第5話
「凛ちゃんは何が心配なんだい」
もう一度、健さんがそう言って、わたしを覗き込んだ。健さんの優しい瞳。その瞬間、わたしの心はぐちゃぐちゃになった。
「ねぇ、言ったでしょ。わたし、見たもん。ベランダの窓から。京香さんが裸足で飛び出していくの。いつもの悲鳴が聞こえて、バンってドアを閉める音がしたから。わたし、怖くなったの。今度こそ健さんが殺されちゃうって。それで、急いでカーテンを開けたら、京香さんが飛び出していくのが見えたの。本当なの。白いワンピースが電灯に照らされて浮かび上がったの。そのあとで、健さんが飛び出して。わたし、心配で窓を開けたの。そしたら、京香さんの悲鳴と健さんの怒鳴り声が聞こえて。でも、健さんは『戻るぞ、京香。戻るぞ』ってずっと叫んでて。その後、クラクションとブレーキ音が鳴り響いて。だから、健さんは京香さんを押してなんかない。だって、『戻るぞ、京香。戻るぞ』って叫んでたんだもん」
目の奥が熱くなって、涙が頬を伝った。健さんは、黙ったままわたしを抱きしめた。わたしは、ただ悔しかった。
三年生の夏休みのあの夜。車道に飛び出した京香さんを轢いた車には、ドライブレコーダーが付いていなかった。
女の人が急に飛び出してきた。
運転手の証言はそれだけだ。京香さんは心の病気だったから、京香さんの悲鳴と健さんの宥める声は、あのアパートではいつものことだった。あの日だって、健さんはただ「戻るぞ」って怒鳴っていただけなのに。
だけど、誰も現場を見ていなかった。対向車も後続の車もなかったのだ。最初は周りも京香さんの飛び出しだと言っていた。だけど、健さんが仕事を「簡単な仕事」に変えてから、保険金狙いで楽をして暮らしたかっただけだという噂が立つようになったのだ。
健さんはわたしから離れると、照れくさそうに右手で自分の髪をなでつけた。
「すまんな。凛ちゃんにそこまで心配かけてるとは思わなかった。あれからしばらくして心臓が痛むようになってな。長く働けなくなっちまったんだ。情けないけどもな」
健さんはわたしから目を離して、墓石を見つめた。後悔と悲しみが入り混じった男の人の優しい眼差しだった。
「健さんこそ」
喉の奥から絞り出すように、わたしは声を震わせた。
「健さんこそ、この町を離れたら。自分の奥さんが目の前の道で亡くなったのに、あそこに住み続けるなんておかしいよ。健さんこそ、引っ越したらいいのに。そしたら、心臓の病気だって良くなるよ。お墓参りにだけ、通って来ればいいでしょう」
そう、健さんが引っ越せば。そしたら、わたしのおうちはもうなくなる。それなら、いい。その方が、いい。
「凛ちゃん、もう帰ろう。真っ暗だ」
知らぬ間に、暗闇がわたしたちの体にまとわりついていた。そうだ、こんな遅くに霊園に二人きりでいるところを見られたら、どんな噂が立つか分からない。健さんに迷惑だ。
わたしは頷いて、元来た道を二人で歩き始めた。ぽつりぽつりとある外灯のあかりを頼りに、わたしたちは滑らないように気を付けながら土の上を歩いた。境内を抜け、石段を降りているとき、わたしは足を踏み外した。靴の裏に土がついていたせいか、すぐには止まれずに何段か滑り落ち、わたしは階段の下に尻餅をついた。ポケットから飛び出したガラスの小瓶が石段の角にぶつかって割れ、中からきれいな小石が飛び散った。わたしは尻餅を着いたまま、小さく悲鳴をあげた。
「大丈夫か」
駆け降りて来た健さんがそう叫んだけれど、わたしは頷きもせずに呆然と割れた小瓶の破片を見つめていた。
「これ、あれか。あの小川の」
小道に散らばった小石は、街灯に照らされて星屑のように輝いていた。わたしたちはしばらく何も言わずにそれを眺めていた。わたしたちの想い出。一緒に小川で集めた楽しい時間の粒。
「集めるか」
しゃがもうとする健さんに、わたしは手を振って、
「いい」
と答えた。
この石たちはこの町のものだから。
わたしは体を起こして、ガラス瓶だけを集めた。
「怪我でもしたら大変だ。僕がやるから、凛ちゃんはスカートの汚れを払ってろ」
健さんの言葉に頷くと、わたしは集めたガラスの破片を健さんに渡した。
もう、これでわたしの大切なものは何もない。ガラスの小瓶も小川の小石も。夜空には三日月が浮かんでいて、わたしは健さんと月が見られたことが嬉しかった。
「ねぇ、健さん。学習机、欲しい? ほら、健さんは本を読んだり書いたりするのが好きでしょう。わたしの机、焦げ茶色で大人っぽい机なの。だからきっと、健さんも気に入ると思う」
健さんは驚いた顔をしたけれど、新しい家に持っていかないのかいとは聞かなかった。黙ってわたしの顔を見つめると、
「それは嬉しいなぁ。ありがとう。大切にするよ」
と、言った。きっと、そうすると思う。だって、京香さんに叩かれても叫ばれてもずっと別れなかった男の人だから。目の前で京香さんが亡くなって、その場所が家の前にあるのに引っ越さない人だから。そのせいで、自分が苦しんでも。
わたしの大切な人の家にわたしの机がある。
先のことは分からない。でも、今は幸せな気持ちだ。わたしは、きっと大丈夫。
健さんの足音とわたしの足音だけが、春の夜の闇に吸い込まれて、空へと上がっていくような気がした。
(了)
夏のかけら 葵 春香 @haruka_p
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