第4話:朝凪のプレリュード

今日やるべきことは、実のところ三つある。

まだ寝静まっている家族を起こさないよう、忍び足でキッチンへ向かい、古いトースターのレバーを慎重に下ろして、音を立てずに朝食を済ませること。昨夜のうちにオイルアップを済ませ、ガレージの隅に準備しておいた本革製サドルバッグのバックルを締め直し、そこに詰め込んだ「束の間の自由」の重さを確かめること。そして、このガレージの主を目覚めさせることだ。


午前五時。夜明け前の空気は、あらゆる音を鋭利なナイフのように研ぎ澄ましている。

重いシャッターを、一センチずつ持ち上げるようにして静かに開けると、そこにはハーレーダビッドソン・FLSTS、通称ヘリテイジ・スプリンガーが、薄闇の中で冷徹に呼吸を止めていた。

深い漆黒の塗装と、過剰なまでに施されたクロームメッキの輝き。それらは街灯の残光を鈍く跳ね返し、まるで闇を切り取って造形したかのような威圧感を放っている。フロントに鎮座するスプリンガーフォークの、剥き出しのバネと複雑なリンク機構は、現代の効率的なテレスコピックサスペンションとは対極にある。それは一世紀前の蒸気機関や、精緻な工芸品を思わせる、どこか前時代的な気品を漂わせていた。


俺は厚手のエンジニアブーツの紐を、左右の感覚が等しくなるまで心持ちきつめに締め直し、その巨大な鉄の塊の前に立った。

「今日は、あの岬まで日の出を見に行くか」

誰にともなく、形にならない言葉を吐き出してみる。

「いや、そこまで行くには時間が足りない。近所の堤防まで流して、潮の匂いを少しだけ嗅いで戻ってくるだけでもいい。あるいは……どこにも行かずに、ただこいつの横で温かいコーヒーを飲むだけで終わらせるのも、悪くない休日だ。いや、むしろそれが正解なのかもしれない」


予定という名の、終わりのない自己対話。それは、平日には決して許されない、贅沢で、そして何よりも切実な迷いだ。

平日の俺は、理解ある良き夫であり、分別をわきまえた父であり、分刻みのスケジュールに従う組織の一部だ。他人の期待に応えることで俺の日常は塗り固められ、自分の意志で立ち止まることすら忘れてしまっている。だが、この重厚な本革のシートに跨り、その冷徹な鉄の肌触りを股ぐらに感じる瞬間だけは、誰の期待にも応えない、ただの「自分」という個体に立ち返ることができる。


1340ccのV型二気筒エンジン。その巨大な二つのシリンダーは、まるで古城の塔のように聳え立っている。その間を縫うように走る空冷フィンの迷路は、走行風によって熱を逃がすための機能美を超え、何か宗教的な紋様のようにさえ見える。

俺はキーを捻り、イグニッションを入れた。

燃料ポンプが「チチチ……」と作動する微かな音が、静寂を切り裂く。この小さな電子音が、眠れる巨人を呼び起こすための、最初の、そして唯一の現代的な信号だ。


「……起こしちまうかな」


ふと、二階の窓を見上げる。そこには、すやすやと眠る娘と、一日の家事を前に体を休めている妻がいる。この住宅街において、ハーレーのエグゾーストノートはあまりにも場違いで、暴力的なまでに大きい。

近隣への申し訳なさと、父親としての後ろめたさが、わずかに右手を躊躇させる。

だが、この鉄の心臓を揺り動かしたいという、腹の底から突き上げてくる渇望は、理性をやすやすと上書きしていく。俺は、この音が欲しくて、この一週間の泥のような日々を耐えてきたのだ。


セルボタンを親指で、静かに、かつ断固として押し下げる。

キュ……キュ……ドガァン!


重いクランクが一度、二度、苦しげに冷えたオイルを掻き回した。金属同士が激しくぶつかり合い、爆発を予感させる溜めの後、ついに大気を震わせる衝撃が起きた。

地面を直接拳で殴りつけたような、暴力的なまでの力強い鼓動。

ドムッ、ドムッ、ドムッ……という、不等間隔な「三拍子」のリズム。

それは洗練された現代の工業製品が出す音ではない。太古の巨大な生き物が、眠りを妨げられたことに不平を漏らしている、野太い呼吸そのものだ。ガレージの波板の壁面が微かに共鳴し、棚に置いたままのヘルメットが小刻みに震え、コンクリートの床から足の裏へ、ダイレクトにその震動が伝わってくる。


俺はスロットルを回さず、ただその振動の渦の中に身を置いた。

アイドリング。

この、冷えた金属が熱を帯び、各部が馴染むまでの「溜め」の時間が、今の俺には何よりも必要だった。

冷え切って凝固しかけていたエンジンオイルが、巨大な金属の身体中を巡り、血管のように隅々まで熱を届けるのをじっと待つ。シリンダーが熱を持ち始め、金属がわずかに膨張し、ピストンとシリンダーの隙間が埋まっていく。その過程で、俺自身の意識もまた、日常の義務感や疲労から、荒野の孤独へと、ゆっくりとチューニングされていくのがわかる。


「よし、もういいな」


十分に温まったシリンダーヘッドに、軍手越しに触れてみる。

エンジンの咆哮は、先ほどまでの荒々しい角を削り、深く、落ち着いた低音へと変わっていた。先ほどまで感じていた不安や後ろめたさは、この規則正しい爆発の連鎖の中に溶けて消えていた。


さあ、どうする。

今すぐギアを入れて、この住宅街の静寂を振り切って走り出すか。

それとも、この力強い鼓動に身を委ね、エンジンの熱で温まったガレージの中で、朝日が完全に差し込むのをじっと待つか。


走り出せば、俺は「ライダー」になる。

ここに留まれば、俺は「バイクを持つ男」のままだ。

どちらを選んでも、今日の俺にとっては正解なのだ。


俺は左足でシフトペダルを、力の限り踏み込んだ。

「ガチン」

大地を蹴り上げる準備が整ったという、重厚で冷徹な金属音が響いた。

結局、俺は走り出すことを選んだ。

行き先は決まっていない。だが、走り出しさえすれば、スプリンガーフォークが路面の起伏を拾うたびに、この鉄の塊が「行くべき場所」を教えてくれるはずだ。


ヘルメットの中で、俺は小さく息を吐いた。

住宅街の家々の明かりが灯る前に、俺はこのつむじ風の一部にならなければならない。

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