弁してやろう。おれが逃げだしたと勘違いして、チヒロにまた悲しい顔をさせたくなかった。それにガンダムの続きも気になる。

 おれはチヒロを見送ったあと、皿に残ったキャットフードをすべてかたずけ、リビングのローテーブルに飛びのって、テレビでネットフリックスをつけながら考えた。

 まずは、この部屋のなかで集められる情報から探してみよう。



 ガンダムの続きを二話すすめて、そこから三時間の睡眠をとった。体のエネルギーはフル充電されている。


(とにかく始めは外の様子の確認だ)


 この部屋で唯一、外をしっかりながめられそうな場所は、リビングの小窓だった。おおきな窓を開けて、ベランダの手摺りにのぼることができれば簡単なのだが、チヒロがベランダに出るところを、まだいちども見たことがない。洗面所にある乾燥機能付き洗濯機のおかけで、外に洗濯物を干す機会もないのだろう。おれが欲しくても手がでなかった、最新式のコンパクトドラム。

 薄々気づいてはいたが、チヒロはもしかしたらおれより断然高級取りなのかもしれない。おれはこんなに広い1LDKの部屋にひとりで住んで、ペットまで飼う余裕なんてぜんぜんなかった。若くて優秀な我があるじ。なぜだかちょっと心がいたい。


 おれは気をとり直して、ローテーブルのうえに立ち、頭上にある小窓を見あげた。紺色のカーテンの隙間から、かすかに青い空が見える。かなり距離がある気がするが、ここからジャンプして、あのカーテンに爪を引っかけることができれば、小窓の縁にたどりつけそうだ。


(よし、やってやる)


 おれは、うしろ足に力をこめて、勢いよく飛びあがった。

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デット・キャット・バウンス いさみけい @isami1127hy

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