第5話:四連の咆哮

今日やることは、実のところ三つある。

擦り切れた革ジャンの襟を立て、鏡の前でかつての自分と今の自分を値踏みすること。昨夜から何度も確認した燃料コックの「ON」の文字を、もう一度だけ指先でなぞること。そして、このガレージで最も美しい「火の玉」を揺り起こすことだ。


午前六時。世界が青白い薄明に包まれる頃、俺は重いシャッターを静かに押し上げた。

そこに鎮座しているのは、カワサキ・Z1。

九百ccの空冷並列四気筒エンジン。その曲線美を描く「ティアドロップ」の燃料タンクには、通称火の玉カラーと呼ばれるオレンジとブラウンのグラデーションが施されている。今のバイクにはない、執念に近い塗装の厚みが、朝の光を吸い込んで艶やかに光を放っていた。


俺は使い古された木製の椅子に腰を下ろし、しばらくの間、その造形を眺めることにした。

「今日は、あの頃の仲間が集まるという海沿いのパーキングまで行ってみるか」

煙草を咥え、火を点けずに呟いてみる。

「いや、あいつらに会えば、嫌でも自分が年老いたことを自覚させられる。いっそ、山の方へ向かって、独りで四連キャブの吸気音に耳を傾けるだけで終わらせるか。あるいは、エンジンを掛けて、ガレージに漂う未燃焼ガスの匂いを嗅ぐだけで、今日の旅を完結させてしまってもいい」


予定という名の、未完のプロット。

このバイクの前に立つと、時間は残酷なほど平等に、そして同時に歪んで流れる。

このZ1は、伝説という名の重圧だ。世界中の男たちが憧れ、畏怖し、追い求めた究極の「マッハ」の血統。それに跨るということは、自分自身もまた、その伝説に相応しい人間であるかどうかを常に問われ続けるということだ。かつての自分なら迷わずスロットルを開け、フロントを浮かせんばかりの勢いで加速していただろう。だが今の俺には、その加速の代償として失うものの重さが、手に取るように分かってしまう。


俺はゆっくりと立ち上がり、エンジンの左側に回り込んだ。

並列四気筒。横に長く突き出したそのシリンダーヘッドは、まるで工場のプラントを凝縮したような圧倒的な存在感だ。

四つのミクニ製キャブレターが、一分の隙もなく並んでいる。俺はそれら一つ一つのフロートチャンバーを軽く叩き、ガソリンが正しく満たされていることを確認した。


「……今日のお前の機嫌はどうだ」


チョークレバーを親指で押し下げる。

この時代のカワサキは、冬でも夏でも、目覚める前には特有の儀式を必要とする。

キーを捻る。メーターパネルに灯る淡い緑のニュートラルランプ。それは、この鉄の塊が意識を取り戻したことを示す最初の瞬きだ。


右足で、折り畳まれていたキックペダルを引き出す。

今の若い連中は驚くかもしれないが、この大排気量車にはキックがついている。もちろんセルモーターも備わっているが、俺にとってのZ1は、自分の足で命を吹き込むべきものだった。


キックペダルをゆっくりと踏み込み、圧縮の上死点を探る。

グニュリ、とした重い感触。

四つのピストンのうち、どれかが爆発の準備を整える。

俺は一度、大きく深呼吸をして、肺の中の冷たい空気と、自分の内側にある熱い焦燥を交換した。


「……行くぞ」


全体重を右足に乗せ、一気に、そして鋭く踏み抜く。


――ドォォン!


空気が爆ぜた。

四つのシリンダーが一度に目覚め、四本出しのマフラーから重厚な低音がガレージの壁を突き破らんばかりに響き渡った。

ドリュリュリュ、ドリュリュリュ……。

現代のバイクのような整った音ではない。金属同士が激しく、暴力的に擦れ合い、ガソリンを力任せに燃やし尽くしている、野蛮な咆哮。

四連キャブレターが「コォォッ」という鋭い吸気音を立て、朝の湿った空気を貪り食っている。


俺はスロットルを回さず、ただその振動の渦の中に立ち尽くした。

アイドリング。

冷え切った大容量のオイルが、複雑な並列四気筒の迷路を巡り、隅々まで熱を届けるのをじっと待つ。シリンダーヘッドからカチカチという熱膨張の音が聞こえ始め、エグゾーストパイプがうっすらと色を変え始める。その過程で、俺の中の「昔を捨てきれない未練」と「現実を生きる諦念」が、四つの火花に焼かれて、ゆっくりと一つに混ざり合っていく。


十分に温まったシリンダーの熱気が、ジーンズ越しに伝わってくる。

エンジンの咆哮は、先ほどまでの荒々しい怒号から、深く、密度の濃い、安定した旋律へと変わっていた。


走り出すか。

それとも、この完璧なアイドリングを聴きながら、かつての熱狂の記憶だけを反芻して、静かにスイッチを切るか。


どちらを選んでも、このZ1は俺を裏切らない。

こいつはただ、そこにあるだけで、俺がかつて「何か」になろうとしていた時代の熱量を、今も変わらずに証明し続けてくれているのだから。


俺は左手で、重いクラッチレバーを握り込んだ。

ワイヤーが軋む感触が、手のひらを通じて心臓に届く。


さあ、行こうか。

行き先は、バックミラーの中に消えていく過去ではなく、ヘッドライトが照らし出す、まだ見ぬわずかな光の先にあるはずだ。

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2025年12月30日 19:00
2025年12月31日 19:00
2026年1月1日 19:00

つむじ風な日常――バイクの話をしてもいいだろうか 五平 @FiveFlat

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