白色クレヨン

真白透夜@山羊座文学

朋子

 朋子は文具店の中をゆっくり歩いていた。たかが一本の白いクレヨンを買いに来ただけ。クレヨンを買うなら子どものためだろう。だが、朋子に子はいない。夫もいない。夫の貴文は十年前、朋子が五十歳の時に亡くなった。情熱的で、優しい人だった。


 漫画の画材コーナーの脇を通ると、ペン先や原稿用紙が目に入る。懐かしい。朋子は高校生時代、漫画を雑誌に投稿していた。友だちにアンケートまでとって、正直な感想を集めた。その甲斐あってか小さな賞をもらい、講評に書かれた「絵が可愛い」というコメントは朋子の一生の励みだった。


 白いクレヨンの前に立ち手に取る。まだ何の色もついていない希望に満ちた白。朋子にだってそんな時期はあった。


 絵は、唯一の取り柄。そんな想いで、高校卒業後、絵の専門学校に通った。しかし、すぐにクラスメイトの色彩の豊かさに圧倒された。原色の力強さもパステルカラーの優しさも朋子には何一つ扱えなかった。朋子の生まれ故郷は、黒と茶と緑ばかりの、田舎の、年寄りの、地味な風景ばかりだったからだ。学年で一クラスしかない同級生の中で上手かっただけ。プロは無理。そんな透明な天井が早々に朋子を押し潰した。


 唯一、楽しかったのは学校で知り合った侑哉との日々だった。


「卒業したら、東京で一緒に暮そう」


 湿った布団で交わした約束を朋子は信じた。


 学校の課題にもうやる気はなく、アルバイトに励んで半ば転がり込んできた侑哉と過ごす。絵の仕事がしたいなんて、思い上がりだったのだ。朋子は侑哉の絵を眺めるだけの毎日を過ごした。


 就職活動はもちろん東京で。運良く合格。先に朋子が上京し、アパートを借りて侑哉を待った。だが、待てども待てども彼は来ない。


――別れたい。こっちで就職が決まって、新しい彼女もできた――


 彼の葉書にはそれだけが綴られていた。


「何の頼りもない東京にひとりぼっち! どうしてくれるの?!」


 葉書をぐしゃぐしゃにして壁に投げつけたはいいが、もう故郷には帰れない。親の反対を押し切って侑哉を選んだのだから。朋子は一度も使われなかった彼の箸やら、大きすぎる洗濯機と暮らすはめになった。


 そんな時、新聞社主催の絵本のコンクールがあった。


――絵が可愛い


 講評用紙の文字を思い出す。


 クレヨンセットを買うだけのお金はある。文具店に駆け込み、クレヨンと紙を掴んで家に飛んで帰った。


 チラシの裏で練習をする。言葉を書く、絵を描く、文字を見つめる、色をつけ足す。


 いよいよ本番の紙。


 荒々しい線。手探りな配色。雑なホワイト。


 うまいとは言えない。でも、もういい。これ以上のものは今の自分には描けない。朋子は深呼吸をした。クレヨンのにおいが肺に満ちる。


 封をして、投函した。普通なら我が子を見送る気持ちになるのかもしれないが、そうはならなかった。自分を崖から落としたような気分だった。アパートに帰り、侑哉の箸も捨てた。



――その後、入賞の知らせがあった。


「出版しませんか?」


 そう言われて、胸が高鳴った。ただ、喜んだのは束の間。費用は会社と作者の折半だった。本当ならそれでも嬉しいだろう、自分の本が書店に並ぶのだから。でも、朋子は諦ざるを得なかった。女の薄給と、裏切りの家賃と、頼りがないという事情が、朋子の夢を許さなかった。


 朋子は悔しくなかった。もうすっかり人生とは、そういうものだと思っていたのだ。



――五年後

 朋子は上司との喧嘩を理由に会社を辞め、ホステスで食い繋いでいた。


「私、絵本のコンクールで賞をとったことがあるのよ」


 ボトルやグラスの煌めきに似合わない、素朴で可愛い話。口に出してみて苦笑いした。田舎娘の聞き上手が、いつの間にか仕事のウリになっていた。


 こんなストーリーで、こんな絵を描いて……と、朋子はチラシを手に取り、その裏に真っ赤なルージュで絵を描いた。ブランド物だがどうでもいい。ねだれば男は買ってくれる。ルージュの先がくずれて塊がもこもこと生まれ、チラシの汚れに滲んだ。


「……その絵本、知ってる」


 話を聞いていた男が驚いた様子で言った。朋子はルージュで縁取った笑顔を忘れた。


「朋子さんの絵本だったのか。僕、あのコンクールの選考員だったんだよ。あの絵本、本当に子どものことをよく考えてるなって思った。僕はね、手元にカラフルなクレヨンがあればいいってもんじゃないと思うんだ。心に、色があるかだよ」


 彼は興奮気味にそう言った。その後も彼は色々と朋子に話したが、朋子には彼の言っていることがわからなかった。そんな風に考えて描いたことがない。朋子はただただ、彼の語りを黙って聞いていた。


 彼はその後も朋子目当てに会いに来たので、二人は交際を始めた。朋子はホステスの仕事を辞め、間もなく結婚をした。それが貴文だった。


 貴文は激務で帰りが遅い。一人の時間に、朋子はクレヨンで絵を描いた。子どもができたら自分の絵本を読ませたい。それは母心からではない。自分の絵本を試してみたかったのだ。


 朋子は、オリジナルキャラクター「ヒツジー」を作った。名前の通り、ふわふわの白い毛のひつじ。本番用の画用紙と練習用のチラシを並べて見比べた。チラシのヒツジーの方が可愛い。それが悔しくて可笑しかった。



――買い物を済ませ、文具店を出る。知人の塾に寄った。自作の絵本を寄付するために。


「いつもありがとね。あとこれ、いつものあの子から」


 ピンクの封筒を渡された。中身は、感想が書かれた手紙と主人公のドロシーとヒツジーの絵。正義感が強くて冒険せずにはいられないドロシー。臆病だけど優しいヒツジー。二人でいれば、何も怖くない。そんなお話。


 帰宅後、絵本と手紙を仏壇にかざり手を合わせた。この手紙は貴文のものだ。絵本とは何かを教えてくれたのは貴文だから。


『わたしにはドロシーのような勇気もないし、ヒツジーのような友だちもいません』


 そう、それが人生。


 朋子は机に向かい、白色クレヨンを握った。


 彼女への返事を描こう。彼女の唯一の友だちがこの絵本になる日が来てもいいように。




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