デット・キャット・バウンス

いさみけい

第1話 猫転生

 吾輩は猫である。名前はまだない。

 そんなセリフを思わず口にしたくなり、声にだしてみると、喉から"ニャー"という鳴き声が漏れた。


 カーテンの隙間から朝日の差しこむ広々とした寝室。ベッド脇の壁に立てかけられた姿見をのぞきこんで、あらためて自覚する。

 おれは猫だ。完全に猫になっている。まだ成猫になっていない、つぶらな瞳の三毛。足がふつうの猫よりもすこし短いだろうか。


「サンちゃん、お腹すいたの?朝ご飯あげるから、もうちょっとまってね」


 猫なで声の若い女が、おれの顎のしたを細い指先でくすぐった。なぜだか心地よくて、喉からゴロゴロと音が鳴る。三毛猫だから『サン』なのだろうか。安直なネーミング。


 女の名前はチヒロ。この部屋のあるじであり、おれの飼い主。グレーのパンツスーツに、身体のラインに沿った白のニットシャツがよく似合っている。

 チヒロはいつものように、キッチンの棚からエサをとりだした。リビングにある猫用のちいさな皿に、ドライフードがカラカラと音を立てて落ちる。途端に食欲をそそる強烈なにおいが、鼻から脳へ稲妻のように駆け抜け、おれは思わず走りだした。



「ゆっくりたべるんだよ」


 チヒロの言葉を気にもせず、おれは皿に頭をつっこんだ。そのままガツガツとエサを頬張る。湧きあがる異常な食欲に、咀嚼そしゃくしながら思わずミャンミャンと変な声が漏れた。


「なにそのたべかた。ウケる」


 チヒロが笑いながら、おれの頭をなでた。

 なんでこんなものがおいしく感じるのだろう。カリカリのキャットフードは、人間のときにたべたどの料理よりも、衝撃的な味をしていた。


 エサをたべ終わると、こんどは強烈な眠気が襲ってきた。どんなに目を開けようとしても、自然とまぶたが落ちてしまう。

 おれはよたよたとした足取りで、リビングの隅に置かれた猫用のクッションまでたどり着くと、そのふわふわのうえで身体を丸めた。薄れゆく意識のなかで、チヒロの声がきこえる。


「いい子にお留守番しててね。いってきまーす」


 (今日こそ部屋の外へ出てみたかったのに)


 またチャンスを逃してしまった。そう思いながら、玄関のドアが閉まると同時に、おれの意識は暗転した。



 夢のなかで、人間だったころの記憶がよみがえった。憂鬱な朝の通勤。たいしておもしろくもない仕事。残業時間の割に安い給料。そろそろ結婚を意識していた彼女との突然の別れ。いつの間にか、人生の貴重な若い時間が終わろうとしている。いいようのない焦りと不安から逃れるように、部屋でひとりゲームに没頭する休日。

 そんなとき、ふと思った。

 生まれ変わったら、猫になりたい。

 それも、若くて美しい女の家で、何不自由なく一生だらだら過ごしたい。

 まさか、そんな馬鹿げた妄想が現実になるなんて・・・・・・。



 目が覚めると、おれはおもむろにリビングのソファーによじ登った。ローテーブルのうえにおかれたデジタル時計に目をやると、十四時五十分。チヒロが帰ってくるまでに、まだかなりの時間がある・・・・・・。暇だ。

 おれはソファーからローテーブルに飛び移り、テレビのリモコンの電源ボタンを肉球で押した。


 おれが猫になってから、かれこれ一週間が経つ。おそらくおれは、転生して猫に生まれ変わったのだろう・・・・・・。そう思うようにした。

 というのも、死んだ瞬間の記憶がまったくないのだ。思い出そうとしても、その都度頭がぼんやりして、霧がかかったように記憶のかたちをつかむことができなかった。

 他にも気になることはいくつもあるが、とりあえずおれは、諸々の疑問をすべて棚上げした。

 今はなにより、ネットフリックスを見ることが最優先事項なのだ。

 始めは慣れなかったが、人間の身体能力を遥かに凌駕した猫の体は意外にも便利で、おれはまえ足の爪でテレビのリモコンを操作して、気になっていたガンダムの最新作を流しながら、テーブルのうえで毛繕いを始めた(猫として必要な行動は、体が勝手に動いてしまうらしい)。


 一時間もしないうちに、また強い眠気が襲ってきた。おれはテレビを消して、テーブルからソファーのうえに移動した。ヘソを天井にむけて、全身をおもいっきり伸ばす。


(ああ、最高だ)


 おれはニャーと鳴きながら、おおきなあくびをした。まあ、外にでるチャンスはいくらでもある。つぎはチヒロが帰ってくる時間を見計らって、玄関で待ち伏せしてみよう。そんなことを考えているうちに、おれはまた眠りに落ちた。


「ただいまー。いい子にしてた?」


 チヒロに頭をなでられて目が覚めた。


(またやってしまった)


 玄関のほうを見ると、当然ドアは閉まっている。あるじの帰宅の気配にまったく気づくことなく熟睡。なんてアホなんだろうか。

 おれが落ちこんでいると、チヒロがいった。


「今日もちゃんと、上手にトイレできた?」


 そういわれてハッとした。いちどリビングのカーペットで粗相をしてしまったことがあるのだ。いい大人がなさけない話。

 だが、あのときはまだ体のコントロールもうまくできなかったし、そもそもパニックでトイレの場所さえわからなかったのだ。そんないいわけを考えているうちに、どんどん尿意が迫ってくる。

 おれはあわててソファーから飛びおりて、トイレ目がけて猛ダッシュした。敷き詰められた猫砂のうえに到着するなり、そのまま放尿する。間にあった。おれがほっとしていると、横から視線を感じた。チヒロが嬉しそうにおれの排泄をながめている。


「うんちはいいの?」


 便意はまだなかった。おれは恥ずかしくなって、チヒロにむかって鋭い鳴き声をあげた。猫といえど、最低限のプライバシーは尊重してほしいものだ。おれはすこし不機嫌になりながら、自分の尿で濡れた砂を隠すように、うえからきれいな砂をかぶせた。


「サンはおりこうだねえ。ご褒美にチュールをあげようか」


 チュールという単語で、耳がぴくっと反応した。カリカリより中毒性の高いエサ。あんなに美味なたべものは、この世に存在しない。思わず激しい鳴き声が漏れてしまう。


「わかった、わかった。そんなにあわてないで。いまあげるから」


 チヒロが細い袋の先端を開けて、おれのほうに差しだす。その瞬間、制御不能の食欲に体全体が支配された。おれはチヒロの手をまえ足でがっちりつかむと、本能のまま必死でチュールをぺろぺろと舐めた。天にも昇る多幸感。

 毎日チュールがあればいいのに、そう思いながらふと視線をあげると、チヒロの切れ長の目から大粒の雫がこぼれ、溶けだしたマスカラといっしょに、なめらかな頬をつたっていた。




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