第1話 星を拾いかけて
「いやぁいつも悪いね、常葉さん。助かるよ」
上司の槙原係長が、コピペじみた言葉を投げる。
その言葉が私の退社の合図だ。
「しっかし本当にいいの?うちの部署の余ったタスク、ほとんど常葉さんがやってない?」
およそ5人分の書類を鞄に手際よく詰めていると、珍しく追加の言葉が槙原さんから飛んできた。
「大丈夫です。他の皆さんが残業しなくて済みますから」
私は、検索で“笑顔 テンプレ“と検索して出てきた画像を貼っ付けたような顔で淡々と答える。
「私独り身ですし」
素早く追撃も加えておくと、肩をすくめるような仕草を挟んで槙原さんはPCの電源を落とした。
会社のエントランスを出ると、かき氷みたいな空気が肌にざくざくと突き刺さった。
もう3月だというのに、空はまだ冬の存在を告げている。腕時計を見やると、丁度日付が変わるころだった。
朝の通勤時のむせ返るような人の波も、もう見当たらない。
終電にギリギリで滑り込んだ私は、周りに人が立っていないのを確認して座席に腰を下ろした。
首と肩をコキコキと回して、鞄から書類を数枚取り出す。私のタスクではなく、同僚の分。
私は大学を卒業後、業界では名の知れた出版社に就職した。
ホワイトを謳う大手の出版社でも、膨大な業務に手が回らず残業に勤しむ社員が多い。
既婚者の同僚が結婚記念日の残業を嘆いていたのが、全ての始まりだ。
見兼ねた私は、その同僚の仕事を全て引き受けた。
私が肩代わりしたプレゼン資料は部長に好評で、彼はしばらくして昇格した。
私のお陰で彼は結婚記念日をゆっくりと過ごし、出世もしたのだ。私は嬉しかった。
善意は、私に満足感と居場所をくれる。
同僚の中には私が報酬を受けとるべきだと言う人もいたが、正直やめて欲しい。
私は被害者なんかじゃなく、望んで善意を振り撒いているのだから。
結果、私の元には同僚の余剰な仕事が次々と舞い込んでくるようになり、残業は日常になった。
私の世界が白と黒の2色になったのは、いつからだろう。
資料の整理を粗方終えると、私の最寄駅を機械的なアナウンスが知らせる。そこそこ大きな駅なので、終電とはいえ降りる客も多い。
また明日、ここへ立つための体力を得るためだけに帰宅する人間たち。
みんな、死んだ目をしている。
私は?
顔は前を向いている。
目は大きく開かれている。
姿勢は真っ直ぐに伸びている。
死んだ目なんかしているはずが、ない。
だって明日も。
私は人の役に立てるのだから。
会社を出た時よりも更にキンと冷え込んだ空気を吸うと、喉の奥が引き絞られたように感じた。
まだ飲食店の灯りが街を彩っている。
私も何か食べないとな、とふと思い出したが外食する気分ではなかった。
少し悩んだ結果、自宅への帰路にあるコンビニで適当に買おうと決めた。
駅から2分ほどで見慣れた看板を見つけ、入店する。
この国を代表する大手コンビニチェーンは、レトルト食品の種類も豊富だ。味もなかなか悪くない。
切らしていた栄養ドリンクをカゴに入れ、いざ、と惣菜のコーナーへ赴く。
その足が、無意識に止まった。
「えっ」
思わず声が喉を突いた。
私の目に飛び込んできたのは、
黒いパーカーで頭を隠した少女と。
少女の鞄に吸い込まれたおにぎり。
たったそれだけで。でも、何が起こったのかを説明するのには十分だった。
頭の中が掻き混ぜられたように、ぐるぐると回る。
背中が急激に冷えて、肌が強張るのを感じる。
これは、見なかったことにしていいのだろうか。
一体どうするのが正しい?
店員に言う?このまま見逃す?
私が硬直していると、細い手が私のコートの裾に伸びて、キュッと握りしめた。
怯えと敵意に溺れた目が、私を見下ろす。
「やめてっ…ください…」
消え入るような声は、まるで私がこれからどうしようとしていたのか見透かしているようだった。
「言わない、言わないから。ちょっと待って」
私は小声でそう言い、彼女の肩を掴んで静止した。
少女、と言っても私より背丈があり、恐怖からかその身体は私に覆い被さり、押し倒さんとする勢いだった。
「今のことは誰にも言わない、だからいくつか質問してもい?」
彼女の憔悴しきった目は水を蓄えていたが、少しして小さく頷いたので、私の背骨も少し和らぐ。
「お腹が空いてるけど、お金がない?」
こくり、と頭が縦に振れた。
「家には帰れない?」
彼女の身体がぴくりと跳ね、肩に触れた手から私の髪の毛を揺らす。
「えっと…もしかして」
ここまで踏み込むべきか、否か。私の中の善意が答えを出すのに長くはかからなかった。
「家出?」
瞳は決壊寸前だったが、振り絞るようにこくこくっとまた、頭が縦に振れた。
家出少女。万引き。
その文字列は、社会からの逸脱を警鐘している。
本当はこのまま、警察に送り届けるべきなのかもしれない。
いや、私の社会的立場を考えれば、それが正解なはずだ。
でもそれは、彼女のためにはきっと、ならない。
だとしても、私は今何をしようとしている?
それは、善意の範疇に収まるものか、はっきり言って怪しい。私を破滅に誘うかもしれない行為だった。
目がチカチカする。手に汗が滲む。
「ねぇ、帰れないなら、うちに来ない?」
自分の口から出た言葉は、私の首筋をざらざらと撫でて、舌を痺れたように痛めた。
この善意は、何かがおかしい。
あ、崩れる。そう確信した瞬間、彼女は大粒の涙を頬に伝わせて嗚咽した。
近くの客が何事かと遠巻きに私たちを見つめていることに気づいた私は、とりあえずカゴを床に置き、彼女の手を握って店の外に連れ出した。
溢れ続ける雫をハンカチで拭おうと、彼女の顔に正面から向き合う。
そこで気づいた。
彼女の顔から、目が離せない私に。
可愛い。
ふと心臓から溢れた声に、自分でぞっとした。
でも私の視線の先が、答えだった。
つまり、顔が控えめに言って、かなり可愛い。
この子は明らかに顔面偏差値がずば抜けている。
そんなことを考えている場合ではない、なのに彼女から目が離せない。
気付けば熱を帯びてくしゃくしゃになった彼女の目と、私の目が完璧に合っていた。
「あ、私っ、ご飯買ってくるから、ここで待っててくれる?」
思わず目を逸らしてしまう。頬に微熱を感じる。
最後に映った彼女の目が、どこか諦めのような大人びた憂いを帯びているように見えたのは、気のせいだろうか。
少女を店の前に待たせておき、私は放置していたカゴに急いで2人分のレトルト食品やカップ麺を詰め込んだ。
レジでカードをかざし、持参していた袋にバランスを考えずに商品を詰め込む。
一体何を焦っているのか、自分でも分からない。
コンビニを出ると、そこに少女の姿はなかった。
袋の重みが、今になって肩にかかった。
「っははは、何やってるんだろう、私」
思わず笑ってしまう。
通行人が怪訝そうな顔で振り向いたが、私の笑い声はしばらく止まることを知らなかった。
いきなり家に来ないかと言われて、警戒しない方がおかしいだろう。
私があの子を助けなくても、きっと誰かが補導なり通報なりしてくれるはず。
そして、そもそも、あれは善意としては正しいはずがない。
だから、今日のことはもう忘れよう。
そう自分に言い聞かせる。
聞かせていたのだけれど。
少しおぼつかない足取りで、自宅までの道のりを歩く間も。
余分に買ったハンバーグを冷蔵庫にしまう時も。
湯船に浸かって目を閉じた時も。
洗い物を食洗機にかけた時も。
私の意識は前を向いていなかった。
ただ瞼の裏に映るのは、あの少女の顔で。
その顔を思い出す度に、体を血の巡る音がうるさく聞こえる。鬱陶しいほどに。
寝室へ向かう前、私は無意識に玄関の扉を開けていた。
蛍光灯に照らされた、無機質な廊下が延々と伸びる。
もう深夜もいいところで、人の気配はなかった。
それは、当たり前のことなのに。
どうして。
私は上手く息を吸えなかったのだろう。
結局、この日の私は覚えのない孤独感を抱えたまま、あまりよく眠れなかったのだった。
私は家出少女に恋をする。 山猫蒼 @yamaneko_0510
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