第3話

 床のマットがふかふかで、それがまた現実っぽくて困る。

 シャワーの温度をひねった、そのとき──


「先輩〜、シャワーの温度、ぬるめ派ですか? 熱めなら右に──」

「今その情報!? ていうか、黙っててって言ったよね!」

「了解っす〜!」


 やっと静かになったと思ったら──


「……あ、あと、シャンプーは二種類あります。左が無香料、右が柑橘系っす」

「選ばせないで! 黙っててって言ったの、ほんとに忘れた!?」

「すみません……!」


 壁越しの声が、ちょっと笑ってるみたいで、くやしい。

 

「シャワーヘッドの角度、ちょっとクセあるんで──」

「もう喋るな!!」

 

 怒鳴ったあとで、思わず自分の口を押さえた。

 ……なにこの時間。なにこの人。

 ──ていうか。

 なんで私、後輩男子の家でシャワー浴びてるの?

 終電逃して、ネカフェも使えなくて、そしたらなんか当然みたいに誘導されて。

 で、なぜか今、シャワー浴びてる。

 この状況、説明できる自信ゼロなんだけど。

 なのに、彼の声に反応して、つい突っ込んでる私がいる。


「……ほんと、何してんの私」


 手のひらに落ちてくるお湯の温度だけが、少しだけ現実をくれた。

 でもそれも、すぐに湯気に変わって、天井へ逃げていった。


「……バカ……っ」


 シャワーの音にまぎれてつぶやいた言葉は、蒸気に溶けて消えた。



 髪をざっと乾かして、借りたTシャツに袖を通す。

 少しぶかぶかで、肩が落ちる。匂いは──柔軟剤。たぶん、いつも通りのやつ。


 リビングに戻ると、彼はソファの背にもたれてスマホをいじっていた。


「おかえりっす、先輩。似合ってます」

「……何が」

「そのTシャツ。先輩が着ると、なんか女子って感じっすね」

「女子です」

「そうでした!」


 こいつ、素で言ってるのがまた厄介なんだよな……。

 私はなるべく距離を取るように、ソファの端っこに腰を下ろす。

 クッション一個ぶん──いや、気持ちもう半個分遠ざけとこう。


「てか、先輩──まだ眠くないっすよね?」

「……まあ、多少は」

「じゃ、自分もシャワー浴びてきます。ちょっとさっぱりしたくて」

「ん。……どうぞ」


 そう言って彼はのそのそと立ち上がって──

 何の前触れもなく、Tシャツの裾を引っ張り上げた。


「ちょっ──待って待って待って!?!?」

「え、なにか?」

「ちょ、今わたし居るから!!」

「えっ……あ、でも自分、男っすよ?」

「知ってるけど! そういう問題じゃないの!!」

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その夜、境界線が曖昧になって。 緋室井 茜音 @himuroi

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