揺籃シネマと卵と(私) (カクヨムコン11お題フェス「卵」)
D野佐浦錠
揺籃シネマと卵と(私)
……少しうとうとしていたようだ。
私は目を覚ました。正確には、「私は目を覚ました」との認識が実際の目覚めの数秒後に遅れて立ち上がってきた。目を覚ました私、を認識するためには私が目を覚ましている必要がある。自着のレイテンシー。卵が先か
周囲は薄暗く、しかし前方に平たく大きな光源がある。スクリーンだ。ここは映画館の劇場だった。どうして私は映画館にいるのだったか。かつて自らが卵であったことを認識できるのはそれが鶏になった後だから、「鶏が先」ではないか? との思考が並走している。数分後には「卵が先」に鞍替えしていそうな気もする。
スクリーンの中では今のところ、頭がビデオカメラになっている映画泥棒がパルクールでパトランプ頭の正義漢から逃亡していた。まだ本編は始まっていないらしい。
私の座席は前から3列目の右端だった。中央寄りの方が観やすいのだが仕方がない。仕方がない、って何だ? どういう経緯でこの席になったのだっけ。今から始まる映画は何だ?
隣の席をちらりと覗き見る。
卵が座っていた。
座っていた、というのが表現として正しいのかわからないが、とにかく卵だった。
ふかふかした座面に、その卵が収まりよく乗っていたのである。白い鶏卵だ。少なくとも見た目で判断する限りにおいては。
え、ええ……と思ってもう少し観察してみると、座面に卵が丁度綺麗に収まるような窪みがあるようで、手で探ってみればその窪みは私の席にもあった。
ちょっと待てよ、と私はスクリーンの明かりを頼りに他の席を見回す。
人間らしき客の姿が全然ない。
隣の隣の席も、その隣も、前後の列の見える限りの席も、みんな卵が座っていた。
座っていた、ではなくて、据わっていた、が正しいか? まあ良い。良くないが。では今後の記述において「卵」が主語の場合は「据わっていた」という表記を採用することにしよう。誰の何に対する配慮なんだ、これは。
遠くの方は良く見えないが、鶏卵サイズの卵が一席につき一つずつ据わっているようだった。もう少し一席あたりに詰め込めるんじゃないか? という発想が浮かぶ。そうしたら私ももう少し中央寄りの席に座れたのではないだろうか。卵に予約で負けたのか私は。いやいや、席がどうこうの前に「卵が先」だろう。何で卵が映画を観るんだよ。
映画泥棒がパトランプ男たちに捕縛されたところで、今度は通路の側を見る。
黒いポロシャツに帽子、スラックスという出で立ちの若い女性が立っていた。「うわあ」と声が出てしまう。びっくりした。普通この位置に人が立ってはいないだろう。この女性は映画館のスタッフなのだろうか?
「あの……すみません」
おずおずと私は女性に話しかける。
「どうなさいましたか」
「どうして卵が映画を観てるんですか」
私が本当に知りたかったのはそのことなのだろうか、とは思いつつ、私は女性に問う。
「お客様は卵生でしたか? それとも胎生でしたか?」
女性の声色は、私には良く聞こえるが、他の席にとって騒音にならないような抑制されたトーンだった。プロの技術というものなのか。大体この会話は他の席の卵たちに聞こえているのか。卵に耳はなさそうだが。じゃあ卵に映画が観られるのか、という話になるが。
卵についてはともかく、女性の返答は意味不明だった。質問に質問で返された。
私は……私は人間、だよな。多分そうだ。だから多分、胎生だろうと考えて、「胎生です」と答える。
「胎教でクラシック音楽を聞かれたことはございませんか?」
「……覚えてません」
それは普通、覚えていないだろう。
物心ついた後に、そんな挿話を両親から聞かされた? いや……そんな記憶もない。
「野菜なんかも、オーケストラを聞かせて育てる場合があるそうです」
「はあ」
女性の言わんとすることは、よくわからないが、わからないなりに何となくわかった。
「ええと、つまり、そういう感じの目的で卵に映画を鑑賞させていると」
「はい。映画を観た卵には付加価値があるとされていますので」
付加価値。
不可知の聞き間違いではないよな? と私は訝しむ。
いや、もしかすると、孵化価値?
スクリーンの中では、椅子に縛り付けられた映画泥棒がパトランプ男たちに囲まれて、苛烈な私刑を受けていた。殴る音、蹴る音。殴られる音、蹴られる音。音の意味については解釈次第だ。
あれか、まあ、映画館にとってもWin-Winの関係なのだきっと。
娯楽が多様化した昨今、わざわざ映画館に足を運んで映画を観ようという人の数は減ってきている。
そこで、空席よりはましと座席に卵を据わらせているわけだ。養鶏場の方々か農協の方々かわからないが、そういう関係の方々が映画館にその分のお金を支払っているのだろう。
卵を売りたい側の方々にも、付加価値のついた卵を高値で販売したいという思惑があるのだろう。
卵は「物価の優等生」なんて言われているが、勝手にそんな風に称されるのは日々一生懸命に鶏を育てている方々にとってはたまったものではないだろう。コストダウンの努力は既に限界近くまで実行しているはずだ。それでいて、価格が上がれば庶民のことを考えていないみたいな話で叩かれる。冗談ではない、という気持ちは想像できる。
だから、富裕層に向けた高付加価値の卵で利益を出したいのだろう。映画を観た卵なんて買いたがるのは意味不明の富豪に決まっている。
卵の付加価値のためにお金をかけられるのなら、鶏をケージ飼いから平飼いにしてあげるとかの方が良いのではないか。養鶏場で生まれ育つブロイラーの一生は苛酷なものだと聞くけれど。そんな発想も浮かぶ。
鶏の生育環境を改善してあげる方が、卵に映画を見せるなどという奇天烈な趣味よりも有意義なことのように思える。
しかし、「平飼いで育った鶏の生んだ卵」と「映画を観た卵」のどちらに消費者がお金を払いたがるか、という問題になるとこれは難しい。後者の方がセンセーショナルで売れそうだという気もする。少なくとも富裕層は後者にお金を払いたがるような気がする。かように私の思考は偏見に満ちている。平飼いに「してあげる」というのも傲慢な表現だった、とついでのように反省が生じる。
平飼いの鶏はストレスが少なくなるため、それが生んだ卵は味や栄養価に優れる。
そう言われている。それならそれで良かった。
もしも、ストレスの多い環境で育った鶏の生む卵の方が味も栄養も良い、となったなら、どうだろう。養鶏場の鶏たちは今以上の地獄に叩き落とされることになるのではないか。
鶏たちに過剰な折檻を加えることで付加価値が生まれる。鶏たちを加害する専門の人材が雇われるようになり、雇用問題が解決に進む。あるいは鶏たちへの加害を体験する見学ツアーが開かれ、富裕層や中学生たちが鶏を鞭で打つ。
ここがそういう世界でなかったのはただの偶然に過ぎないのかもしれない。
暴力シーンの多い、感覚的に強烈な映画ほど視聴者の記憶に残る。数値としては有意な動員の差を生じる。そういうものだとして。
十指を折られた映画泥棒は心臓を撃たれて死んだ。これで誰も映画を盗撮しようなどと思わないだろう。科学的で、加虐的な帰結。
スクリーンに映画の本編らしき映像が流れ始める。
どこかの砂浜の上空からのロングショット。天気は快晴。白と青の鮮やかなコントラストが美しい。ひとまず暴力の気配はないが、映画というのはこういうシーンからいきなり衝撃の展開、みたいなことを良くやるものだから私は油断していない。
フォアグラの作り方は残酷ではないのか。ストレスフリーなフォアグラ作りはそもそも可能なのか、可能だとして事業として成立し得るのか。スイカは
「ご安心ください。名作です」
係員の女性が私に耳打ちする。
いつの間にか、思考を口に出していた? それなら恥ずかしい限りだが……そうだっけ。心を読まれた、という方が実感に近い。
名作を見せることはもてなしで、駄作を見せることは虐待という論旨。それはどうなんだ? 映画を見せている時点で加虐に相当する、とは判断しないところに
創作に対する信頼。受け手に対する強請。卵の中か、外か。その心はどこにある? これ以上は、心とはどのように定義されるものなのか、という話になる。判断できない、と判断する。
スクリーンの中の世界では、案の定と言うべきか、砂浜に飛行機が墜落してくる。
轟音と火炎、遅れて黒い煙。
衝突の瞬間に合わせて、座席が大きく揺れた。4DX? 嘘だろと思う。卵が4DXで映画を観る時代なのかよ。
この揺れで卵は大丈夫なのか。何の心配をしているんだ私は。とはいえ、やっぱり気になる。
ちらりと隣の席を見ると、卵は上手いこと席の窪みに収まったままで、どうやら無事だった。
こういう体験も含めて卵にとっては良い、ということなのだろうか。
この映画館を卵にとっての揺り
いやしかし、揺り籠が必要なのは卵の中身が生まれてからじゃないのか。卵はじっくり動かさずに暖めるものだろう。
墜落炎上した飛行機から、黒焦げになった人型の何かの群れがわらわらと飛び出してくる。ゾンビ……多分、ゾンビだあれは。最低でも普通の人間じゃないだろう。
どうやらこの島は無人島のようで、襲う相手がいない真っ黒なゾンビの群れはやや所在なさげに砂浜をうろついてから、互いに抱き合うような動きを見せ始めた。死の抱擁。黒い人型の塊どうしが重なる。倒れ込む。片方がもう片方の首筋に噛みつく。影絵のようだ。
生身の人間がいない状況ではゾンビは共食いを始める。この作品ではそういう設定らしい。
しかし、何ていう絵面だ。悪趣味な……というのが正直なところだった。これを観た卵にどんな付加価値が付くというのだろう。人間性なるものに対する批判的な眼差しがプリインストールされる、とか? 胎教でクラシック、の方がまだしも幾分と説得力があるように思える。
そこに、モーターボートがすごいスピードで海からやって来る。
筋骨隆々の白人男性が一人で運転していた。海パン姿に機関銃。その裸の上半身にランボーよろしく銃弾を巻き付けている。演じているのは有名なハリウッド俳優だったような気もするが、名前が思い出せない。
モーターボートは砂浜にそのまま突っ込んで来た。座礁するのでは、と思いながら観ていると、船底部からオフロードタイヤが飛び出てきてそのままのスピードで砂浜の上を爆走する。
ぐろんごろんと座席が揺れる。4DXによる映画体験が今ここに。色々と、何という無茶苦茶なギミックだろう。
主人公らしき白人男性は、陸戦機動化したモーターボートを運転しながら機関銃を構える。ズダダダダダダダダダダダ。黒色のゾンビの群れに銃弾を雨あられのように浴びせまくる。抱き合うゾンビたちが肩や腹の肉を散らして倒れていく。硝煙に似せたような匂いを感じる。これも4DXかよ。正気か? というのが素直な感想。
男はあらかたのゾンビを片付けると、煙草に火をつけた。
一服してから煙を吐き出した男は、ダンディズム溢れる声で言う。
「『
これが決め
そういう言葉こそマッチョダンディの決め科白にはむしろ相応しい、というならそんな気もするし、体良く丸め込まれているだけなような気もする。
付加価値などという以前に、卵にこんな映画を見せて大丈夫なのだろうか。
そもそもゾンビものだし……。あまり食品向けのジャンルではないんじゃないのか。食品向けのジャンルって何だよ。
こっそり卵たちの様子を伺う。見た感じは無反応だった。音を出すものもない。当たり前か。しかしお行儀の良いことである。
生まれる前の存在である卵に、死んだ後の存在であるゾンビの映画を見せる。生きている間が空白みたいになる。そこに何かの含意を見出すことは空虚だろうか。多分空虚なんだろうな、と私は真剣に考え始める以前にほぼ結論を出している。
そう言えば、私はここの卵たちを何となく食用なのだろうと考えていたが、そういうことで良いのだろうか。
卵の行きつく先といえば大きく二つだろう。生まれるか、食べられるかだ。
ここの卵たちは見た感じ鶏卵であることだし、食用の可能性が高いと判断したのは穏当なところだとは思う。この世の鶏卵のほとんどは人間に食べられる定めだ。まあ有精卵か無精卵かというような話もあるけれど、映画館の中で外見だけからそんな判断ができるはずもない。
ただ、ここに集められた卵が特別なエリート集団で、これから趣味の悪いゾンビ映画を鑑賞した経験を踏まえて立派な鶏になることを運命づけられているということも一応、あり得る。馬鹿じゃないかとは思うが、純粋な可能性としてあり得るかどうかで言えばあり得る。
あの女性係員が言ったのは「付加価値」ではなく「孵化価値」という造語である、という説を採るとこの考え方は少し有利になる。
ですよね係員さん、などと考えながら通路側を見やると、彼女はモナ・リザのような微笑を湛えていた。要するところ、その瞳がこちらを観ているように思える。怖いような、安心したような気分になる。モナ・リザに相対したときのように。あるいは、母性に触れたときのように。
スクリーンの中ではマッチョダンディが砂浜にやってきた巨大ザメを機関銃で撃退していた。そしてサメに追われてクロールで逃げていたブロンドの美女を助け上げる。水泳の専門家に指導を受けました、みたいに綺麗なフォームのクロールだった。真っ赤なビキニを着ているこの美女も有名なハリウッド女優だった気がするが思い出せない。ロマンスの気配がする。何かイランイランみたいな香りが流れてくる。4DXの演出だろう、これも。
この映画の世界観でこの場面においてこんな芳香がするとは思えないが、言うだけ野暮というものだろう。
そういうことを言い出すと、じゃあBGMだって流れないし、とかいう話になる。俺の宇宙では出るんだよ! で良いのだ、こういうのは。「
後続のゾンビたちと主人公たちとの派手な戦いが続く。
アクションシーンではやはり、座席は上下左右に揺れまくる。また卵たちのことが心配になってくる。
卵の形状は外からの衝撃に強い。シェル構造は外側からの圧縮方向の力を分散して受け持つことができるのだ。それは結構なのだが、そうは言っても限度を超えた衝撃を受ければ割れてしまう。
やっぱり卵にとって映画は、少なくとも4DXは危険なんじゃないか。
付加価値を与えるための取り組みで卵が壊されてしまっては元も子もないのでは、などとも思うが、自主トレのオーバーワークで故障してしまうスポーツ選手、安全書類の作成のための残業で過労に倒れてしまうゼネコン社員などは実際問題としてある話だ。
島の中のゾンビを一掃し、夕焼けのサンセット・ビーチでマッチョダンディとブロンド美女が良い感じになる。
序盤で仕留めたサメの肉を未鎮火の飛行機のボディから出る炎で焼いて二人は食べている。ワイルドすぎる。メロウな感じのBGMが流れる。劇場内にもサメ肉っぽい匂いがするのかなと期待したが、それはなかった。
「これからどうするの?」
と美女が問う。
もっともな問いだとは思うが、お前がそれを言うんかい、とも私は同時に感じている。
全然面白味もない発想だが、マッチョが最初に乗って来たボートでもっと大きい陸地に戻れば良いのでは、などと考える。というか、そもそもこの男はこの島に何をしに来たんだ?
「ここで生きよう」
と男は厳つい声で言った。ハードボイルドだなあ。卵だけに。やかましいわ。
「合衆国も人民共和国も、世界のどこもが奴らの手で壊滅した。無事だったのはこの島だけだ」
あ、そうなのね、と私は思う。
この島はたまたまこのマッチョマンの個人的な物語の舞台になったというより、この世界の物語において最後の安息地だったんだ。
すすり泣きながらマッチョに抱き着くブロンド美女。
じゃああれか、彼女もまた、ゾンビたちの脅威を逃れてどこか別の陸地から必死でこの島に泳ぎ着いたという話か。……もしかして、サメもか?
どうも最終盤らしいという空気になって、やっとのことでタイトルバックが出る。
「SUNNY SIDE UP」
うっせえわ!
大した名タイトルだよ、全く。
この島こそがゾンビの脅威を逃れた生命たちが生きていける最後の楽園であり、つまりは目玉焼きの黄身の部分みたいなものだ、的な含意だろうと推測する。
ここで太陽が希望の象徴であることは言うまでもない。だが、この島=SUNNY SIDE UP=目玉焼きという比喩を受け入れる限りにおいて、太陽が連想させる放射熱のイメージは目玉焼き全体の死の予兆をも示している。太陽は果たしてどちらの側にあるのか、という仮定次第で。熱的死。エントロピー飽和に至った宇宙の、ではなく、数十秒後の目玉焼きの運命の話として。
良い雰囲気のまま、エンドロールが流れていく。
良いのかこれで。まあ良いんだろうな、多分。
私はそんな程度のゆるい感想を持つわけだが、この作品を鑑賞したことで卵たちに付加価値がついたのかどうかは疑わしいものだと思う。
目玉焼きにしたら美味しい、とかか?
それとも、ここから生まれてくる鶏は泳ぐのが上手くなる?
なぜなら、あの美女があの島まで辿り着けたのはクロールが上手かったからだ。生存可能性に直結する水泳の重要性を生まれる前から教え込まれた鶏は、泳ぐのが上手になる……なんだそりゃ。
卵から生まれてくるのが鶏のヒヨコではない別の何かであるという可能性については……あまり考えたくない。
何はともあれ、上映は終わった。
私は席を立ち、モナ・リザめいた微笑の女性係員に会釈をする。
「いかがでしたか?」
と女性の鈴のような声。
いやあ、まあまあでしたね。
と、答えたあたりで私の認識の? どこかに?
頭蓋か? これは?
額に、罅が? 否……もう割れている。割れて、避けて、中身が露出している。
殻か?
罅が入って、じゃなくて、割れてしまったのは?
中身?
私の?
中身?
係員の女性が、いつの間にか銀の
モナ・リザが笑っている。
怖っ。
そう思った。
で、私の中身(中身?)が彼女の口の中に入っていく。
殻の中身を味わいながら、なるほどね、と(私)は思う。
結構、理屈っぽい感じ。(私)は、こんなことを考えながらこの映画を観てたのね。
悪くはないけれど、ちょっと商品としてのパッケージングには困る感じかしら。
そんなことを(私)は考えている。
かつて私だったもの。かつて私でなかったもの。
今は、どっち?
同化している、というのが模範解答。
どうかしている、というのも模範解答。
そんなの、おかしい、って思ってる?
じゃあ、あなたは誰?
卵はシェル構造。外からの圧力に強い形をしている。
一方で、シェル構造は内側からの衝撃にはむしろ脆い。
それは当然といえば当然の話で、卵の中で生まれた雛が殻を破ることができないというのでは笑い話にもならない。そういう意味でも、合理的な形状なのだ。
ここで(私)にある着想が浮かぶ。
もしも卵というものが、内側からそれをこじ開けようとする力に対して耐えなければならないという要請があり、外側からの衝撃については特段問題としない、ということがあったとしたなら。
それは定義上卵なのか、という疑問は残る。でも、ひとまずそれは卵である、としよう。
そうしたとき、卵の取るべき合理的な形状というものは、ちょうど(私)が考えていた一般的な卵の形から裏表が反転した形状になるのではないだろうか。
形状というよりも。
その場合、(私)が卵の外側だと思っていた領域は実は内側であり、殻の中だと思っていた領域が卵の外側だった、ということに、結局はなる。
あの無人島は、ゾンビの跋扈する舞台と思いきや、実は世界で唯一ゾンビのいない楽園だった。そういう反転。サニー・サイド・アップ。
あの理屈屋さんの考えが、(私)の中でまだ続いている。
変なことを考えるのね、と(私)は思うのだけど、こういうものの考え方が妙に馴染むと感じているのも(私)。
それで、どうするつもりなの? と(私)は(私)に対して問う。
若干の哲学ごっこ的な土っぽい余韻を残す、とテイスティングノートに載せるコメントを(私)は考えている。
「あ」
ふと劇場の中を見渡すと、卵たちの殻に一斉に罅が入り始めていた。
稲妻のような、無数の細かい分岐を伴う一本の意思。
そこから漏れる光。
それらが、全ての卵たちに同時に。
全ての、じゃない、一つの、だ。
内側と、外側。ここはどっち?
(私)はきっと、これから((私))になるんだな、と思う。
これが、そう、科学的で、可逆的な帰結。
罅が広がり始める。
殻が、これから、割れる。
揺籃シネマと卵と(私) (カクヨムコン11お題フェス「卵」) D野佐浦錠 @dinosaur_joe
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