僕の卵からは、サフィラは生まれない

姉森 寧

僕の卵からは、サフィラは生まれない

 僕が小三のとき、お父さんがビデオを借りてきた。

タイトルは「エラゴン 遺志を継ぐ者」。

お父さんは、

「三人で映画館に行って観ただろ? 覚えてないのか?」

って言ったけど、僕は覚えてない。だから、

晴翔はるとは三歳だったからね」

お母さんが言ったとおりなんだと思う。


 リビングのテレビで三人で観た「エラゴン」はおもしろかった。

ところどころ、何となく観たことがあるような気もしてきた。

でも、これ、三歳だったらぜんぜん意味がわからなかっただろうな。


 🐉


 その日の夜、僕は夢を見た。

僕の手の中には卵があった。

それはエラゴンが持ってたサフィラの入ってる卵じゃなくて、

家の冷蔵庫に入ってる、スーパーで売ってるやつだと思った。

大きさも白さもそんな感じだった。

 その卵は僕にとって、何だか特別だった。

ただの卵だけど、そうだった。

(ということは、これは夢だ)

夢の中で、僕はそう確信した。


 🐉


 僕の家族は変わってる。

一番変わってるのはお父さんだ。

テレビとか教科書とかの「お父さん」とは違う。

 どう違うのかって言うと、僕のお父さんは僕を怒鳴ったり殴ったりする。

それが一番の違い。

それでも、「こういうもんなんだ」って考えるようにしてた。

 「エラゴン」も「ロード・オブ・ザ・リング」も「ナルニア国物語」も、お父さんが借りてきた。

観たくないときでも、リビングに呼ばれた。

観たらおもしろいからいいんだけど、

宿題とかのやることがあっても、後回しになった。

 それと、僕は「ハリー・ポッター」が観たいと思ってたけど、

お父さんの好みじゃないから、何も言わないことにした。


 お母さんも変わってる。

お母さんはお父さんの言いなりだった。

ちゃんと働いてて、ちゃんとごはんを作ってくれて、ちゃんといろいろ知ってる人なのに、

お母さんはお父さんの言いなりだった。

 ただ、お父さんが僕を殴るときには、自分の体でかばったりしてくれた。

後でものすごい色のアザになって職場で何か言われたりするのに、

後でお父さんに何か壊されたり捨てられたりするのに、

それでもかばってはくれた。

 お母さんは僕と二人きりのときは、

こっそり、「晴翔、大好き」って言って、

こっそり、「お父さんのこと、止められなくてごめんね」って言って、

こっそり、「何かあったらちゃんと言ってね。お父さんにはごまかすから」って言って、

こっそり、僕を抱きしめてくれた。

だから、

(ほかの人と結婚したらよかったのに。お母さんならできそうなのに)

って思ってた。


 三人目の僕も変わってるらしい。

それは「変わってるね」って言われるからそう思ってるってだけで、

自分ではどこがどうほかの人たちと違うのかはわからない。

お母さんは、

「自分をしっかり持ってるってことだよ」

って言ってたけど、そういうことなのかな?

ぜんぜんわからない。


  🐉


 小六になった僕は、反抗期を迎えた。

でも、反抗できる相手がいなかった。

(僕はどうやって大人になるんだろう?)

反抗期の仕組みを知ってる僕は、そのことに不安を感じていた。

 それに気づいたのは、友達でも学校の先生でもなく、お母さんだった。

「ねえ、もしかしたら反抗期なんじゃない? ちょっとやってみて。『クソババア』って言ってみて」

お父さんが帰ってくる直前の少しの平和な時間に、お母さんはそう言った。

そして、それはズレていた。

「言えないよ。お母さんはそんなんじゃないから」

僕が言いたくないことを言って、反抗期がおさまるわけがない。


  🐉


 そのまま中学生になっても、僕は大人になれなかった。

それどころか、だんだんとおかしなことが起こり始めた。


 まず、朝起きたら、体がコンクリートで固められたみたいに動かなくなったりした。

もちろん、僕の体の上にあるのは掛け布団だし、

動かそうと思えば動かせる自覚はある。

 それを乗り越えて動いたとしても、次は着替えができなくなっていた。

本当はできるけど、できなくなっていた。

 さらにそれを乗り越えて着替えたとしても、

その次にやることも、その次の次にやることも、その次の次の次にやることも、

全部ができなくなっていた。


 とにかく全部乗り越えて、何とか学校へ行っても、何も頭に入ってこなくなることが増えた。

授業どころか、友達の話も入ってこない。

友達はたくさんいて、男子も女子もみんながやさしいのに、

誰も、僕も含めて、誰のこともいじめたりしないのに、

先生は嫌な人もいるけど、それでもお父さんみたいなことは誰もしないのに、

僕のできないことは増えていった。


  🐉


 高校生になると、新型コロナが流行して、お父さんの仕事がリモートワークになった。

お母さんの仕事はそうはならなかった。

 僕はたまに、どうしても体が動かないときに、学校を休んだ。

お母さんは「わかった」って言って学校に連絡してくれた。

 それなら休んでいいんだって思ったのに、

家にいるお父さんは、

「またサボりか? そんなんだったら大学行けないぞ」

とか、

「熱もないのに学校行かないとか、やばいな!」

とか、

「一日中ゴロゴロしやがって」

とか、

締め切ったドアの向こうから、僕にそんなことを言い続けた。

 それでも、お父さんは仕事中は書斎に籠もるので、ドアのそばからはいなくなる。

僕は自分の部屋の布団の中で動けないまま、天井を眺めた。

トイレに行くのをガマンするのにも慣れた。

ごはんの時間はお父さんが忙しそうな十四時くらいにした。

お母さんが作ってくれた学校用のお弁当を、家で食べる。


  🐉


 何とかギリギリで高校を卒業しても、

大学に合格できなかった僕は、

「成人なのに家でブラブラしてるとか、終わってんな」

ってお父さんに言われ続けた。

明らかに僕の学力より上のところ一校しか受けちゃダメって言われたから、

勉強がうまくできなくなってた僕には受かるはずがなかったのに、

お父さんは「終わってんな」って言い続けた。

 せっかくバイトに受かっても、

「え、お前、そんな仕事やんの? 底辺じゃん」

お父さんは自分が十八歳だったときと比べて、僕の十八歳を底辺扱いした。

そのバイトはすごく楽しかったのに、

体が動かないときが増えて、辞めないといけなくなってしまった。


  🐉


 ある日曜日の朝、

「晴翔、メンクリ行こう」

お母さんは布団の中の僕に言った。

「お金、大丈夫?」

僕の懸念事項はそれだった。

お母さんはお給料をお父さんに管理されてるから、

自分で稼いだお金なのに、自由に使えない。

僕はそれを知ってるから、

底辺扱いの僕にお金を使ってもらえるはずがないと思った。


 それでも、お母さんは僕を精神科に連れていってくれた。

予約が取れたのが平日の昼間だったので、仕事を休んで連れていってくれた。

 僕は僕の状況について、お医者さんに尋ねられるがままに答えた。

そうやって話してるうちに、

(ああ、僕はここに、小六のときに来なくちゃいけなかったんだ)

そんなことに気づいてしまった。


 僕はもう「成人男性」になってしまっていた。

「成人男性」は強いから、どこにも保護してもらえない。

病名が付けられても、それはただの「病気の成人男性」というだけなんだ。


  🐉


 精神科へ行ったときのお金は、お母さんがお父さんに頼んで出してもらったものだ。

「お前、頭おかしいんだな。納得だわ」

お父さんは誰のせいで僕がこうなったのかを自覚してないようだ。

 僕は不調を和らげる薬を飲みながら、

不調の原因と同じ家で暮らして、

不調を取り除く力のない人にかばわれたり、

不調のまま次のバイトを探したり、落ちたりした。


  🐉


 ある夜に、夢を見た。

小三のときに見た、あの卵の夢だった。

卵は大きさも重さも何もかもがあのときと同じで、

中身は動かない液体だった。

 でも、今の僕は十九歳だ。

(この卵を育てたら、何が生まれるんだろう……)

夢なのは自覚してるのに、ちょっとだけ期待してしまった。


  🐉


 だから、僕は家を出ることに決めた。

ずっとここに留まってたって、病気がよくならないのは明らかだ。

それなら、出てみたらいいと思った。

あの夢はきっかけをくれたんだ。

……そういう動機づけをすることにした。


 お母さんは自分の名義で家を借りることを提案してくれたけど、

僕は全部自分でやるって言った。

 お父さんは意外と賛成だった。

「手切れ金やるから、もう顔見せんな」

そう言って、すぐにスマホから僕の口座に100万円を振り込んだ。


  🐉


 とは言え、

病気かつ無職の成人男性に家を貸してくれる人はいなかった。

僕は少ない荷物を持って友達の家を転々として、

その結果できた彼女の家に転がり込んだ。


 まだ仕事も見つからないし、自分の家も見つからない。

実家に置いてる荷物も取りに行けない。

お母さんからLINEラインがたまに来るけど、お母さん自身には会えない。

彼女を紹介することもできない。

紹介したくもない。


  🐉


 彼女は毎日昼に起きて、

僕が作った昼ごはんを食べながら、

きのうのお客さんのことを愚痴る。

 僕は毎日彼女にぎゅって抱きついて、

「大好きだよ」

って言ってあげる。

それは僕がお母さんにしてもらってたことで、

それだけが今の僕にできること。

それしかできないから、それしかしない。

 仕事で疲れてる彼女にとっても、

どうやら、それしかしなくていいらしい。

「ハルがいなかったら、私、今ごろ死んでたかも」

僕の腕の中で、

彼女は満足げに、まるで僕みたいなことを言う。

じゃあ、これでいい。


  🐉


 僕は卵を温める。

僕の卵からは、サフィラは生まれない。

僕はエラゴンじゃないから、サフィラは生まれない。

少年はドラゴンライダーにも、当然、英雄にもなれない。

 それでも温める。

中の液体が何になるのか、わからないまま温める。

温め続ける。

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僕の卵からは、サフィラは生まれない 姉森 寧 @anemori_nei

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