第4話
健さんと歩いた小道や歩道橋、坂道にあぜ道。健さんはいつだって歩くのが早くて、小さな私に合わせて歩くなんてしてくれなかった。わたしの小さな足ではあっという間に離されてしまう健さんの背中。右足を前へ、左足を前へと必死に後を追いながらも、道端のスミレやぺんぺん草を見つけると、わたしはよく立ち止まった。お庭でも花瓶でもなくて、なんでもない道の端に咲く、小さなお花たち。わたしはあの時も今も雑草が好き。わたしがしゃがんで雑草を眺めていると、いつの間にか気づいて戻って来た健さんが、わたしの上から雑草を覗き込んで、
「ああ、これはツユクサって云うんだよ。花びらは小さいのに、キツイ澄んだ青色をしているだろう。まるで女の人みたいだなぁ」
とか、
「ああ、これはナガミヒナゲシだ。子どもの頬っぺたのようなやさしい色をしているだろう。だけどな、そうやって油断させといて、庭にひとつ咲いているなぁと思ったが最後、次の春にはうじゃうじゃナガミヒナゲシが咲いてるのさ。こいつの種は踏んだって簡単にゃ死なないよ。まったく花ってのは、どれもこれも女の人みたいなもんだ。ああ、凛ちゃん、触っちゃいけない。葉っぱと茎に毒があるからな。かぶれちまう」
とか、そんな風に教えてくれながら、急かさずに、わたしが雑草を眺めるのをいつも待っていてくれたのだ。
健さんの言葉で蘇ったわたしたちの散歩の記憶が、わたしの心臓をぎゅっと掴んで、苦しかった。わたしは健さんの瞳をじっと見つめた。
「ねぇ、わたし、引っ越す前にあの小川にまた行きたい。一緒に行こう?」
健さんははっとしたようにわたしを見つめ返した。少しの間、わたしたちはお互いの瞳を見つめたまま、立ちすくんでいた。
「だけども」
掠れ声を喉から出すと、健さんは頭を振って、言葉を続けた。
「だけども、こんな時期に川なんて行ったってなぁ。風邪を引いちまうだけだ。それに、引っ越しはもうすぐなんだろう」
そんなの、分かってる。わたしは、上目遣いに少しだけ健さんを睨んだ。
「おっかねぇなぁ、凛ちゃんは。なんだい。あの川が、そんなに楽しかったのかい」
そう言うと、健さんは口の端を持ち上げて、少し笑った。
「あの川は、特別」
健さんの瞳を見据えたまま、わたしが答えると、健さんの瞳が左右に揺れた。まるで、あの川の水面のように。
はじめて川辺に足を踏み入れたのは、一年生の夏休みだった。あの頃、わたしは週末が大嫌いで、土曜日の朝、朝日がわたしの布団に差し込むと、どんよりとした気持ちで目覚めたものだ。意識がはっきりしてくると、ガス漏れのような異臭が鼻から入ってくる。ママが吐き出した酒臭い息と、ママの身体から発酵した腐った臭いが部屋中に充満しているのだ。襖一枚隔てた先からは、工事現場で見たドリルで穴を掘るような大きな鼾が、振動とともに私の部屋まで侵入してくる。今日は学童がない。学童に友達なんかいないけれど、ママと二人っきりで夕方まで家で過ごす方がよっぼど地獄だ。
わたしはすっかり目が覚めて、布団の中で退屈したまま天井を眺めていた。それから、そおっと音を立てないように気を付けながら、ベランダの窓を少しだけ開けた。朝の澄んだ空気が窓から入って来て、わたしは深呼吸をひとつした。やっと普通に息ができる。あの頃も今も、週末になるとそんなふうにわたしはすぐに窓を開ける。今はもう落ち込むことはないけれど、あの頃はいつも悲しい気持ちだった。アパートの前を車が走る音や、アパートの他の部屋で走り回る子どもの足音やそれを大声で注意するお母さんの声が聞こえると、わたしは何をしているんだろうと思った。
みんな、もう動き始めているというのに。わたしは布団の中で何をしているのだろう。
わたしには来ない「夏休み」という一日をみんなが楽しんでいるようで、わたしは週末の朝が来るのが怖かった。気づかなければ知らないことは、気づかなければ存在しないことになる。今でも、わたしはそんなふうに思っている。
ママが起き上がるのはお昼前で、それまでわたしは布団の中で本を読んだりお絵描きをしたりしていた。だけど、あの日。わたしは窓の外から聞こえた健さんの口笛に誘われるようにベランダへ出た。見下ろすと、庭で洗濯物を干す健さんが見えた。
あの日は、どうかしていたと思う。わたしは急いでワンピースに着替えて家を出て、健さんに近寄ったのだから。
「洗濯物を干すの、手伝ってあげる」
そう言いながら。
健さんはちょっとだけ驚いたようにわたしを見つめてから、わたしが手伝いやすいように竿の位置を下げてくれた。
それから、どうやってわたしたちは脱出したんだっけ。健さんはいつもの散歩では行かない道を選んで、あの小川へと連れて行ってくれたんだ。ワンピースのまま、わたしは小川へじゃぶじゃぶと入ったっけ。初めての夏休みの想い出。
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