2.愛刀との出会い
この階層にいる魔物は、意外にも非好戦的なものが多かった。
最初に出会ったグレートウルフだけは別だったが、それ以外はこちらから刺激しなければほとんど襲ってこない。
その事実にほっとした──だが、根本的な問題は何ひとつ解決していない。
出口は見つからず、食料も水も底をつきかけている。
焦りだけが、じわじわと胸を侵食していった。
そして──。
「うおおおおっ!」
ビチャッ。
渾身の力で短剣を振り下ろす。
鈍い跳ね音とともに、ぬめった液体が周囲に飛び散った。
「……くそ、またスライム液か……」
濁った液体が床に広がる。
喉は限界近く乾き、空腹で胃が軋む。
(……頼むから、そろそろゼリー落ちてくれよ……)
雑魚スライムに出会えたのは運が良かった。
ただ“雑魚”というのは熟練冒険者にとっては、の話だ。僕にとっては全力必須の相手である。
それだけ頑張って倒したにもかかわらず、落ちていたのは役に立たないスライム液だけ。
もし“スライムゼリー”なら……。
水分と栄養を補える、今の僕には喉から手が出るほど欲しい品だ。
「……はぁ。運、悪すぎだろ……」
そのとき──。
背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走った。
反射的に振り返る。
誰かに、呼ばれたような気がしたのだ。
「……おじさん?」
ここで僕の名前を呼ぶなんてフェニックスのメンバーしか思いつかない。
だが、この階層に彼らが来られるとは思えない。
返事がない現実が、胸の奥に重く沈んだ。
このまま誰にも会えず、ひっそりと朽ちるのか──
そんな考えが、一瞬、脳裏をよぎる。
「──大丈夫。“今回は”まだ動けてるっ!」
自分に言い聞かせるように声を出したが、その単語が胸をざわつかせた。
(……“今回は”って、なんだよ)
嫌な予感を振り払うように、呼ばれた気がした方向へ足を向けた。
◇◆◇
「ここは……?」
少し進むと、瓦礫だけが散らばる小さな空間に出た。
──ただ一つを除いて。
地面から、棒のようなものが突き出していた。
近づいて目を凝らす。
武器にも見える。だが、決定的に違う。
「なんで、こんなところに
自分の口から出た言葉に、思考が止まった。
(……鰤出刃?)
この世界に存在するはずのない名称。
なのに、見た瞬間に“それ”と理解した。
次の瞬間──
頭の中で、何かが弾けた。
視界が白く反転し、世界が遠ざかる。
そして奔流のように流れ込んできたのは──
熱。
油と湯気のこもる空気。
じゅう、と脂が焼ける音。
焼き魚と醤油の香り。
包丁が骨を断つ重み。
刃が身を滑る、あの確かな手応え。
白い湯気が立ちこめる厨房。
飛び交う注文。
濡れた布巾を握る自分の手。
──
鰤の腹を割き、骨に沿って身を外し、皮を引く。
その動作は、説明不要の“当たり前”として身体に刻まれている。
目の前の鰤出刃と記憶が重なる。
(……そうだ。これは、剣じゃない。……包丁だ)
胸が痛む。
視界の端に、白衣の男が笑っていた気がした。
『お前も板についてきたじゃねぇか』
かつて、そんな言葉をかけられた。
懐かしさに胸が締め付けられる。
「俺は……」
ここではないどこかで、こんな包丁を握っていた。
認めれば何かが変わってしまう気がして、息が詰まる。
否定しようとした、その刹那──
「グルルル……ッ!」
低い唸り声が、現実へ引き戻した。
入口を塞ぐように、グレートウルフが立っていた。
「──っ、まずい!」
逃げ場はない。
そして僕の力と心もとない短剣では、到底勝てない。
グレートウルフが一歩踏み出す。
爪が石床を擦る音が、耳の奥を刺した。
近い。
速い。
……怖い。
視界の端に、鰤出刃が静かに佇んでいた。
(……あれが、抜ければ)
考える前に、胸の奥で何かが反応した。
包丁が「使え」と告げるような錯覚。
いや──違う。
わかる。切れる。
骨を断つ感覚。
皮を引く抵抗。
刃が身を割る滑らかさ。
(……なんだよ、これ)
理解は追いつかない。
だが──選ぶ時間はなかった。
グレートウルフが地を蹴る。
「来る──ッ!!」
死が目前に迫った瞬間──身体が勝手に動いた。
短剣ではなく、包丁へ。瓦礫を蹴り、柄を掴む。
「うおおおおおっ!!」
全身の力で引き抜く。
──ズバッ!
鰤出刃は、驚くほどあっさり床から抜けた。
まるで、この瞬間を待っていたかのように。
反動で身体が半歩ずれ、グレートウルフの爪を紙一重で避ける。
「っ……!」
そして手の中の包丁を見た瞬間、息を飲んだ。
初めて握ったはずなのに──“知っている”。
柄の太さも、重心も、刃のしなりまでも。
別の人生が、掌から蘇った。
グレートウルフが牙を剥く。
その目に、先ほどまでなかった警戒が宿る。
(……わかったのか、これがただの包丁じゃないって)
包丁を握り直す。
腕に伝わる切れ味の確信。
怖い。
でもそれ以上に──
いまなら、切れる。
「……やるしかない、よな」
俺とグレートウルフは、同時に踏み込んだ──。
伝説の剣は鰤出刃でした ~元料理人がダンジョンで覚醒し魔王を餌付けしてしまった話~ よつ葉あき @aki-2
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