第4話

 家に着いた高橋雪夜は、自室に入ると鞄を床に置き、そのままベッドに腰を下ろした。

 天井を見上げながら、胸の奥に残る違和感を探る。


 ――僕は……捕手がしたいのか。

 それとも、野球がしたいのか。


 考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていった。


 結局、雪夜はそのまま夕飯を食べ、風呂に入り、いつも通りの時間に布団に入った。

 だが、目を閉じてもすぐには眠れなかった。


 翌日。


 放課後になっても、雪夜は帰らず、校舎の前に残っていた。

 理由は、自分でもはっきりとは分かっていない。


 ――もし……まだ、夏目さんが勧誘してくれるなら。


 そんな考えが頭をよぎった、その時だった。


「高橋君……」


 振り向くと、そこに立っていたのは夏目真衣だった。


「お願い。野球部に入ってほしいの」


 真っ直ぐな視線に、雪夜は一瞬だけ言葉を失った。


「……どうして、僕を勧誘するの」


 静かに問いかける。


「こんな、肩の弱い僕を……」


「肩が弱くてもいい」


 夏目は、迷いなく言った。


「そんなこと、気にしなくてもいい。ただ……私は、高橋君にもう一度、野球をしてほしいの」


「……そんなこと言うの、君ぐらいだろうな」


 思わず、そう零れていた。


「高橋君が中学時代……あの時の高橋君は、楽しそうに野球をしていたよ」


「……あの時の、僕……か」


「私ね……」


 夏目は、少しだけ視線を逸らして続けた。


「高橋君が楽しそうに野球をしている姿を見て……その、ファンになったの。だから、もう一度、あの頃の高橋君に戻ってほしいの」


 胸の奥が、かすかに痛んだ。


「……分かった」


 雪夜は、ゆっくりと息を吐く。


「夏目さんに、そこまで言われたら……考えざるをえないよ」


「それじゃあ……!」


「でも、あまり期待しないでほしい」


 念を押すように言った。


「僕の肩は、捕手をさせてもらえないくらい、弱いから」


「うん……それでもいいよ」


 夏目は、涙を浮かべながら微笑んだ。


「雪夜君が、野球部に入ってくれるなら……」


「どうして、そんな顔してるの」


 戸惑って尋ねる。


「僕、何か変なこと言ったかな」


「違うの」


 夏目は慌てて首を振った。


「雪夜君が野球部に入ってくれるって言ってくれたから……嬉しくて、つい」


「……そんなことくらいで」


「そんなことくらいじゃないよ」


 夏目は、言いかけて言葉を飲み込んだ。


「……ううん、なんでもない」


「そうか……なら、いいけど」


「ねえ、あと一つ聞いていいかな」


「聞きたいこと?」


「あの……雪夜君がいいなら……その、サインがほしいです」


「サインって……大袈裟だな」


 思わず笑ってしまう。


「……駄目、かな」


「駄目じゃないよ。どこにサインするの」


「じゃあ……このノートにしてほしいの」


「そうか……サインしたことないから、こんなところでいいかな」


 そう言って、ぎこちなく名前を書き終える。


「ありがとう、雪夜君」


「別に、これくらいなら構わないよ」


 その時、夏目ははっとしたように目を見開いた。


「あっ……ごめん。名前で呼んじゃって」


「構わないよ。好きに呼んでよ」


「……じゃあ、雪夜君」


 少し照れたように微笑んで、夏目は言った。


「野球部に、行こうよ」


「……分かった」


 そう答えた雪夜は、夏目と並んで歩き出した。


 野球部の部室へ向かう、その一歩が、

 高橋雪夜にとって、新しい始まりになるとは――

 まだ、この時は知らなかった。

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天才と凡人、それでも 広夜 @hry37100

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