下
岬のお姉さんは、もともとピアノをやっていたらしい。
子どもの頃から続けていたけれど、周りの才能に追いつけなくなって、やめた。
ギターに出会ったのは、そのあとだった。
ピアノより不自由なはずなのに、お姉さんには、そっちのほうがずっと自由に感じられたらしい。
今は、ピアノ曲をクラシックギターにアレンジして、動画サイトに上げている。
「全部の和音が、ちゃんと正しい感じがするんだよね」
それがお姉さんなりの、ギターの説明だった。
週末、私は再び岬の家を訪れていた。
リビングの隅では、お姉さんがカメラのセッティングをしている。私と岬は、その手伝いという名の、ほとんど見学をしていた。
「今日は、前に話してたやつ。シューベルトの《セレナーデ》」
そう言って、ギターを抱え、ゆっくりとチューニングを始める。
「動画、結構アップしてるんですか?」
私が尋ねると、お姉さんは弦を弾きながら、気楽に答えた。
「気が向いたら、って感じ。完全に趣味だよ」
「再生数とか、気にしないんですか?」
「あんまりね」
(もしかして――)
私は、胸の中だけで考える。
岬が最近、鍵を外して小説を公開したこと。
それは、誰かに届くことを望みながら、同時に自分を守るための、彼女なりの距離の取り方だったのかもしれない。
やがてセッティングが終わり、お姉さんがセレナーデを弾き始めた。
クラシックギターの音は、リビングの空気をやさしく塗り替えていく。
いくつかのミスタッチも、そのまま音の一部として溶け込んでいた。
以前お姉さんが言った通り、その不自由さが、むしろ響きを生きたものにしていた。
演奏が終わると、お姉さんは軽く頷いた。
「よし。こんなもんかな。あとでアップしとく」
私は、素直に言った。
「……すごく、よかったです」
「ありがと。じゃあ、お礼」
そう言って、お姉さんは私のスマホを取り上げると、勝手に音楽アプリを開き、いくつもブックマークを付けていく。
「これ、クラシックギターでアレンジされてる曲の原曲リスト。バッハ、ベートーヴェン、ショパン……」
「うわ、いっぱい……読み方も分からないのばっかりです」
「いいから」
お姉さんは笑って言った。
「この中から、今週中に一曲だけでいい。一番好きなのを見つけて、教えて」
私は、目を回しながらも、はい、とだけ答えた。
その夜ベッドに入ってから、私はそのプレイリストを上から順に聴いてみる。
読めない作曲家の名前。
意味の分からない曲名。
ヘッドホンの向こうから流れてくるのは、今までほとんど触れたことのない音の世界だった。
正直、最初は退屈だった。
私は目を閉じて、その音の中に岬の姿を重ねてみる。
激しいソナタは、難問に向かって鉛筆を走らせる岬の焦りに似ていて、
短調の小品は、あの憂鬱な天使の絵を見つめていたときの孤独に似ていた。
(岬なら、どんな気持ちでこの音を聴くんだろう)
この音楽は、岬を理解するための、新しい鍵のように思えた。
やがて、ショパンの《雨だれ》と呼ばれる前奏曲が流れ始める。
切なく、それでいて前を向くような旋律を聞きながら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。
◯
試験期間は、私たちの「二人でいる時間」から、少しずつ余白を奪っていった。
放課後に並んで帰ることは少なくなり、交わす言葉も、授業の質問や試験範囲の確認ばかりになった。
私が岬に近づける唯一の場所は、スマホの画面の中だった。
深夜、勉強の合間に何気なく開くSNS。
岬は、試験期間に入っても、以前とほとんど変わらない頻度で作品を更新し続けていた。
――極北、第八節を更新しました――
その通知を見つけるたびに、私は「いいね」を押し、心の中で小さく応援する。
それが、今の私と岬をつないでいる、細い糸のように思えた。
(本当に、すごいな)
勉強だけで手一杯の自分とは違って、岬は創作を止めない。
その安定した姿勢が、少しだけ眩しくて、少しだけ怖かった。
張りつめた空気の中で、余計な考えまで浮かんでしまう。
また誰かが岬に惹かれて、近づいてきたりしないだろうか。
自分は置いていかれてしまうんじゃないか。
そんな不安が、胸の奥に静かに溜まっていった。
その夜も、私は問題集を前に、現実逃避をしていた。
ヘッドホンから流れているのは、お姉さんが半ば強引にブックマークしてくれた、クラシックのプレイリスト。
聞き慣れない作曲家名が続く中で、不意に、耳を掴まれる一曲が流れてきた。
ヘンデルの《パッサカリア》。
一定の低音の上で、旋律が少しずつ形を変えながら、ゆっくりと下降していく。
その流れが、頭の中に溜まっていた不安や焦りを、一緒に引きずり下ろしていくようだった。
(……すごい)
派手ではないのに、重くて、逃げ場がない。
でも、なぜか目を逸らせなかった。
私はすぐに、お姉さんにメッセージを送った。
美結:
今ヘンデルのパッサカリア聴いてます。
なんか、全部落ちていく感じで……今の気分にぴったりです。
少しして、すぐに既読がついた。
お姉さん:
おお、美結ちゃん分かるじゃん。
それね、岬のお気に入りだよ。
お似合いだね!
「えっ……?」
思わず、声が漏れた。
からかわれているのは分かっているのに、顔が熱くなる。
忙しい日々の中でも、
同じ音楽を通して、同じ場所に立っている気がした。
(……大丈夫)
ヘッドホンから流れるパッサカリアは、もう重たいだけの音じゃなかった。
それは、見えないところで私を支えてくれる、静かな錨のようだった。
私は深呼吸して、もう一度、物理の問題集に視線を戻した。
◯
ホームから続く道を、私たちは並んで歩く。
通学路と呼ぶには少し長く、散歩と呼ぶには気ぜわしい距離。
「ねえ、岬」
呼びかけると、ほんの一拍遅れて、こちらを見る。
「電車の中でさ。本読むか、目閉じてるかだけど……音楽は聴かないの?」
私の問いは、特別な意味を持たせるつもりのない、ただの雑談だった。
でも岬は、少し考えるように視線を宙に彷徨わせる。
「うん。あんまり聴かない」
「意外」
「イヤホンがね、苦手で」
「耳が痛くなるとか?」
岬は言葉を探すみたいに、歩幅をほんの少し緩めた。
「音楽が、頭の中だけに閉じ込められる感じがするのが嫌なんだと思う」
「閉じ込められる?」
「うん。もっとこう……空気に溶けててほしい」
朝の光を受けた電線や、すれ違う人の影を眺めながら、岬は続ける。
「この場所に音楽がある、っていう感じ。自分の外側に」
私はその言い方が、いかにも岬らしいと思った。
理屈っぽいようで、結局は感覚の話しかしないところ。
ふと、岬の部屋のことを思い出す。
「でもさ」
私は首を傾げる。
「岬、音楽プレーヤーとかも持ってないよね。じゃあ、どうやって聴いてるの?」
「普通に」
「普通に?」
「スマホのスピーカー」
あまりにもあっさりした答えに、思わず笑ってしまった。
「それ、空気に溶けてるって言っていいの?」
「いいんじゃない?」
岬は肩をすくめる。
「部屋に音がある感じはするし。十分」
紙の本を好んで、徹夜で小説を書いて、
その一方で、特に抵抗もなくスマホのスピーカーで音楽を流す。
何かを頑なに拒むわけでもなく、
かといって、流行に身を預けるでもない。
そのちぐはぐさが、不思議と自然で。
(……好きだな)
私は心の中で、そっと思う。
無邪気で、無防備で、自分の感覚を信じ切っているところ。
学校が見えてくる。
雑談はそこで自然に途切れて、私たちはそれぞれの一日に足を踏み入れていく。
◯
定期試験が終わり、学校には一時的な脱力感が満ちていた。
燃え尽きたあとの灰のような空気が、教室の隅々にまで行き渡っている。
放課後、私はロッカーに教科書を押し込み、金属音と一緒に扉を閉めた。
その隣に立っている岬に気づくまで、少し時間がかかった。
「美結」
「あ、岬。お疲れさま」
「一緒に帰ろ」
それだけの言葉なのに、胸の奥がふっと緩む。
最近はお互い余裕がなくて、一緒に帰ること自体が減っていた。
たまに同じ電車に乗っても、並んで立つだけで、会話はない。
それでも成立してしまう関係に、いつの間にかなっていた。
それなのに今日は、岬がわざわざ言葉にして私を誘う。
「帰ろ帰ろ。……どこか寄り道する?」
岬は一瞬だけ鞄に視線を落としてから、頷いた。
「うん。実は、行きたいところがあって」
電車に乗り、傾き始めた日の光が、窓の外を滑っていく。
私たちは横並びに座り、しばらく無言のまま、流れていく街を眺めていた。
先に口を開いたのは、岬だった。
「ねえ、美結。行動主義って知ってる?」
「心理学? 人の行動は刺激と反応で説明できる、ってやつ」
「うん。環境とか遺伝で人生が全部決まって、流されていくんだって。ちょっと、虚無だなって思った」
岬は私を見ずに、車窓の向こうを見つめていた。
「……それで?」
私がそう言うと、岬はようやくこちらに視線を戻した。
「だから、普段やらないことがしたい」
その目には、以前見た危うさはなかった。
代わりにあるのは、少しだけ悪戯っぽい光だった。
「なにそれ。何するの?」
「それは秘密」
私たちは、誰も降りないような小さな駅で電車を降りた。
改札の外には、都会では見かけないほど広い駐車場が広がっている。
〈駐車された方は一日につき五百円をポストに入れてください〉
その一文が、この場所が合理性の外側にあることを、さりげなく教えていた。
駐車場を抜け、古民家が点在する旧道へ。
さらに進んで、田んぼに囲まれたあぜ道で、岬が立ち止まる。
「ここにしようかな」
そう言って、鞄からハンカチを二枚取り出し、丁寧に地面に敷いた。
「……ここで、何するの?」
答えずに、岬は鞄の中を探る。
出てきたのは、スケッチブックと、プッシュ式の水筆、使われた形跡のないパレット、水彩絵具。
「……絵?」
新品だ。今日のために用意してきたのが分かる。
(こんな形で、私の領域に踏み込んでくるなんて)
「どうしたの、その顔」
「いや……岬も、絵を始めるの?」
「行動主義への反抗」
真顔で言うから、私は思わず苦笑した。
スケッチブックを受け取る。
「私、デジタルしか描いてないよ。紙は、小学校以来」
「そうなんだ」
岬は少し驚きながらそう言って、あぜ道の真ん中で迷いなくページを開いた。
久しぶりに、アナログの筆を走らせる。
一時間ほどで日が落ち、空気が一気に冷えてくる。
岬のスケッチブックには、歪だけれど、確かに彼女の視線が宿った景色。
私の方には、田んぼと古民家を包む夕暮れが残っていた。
「美結」
「なに?」
岬は二冊を見比べてから、私を見た。
「美結の絵、好き」
「……ありがとう。でも岬のも——」
「私は、美結の描く世界観が好き」
少しだけ声を落として、続ける。
「成績がどうでも、小説がどうなっても、大学に行っても、その先でも……私は、美結と一緒にいたい」
それは宣言というより、確かめるような言葉だった。
孤独を選んできた人の、不器用な告白。
「……私も、岬が好きだよ」
そう言うと、岬の表情が一気に緩んだ。
「ずっと一緒にいたいし、卒業後も繋がっていたいとは思う。……けど」
「けど?」
「寒いし、帰ろ」
次の瞬間、冷たい手が首筋に触れた。
「ひゃっ」
「前に、美結が私の顔に触ってきた時の、仕返し」
「もう」
私はその手を掴む。
冷えた指先が、互いの体温を探して絡まった。
「帰ろう」
手を繋いだまま、私たちは駅へ向かって歩き出した。
◯
通知:『極北2』更新しました。
ウルスラは、豪奢な毛皮の上で、すでに呼吸を止めた男を見下ろしていた。
その肉体は、長年の飽食と怠惰によって不自然なまでに膨れ上がり、打ち上げられた巨大な鯨のように、ただ重さだけを主張して横たわっている。
嘲笑を噛み殺し、静かに衣服を脱ぎ捨てる。
北方の狩人を思わせる彼女の身体は、余分な線をすべて削ぎ落としたかのように引き締まり、その均整は冷たい野生の秩序を宿していた。
音を立てず、その巨大で肥えた腹の上に乗り上がる。
肉は、氷塊を背負ったかのように鈍く沈み込み、反発することはなかった。
ウルスラは一瞬だけ均衡を測り、そして、ゆっくりと舞い始める。
それは祝祭ではなく、また激情でもない。
淡々と執行される、儀式であり、断罪であった。
ウルスラは笑う。
それは勝利の笑みではなく、自ら選び取った決断に静かに酔う、孤高の表情だった。
「私は、この肉塊の上で――
お前が永遠に失ったはずの軽やかさを、ただ踊って示してやる」
◯
夏休み二日目。
昼前の少し遅い時間に、私たちは区の図書館で待ち合わせた。
「図書館、久しぶり?」
そう聞くと、岬は少し考えてから首を傾げる。
「うん。実は、あんまり来ない」
「意外」
「家に、本が多いから」
それは前から知っていた。
あの部屋一面の本棚と、床に積まれた文庫と単行本の山。
「代々、読書家らしくて」
館内に入ると、空気がひんやりと変わる。
本棚の間を歩きながら、岬は続けた。
「図書館に来なかった理由、もう一つあって」
「なに?」
「家族団欒の時間が、読書だった」
「読書?」
「同じ部屋にいて、テレビもつけなくて、
みんなそれぞれ本を読んでるの」
想像すると、少し変で、少し綺麗な光景だった。
「静かなんだけど、
たまに誰かが、面白い一文を読み上げたりして」
「……いいね、それ」
「そう?」
「うん」
岬は気づいていないみたいだったけど、
その原体験が、今の岬を作っている気がして、私はひとり納得していた。
しばらく棚から棚へ歩き回り、
私たちはそれぞれ三冊ずつ本を選んだ。
私は
『江戸川乱歩全集1』
『絵画の歴史』
『デザインの解剖』
岬は
『血と砂』
『悲しき熱帯』
『利己的な遺伝子』
向かい合って読書コーナーの机に座る。
(岬にしては、なんだか私でも読めそうなチョイス?)
あの本の部屋に並んでいた本とは、少し毛色が違うことは、表紙からも伝わってきた。
エアコンの風が、静かに本の匂いを撫でていく。
ページをめくる音と、遠くで椅子が引かれる気配だけが、一定の間隔で混じる。
しばらく黙って本を読んでいた岬が、ふいに顔を上げた。
「……前にさ」
声を潜めているつもりなのに、少しだけ熱を帯びている。
「決定論の虚無の話、したでしょ」
「うん」
私は栞を挟み、岬を見る。
「最近ね、それ……ちょっと違ったのかもって思って」
岬は言葉を探すように、指で本の角をなぞった。
「虚無だって感じてたの、たぶん
私が一人でいる前提で考えてたからなんだと思う」
「一人?」
「うん。
誰ともちゃんと繋がってなくて、
生活っていうものが、本の中にしかない感じで」
小さく息を吸って、続ける。
「私、ナイーブでさ。
現実の生活って、実はあんまり分かってなかったんだと思う」
岬は、自分で言っておかしくなったのか、少しだけ口元を緩めた。
「誰かがそばにいるだけで、
同じルートを辿る人生でも、意味が変わることってあるんだね」
その視線が、ほんの一瞬、私の手元に落ちる。
「美結と出会ってから、
別に小説の話、そんなにしてないのに」
「確かに」
「なのに、書くのは前に進んだ」
断定でも、告白でもない。
事実を、ぽつぽつ並べているだけの口調。
「決まってる未来が虚無じゃなくなる瞬間って、たぶん……」
岬はそこで言葉を切った。
「……まあ、いいや。うまく言えない」
岬はそれ以上深追いせず、また本に視線を戻す。
図書館の静けさは変わらない。
でも、同じ空間にいるというだけで、
この時間は、もう虚無には見えなかった。
話題を変えるように、私は聞いた。
「ねえ、その『血と砂』って、どんな話?」
岬は栞を挟んで、本を閉じた。
「外国の小説。
まったくの異文化に、どうにか適応していく話」
「最近の岬の小説みたい?」
「ううん」
即答だった。
「もっと、知識が多い。
私なんかより、ずっと大きな巨人が書いてる感じ」
私は、自分の手元の『絵画の歴史』をちらりと見る。
「……私も、巨人に挑んでるけどね」
岬がくすっと笑った。
互いの本を交換する約束を、なんとなくして、
また、本に視線を戻した。
私はふと、
この時間が、岬にとって家族と過ごした読書時間の延長になっているだろうか、と考える。
「……岬」
小さく呼ぶ。
「なに?」
「岬の小説の挿絵、描きたいな」
岬の顔が、ぱっと明るくなった。
「ほんと?」
そう言って、
私の手首から腕にかけて、そっと触れてくる。
「でも」
私は慌てて続ける。
「最新のやつは、ちょっと無理かも。
もっと、ソフトなやつだったら……」
(私、何様……)
内心で焦る。
「私はね」
岬は少し身を乗り出して、声を落とした。
「よく、美結のこと思い浮かべて書いてるよ」
腹の上で踊り狂う女の情景が、脳裏をよぎる。
「……ええ……」
思わず声が漏れた。
「なんで!?」
岬が珍しく、少し大きな声を出す。
「しっ、図書館」
私は笑いながら、人差し指を立てる。
「冗談、冗談」
岬は納得していない顔のまま、
でもすぐに本に視線を戻した。
◯
通知:『等速圏』更新しました。
恒星間航行七百二十六日目。
船は、予期せぬ小惑星帯の縁をかすめ、船団は重力と回避運動に引き裂かれるように散開した。
通信網は壊滅的だった。
数百隻いたはずの船の中で、辛うじて応答を返したのは、一隻だけ。
「……聞こえるか」
遅延を含んだ音声が、金属質の静寂を破って届く。
ノイズの向こう側にある声を、私はすぐに識別できた。
「聞こえている」
かつて私たちは、同じ母星の海岸で育った。
恒星が二重に昇る朝を見て、同じ言葉を覚え、同じ本を読んだ。
分かたれたのは、信仰だった。
私は、大いなる秩序を仮定することで人が安心する仕組みを、理解はできても、信じることはできなかった。
彼は、それを唯一の真理だとした。
「このような危機の中でこそ、
純粋な信仰だけが、人を救う」
それは、昔とまったく同じ言葉だった。
「それも、事実だろう」
私は、操縦席の暗がりで目を閉じる。
「だが、私は今、
大いなる存在や真理よりも、
この瞬間に感じている感情の方を、真実だと思っている」
沈黙。
小惑星が船体をかすめる振動が、言葉の隙間を埋める。
「今なら、どんな障壁も越えられる気がする。
命を危険に晒してでも、
君の船に行きたい」
「……やめろ」
彼の声は、かすかに震えていた。
「それは、救済ではない」
「救われなくてもいい」
私は計器を見つめたまま続ける。
「私は、再び君に触れられるなら、
それでいい」
小惑星帯の密度が、再び上昇する。
通信が切れる直前、彼の声が届いた。
「……もし、生き延びたら」
それ以上は、聞き取れなかった。
私は操縦桿を握りしめる。
等速で進むはずだった航行は、もはや成立していない。
◯
夏休みが始まって、まだ数日。
私は自分の部屋で、机の上に広げた宿題をぱらぱらとめくっていた。
数学のワーク、英語の課題、読書感想文……
隣に置いたタブレットには、描きかけの絵。
岬の横顔を、記憶だけで描こうとしている。
でも、宿題の方が先だ。
たぶん。
ページの端を指で押さえたまま、考えが止まっていたところで、スマートフォンが震えた。
画面には岬の名前。
通話に出ると、少しだけ間があってから声が聞こえた。
「ねえ、美結。夏休みだからさ、校則違反しようと思う」
いきなり何を言い出すんだろう。
「また決定論の話?」
半分冗談で返すと、岬は小さく笑った。
「今日はね、もっと現実的なやつ」
現実的、という言葉が岬の口から出るのは少し意外だった。
「前にさ、ピアスの話したじゃない」
「あったね」
「やっぱり、あれはまだ怖い。穴あけるの」
少し間があって、岬は続ける。
「だから……その代わりに、髪、染めてみたいなって思って」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……実はさ」
声のトーンを少し落として、言いづらそうに続ける。
「中学の卒業式のとき、友達と一回だけ染めたことある」
通話の向こうで、明らかに空気が止まった。
「美結って、そういうこともするんだ」
岬の声には、驚きと、ほんの少しの困惑が混じっている。
「なんか……聖女みたいな雰囲気して」
聖女、という言葉に思わず吹き出しそうになる。
「どこが」
「遊び回ってたんだ」
「そんなことないよ。たまたま」
「たまたまで染めるんだ……」
私は机の上の宿題に視線を落とす。
「志望校無理したから、高校入ってからは知ってる友達もいないし。勉強も正直ついていけてない」
ため息が、言葉の途中に混じった。
「夏休みの宿題、今見てたんだけどさ……」
「うん」
「普通に、絶望って感じ」
少しの沈黙のあと、岬が言った。
「じゃあさ」
声が、さっきより柔らかい。
「今度、お泊まりで宿題しよう。うちで」
「……いいの?」
思わず声が明るくなる。
「大丈夫。親に美結のこと、たまに話してるし、歓迎」
それから、少し間を置いて。
「そのとき、一緒に髪も染めようね」
私は思わず笑ってしまった。
「計画的犯行だ」
「夏休みだから」
それだけ言って、岬は「おやすみ」と付け足し、通話は切れた。
スマートフォンの画面が暗くなってからも、私はしばらく動かなかった。
岬って、これまでどんな交友関係だったんだろう。
誰かと派手に遊んでいたようには見えない。
いじめられていた、という雰囲気もないと思う。
……多分。
でも、そういうことを根掘り葉掘り聞くのは正しいのだろうか。
恋人でもないのに。
恋人。
岬と、恋人。
そこまで考えたところで、私は机の上の宿題をぱたんと閉じた。
「もう寝る」
小さく宣言して、電気を消した。
◯
約束の日。
岬の家の最寄駅の改札を出ると、駅前のロータリー越しに、待ち合わせ場所のドラッグストアが見える。
岬が軽く手を振っている。
「ここ?」
「うん。近いから」
二人で並んで入ると、冷房の風が思ったより強くて、岬が一瞬だけ肩をすくめた。
ガラス張りで、昼間は少し眩しい。
まずは目的もなく、日用品の棚を流す。
ハンドクリームのテスターを見つけて、私が手に取る。
「これ、匂いきつい」
「ほんとだ」
岬も試してみて、指先を鼻に近づけてから、少しだけ顔をしかめる。
「これは?」
「無難」
「無難って大事だよね」
日焼け止めのコーナーでも同じようなやり取りをして、結局どれも買わない。
そういう寄り道が、今日は妙に楽しい。
それから、ヘアカラーの棚の前で足が止まる。
箱がずらりと並んでいて、写真のモデルはみんな完璧な髪をしている。
「……泡タイプが楽だと思うよ」
私が言う。
「私、一回だけだけど。失敗しにくいらしい」
「さすが経験者」
「一回だからね?」
念を押すように言うと、岬は小さく笑った。
「色、どうする?」
「うーん……」
岬は棚を見つめたまま、少し迷ってから言う。
「美結に選んでほしい」
「え」
「同じのでもいいよ」
私は一瞬考えてから、スイートブラウンと書かれた箱を一つ手に取る。
「岬の方が、ちょっと色素薄い気がするから……」
言いながら、岬の黒髪をちらりと見る。
「同じでも、全く同じにはならないと思う。たぶん」
「たぶん、か」
「自信はない」
二人で同じ箱を見下ろす。
岬はそれを受け取って、指で縁をなぞった。
「ねえ、美結」
岬が、ヘアカラーの箱を手に取ったまま言う。
「谷崎潤一郎の『刺青』、知ってる?」
「刺青……?知らないけど」
私は答えて、少しだけ悪戯っぽく言う。
「ピアスどころじゃないワルじゃん」
言われた岬は「えー」と笑いつつ、棚に視線を戻す。
「ずっと昔に読んだんだけど……なんか、ずっと残ってる」
「どのへんが?」
「自分の身体を、元に戻せない形で変えてしまうところ」
箱の角を、指でなぞりながら言う。
「痛いとか、怖いとか以前に、もう“前の自分”には戻れないっていう感じ」
私は黙って聞いていた。
「空想の中や、小説の中で、何度か書こうとしたことはあるんだ」
岬は小さく息を吐く。
「でも、うまく書けなくて。結局、全部途中でやめた」
「ふうん」
「読んだり考えたりするだけじゃ、どうしても届かない場所がある気がして」
岬の声は、問いかけというより、確認だった。
「……やっぱり、髪染めるの怖いんだ。かわいいー」
「そんなんじゃなくて」
私は笑いながら、同じヘアカラーの箱をもう一つ取ると、カゴに入れた。
「でも、やるんでしょ」
「……やる」
「ほら」
私はカゴを持ち上げる。
「心中だね」
岬がぽつりと言う。
「本当に文豪に染まってきたね」
そう言いながら、岬が何か言う前に、レジの方へ歩き出す。
「待って」
後ろから呼ばれても、振り返らない。
「今さら逃げられないよ」
岬は一瞬だけ立ち止まり、それから小走りで追いついた。
「……よろしくお願いします」
岬が、冗談とも本気ともつかない声で言った。
◯
午後三時を少し過ぎたばかりで、窓から入る光はまだ白く、岬の家は静まり返っていた。
家に誰もいない、という事実が、空気を一段軽くも重くもしている。
岬は髪を染めるのは初めてだけれど、姉がいるから、あの液剤のむっとする匂いだけはよく知っているらしい。だから家族が帰る前にやりたい、と何度か口にしていた。
私はこれまでに五回この家に来ている。でも会ったことがあるのは岬のお姉さんだけで、他の家族の気配はまだ知らない。玄関を上がるたび、今日こそ誰かに会うんじゃないかと、ほんの少しだけ背筋が伸びる。
洗面所は思っていたより広くて、生活感が整然と片付けられていた。岬は説明書を何度も読み返しながら、慎重に手袋をはめる。
その仕草を見ていると、電車の中で初めて見た、あの文学少女の横顔が一瞬重なった。
今は薄着で、洗面所の鏡の前に並んで立ち、お互いの髪に触れている。こんな状況が現実だなんて、少し信じがたい。
私は昔、友達と一緒に髪を染めたことがある。それは確かに事実として記憶しているのに、なぜか匂いも、会話も、笑ったかどうかも思い出せない。
それなのに今日のことは、もう既に記憶の底に沈澱していて、これから何度でも浮かび上がってきそうな予感があった。
液剤を塗り終えて、定着するまでの時間。
私たちは洗面台のすぐそば、隅のスペースに、横に並んで座った。膝と膝がぴったりくっついて、逃げ場がない。
岬は髪を上げていて、今まであまり見たことのない輪郭が露わになっている。ほっそりした顎の線と、耳の付け根。切れ長の目は相変わらず涼しげで、でもどこか落ち着かない光を含んでいた。
「お姉ちゃんのプレイリストに、バッハの無伴奏あったでしょ」
沈黙を破るみたいに岬が言う。
「うん、ヴァイオリンのやつだよね」
私は少し考えてから答える。
「……弦楽器の魔力が出すぎてて、ちょっと怖い。人が一人で出していい音じゃない気がする」
岬は小さく笑った。
「私は逆かな。ヴァイオリンとか、チェロって、人間の声みたいに聞こえる時があって。空気に溶けていく感じがする。寂しさが、少しだけ和らぐ」
「聴いてみる?」
そう言って私はスマホを取り出し、二人の膝が交差する場所にそっと置いた。
画面を操作する指が、岬の膝に触れて、すぐに離れる。
音が流れ始めると、洗面所の空気が変わった。
弓が弦を擦る音が、壁に反射して、また戻ってくる。液剤の匂いと、音楽と、誰もいない家。世界が一枚薄い膜に包まれて、外側から切り離されたみたいだった。
どれくらい経った頃だろう。
玄関の方で音がした。
「……世界の終わりみたいな光景ね」
洗面所の入り口に、岬のお姉さんが立っていた。私は思わず背筋を伸ばして、どうしていいかわからず口を開ける。岬は一瞬だけ視線を向けて、でも特に説明もしない。
「ちょっと待ってて」
そう言ってお姉さんは洗面所を横切り、カラーケアシャンプーを岬に手渡した。
「これ使いなさい。じゃ」
それだけ言って、家の奥に消えていく。
岬の「ありがとう」は少しだけ距離があって、いつもより温度が低かった。私はその空気に慌てて、曖昧に頭を下げる。
やがて時間が来て、私たちは並んで髪を洗い流す。
シャワーの水が、二人分の色素を溶かして、排水溝へと流れていく。
淡い色が混ざり合って、境目がわからなくなるのを、私はぼんやりと見つめていた。
今日という一日も、きっとこうやって混ざって、どこかに流れていく。
でも完全には消えない。
いつかふとした拍子に、またこの午後の匂いと音と、岬の輪郭が、静かに浮かび上がってくる気がしていた。
◯
岬のお姉さんの名前は、美しい波と書いて美波というらしい。
姉妹という関係。
私は一人っ子だから、その感覚を深くは理解できない。
でも、岬と美波さんの間には、少しだけ距離がある気がする。
二人とも、何かを創っている。
美波さんはギター、岬は小説。
分野は違うけれど、どちらも「誰かに評価される」世界にいる。
もし二人とも、夢を叶えられたら——
それは理想だけど、現実には難しい。
どちらかが先に進んで、どちらかが取り残される。
あるいは、どちらも夢を諦める。
姉妹だからこそ、比べられてしまう。
その重さを、私は想像することしかできない。
夕食後、美波さんがギターを取り出した。
美波さんが弾き始めたのは、あのパッサカリア。
指先だけで空気を折り畳むような、重く、美しい旋律。
私は息をするのも忘れて、聴いていた。
ふと、隣を見る。
岬は、じっと美波さんを見つめていた。
その目には、憧れと——
何か、言葉にならない複雑な感情が混じっている気がした。
お風呂を出たあと、岬の部屋でドライヤーを出した。
交互に乾かそう、ということになって、先に私が岬の後ろに回る。
ドライヤーの温風を当てながら、私は何気ない調子で言う。
「ご両親、そんなに驚いてなかったね。
お姉さんも染めてるし、まあ、こんなものなのかな」
岬は、少し間を置いてから言った。
「驚いてたと思うよ」
「そう?」
「うん。たぶんね」
声は穏やかだったけど、否定するというより、確信に近かった。
「お父さんもお母さんも、優しいでしょ。
でも、あんまり感情を外に出さないというか……わからない時がある」
ドライヤーの音に紛れて、岬の言葉が落ちてくる。
「それでも大好きだよ。
大事にされてるのも、ちゃんとわかってる」
私は、岬の分け目を指でなぞりながら聞いていた。
「ただね……本気で、私の悩みに向き合ったことは、たぶん、あんまりない」
その言葉で、胸の奥が少しだけ痛んだ。
岬が学校に来なくなったとき。
私もまた、どこかで「仕方ない」と思おうとしていた。
向き合わない理由を、正当化しようとしていた。
岬は続ける。
「私って、家族にとっては、
何があっても優しく包む対象なんだと思う。
残酷な正論をぶつける相手じゃない」
私は、ドライヤーを持つ手を止めずに、ただ聞いていた。
「もし私が、学校やめるって言ったらね、ちゃんと話は聞いてくれると思う。
たぶん、その通りに、色んな手続きもしてくれる。でも……」
少しだけ、言葉が詰まる。
「それが本当に、私にとって幸せか、とか。
そこまで、踏み込んではくれない気がする」
いつの間にか、岬の髪はすっかり乾いていた。
私はドライヤーの設定を送風に変えて、風を優しく送り続ける。
「……終わったよ」
私が言うと、岬は何事もなかったみたいに振り返る。
「交代ね」
昼間、薬剤を塗ったときよりも、色は落ち着いていて、やわらかい。
スイートブラウン、という名前が、そのまま当てはまる感じ。
「……いい色だね」
「そう?」
「うん。優しい感じ」
今度は私が座って、岬が後ろ膝立ちになる。
ヘアオイルを一、二滴。
髪に馴染ませる指先が、必要以上に慎重で、
それが少しだけくすぐったい。
ドライヤーを入れる前に、岬が言った。
「ねえ、美結」
「なに?」
岬は、机の上のメモ帳に手を伸ばして、
一枚、ぴりっと切り取った。
「最近書いてるやつ。断片だけど」
「読んでみて」
そう言って、私の手に渡す。
次の瞬間、ドライヤーの音が部屋を満たした。
私の髪は、岬より短い。
たぶん、すぐ終わる。
私は、断片を読み始めた。
◯
計器は静かに狂い始めている。
誤差は小さく、致命的ではない。
だが、修正を拒めば、確実に積み重なる。
私は、それを見つめながら操作を止めていた。
選択肢は三つあった。
進路修正。
減速。
あるいは、彼の船へ向かう大胆な加速。
どれも、正解だった。
同時に、どれも危険だった。
「……聞こえるか」
再び通信を開く。
返答は、数秒遅れて届いた。
「まだ生きている」
簡潔な報告。
それだけで、十分だった。
「君の信仰では、どうする」
問いは、挑発ではなかった。
ただ、確認だった。
「定められた航路を維持する」
彼は即答した。
「秩序は、最小の介入を是とする。
等速圏では、何もしないことが最良だ」
私は苦笑する。
「それは、選ばないという選択だな」
「違う」
彼の声は、以前より硬い。
「すでに選ばれている。
我々は、委ねているだけだ」
委ねる。
それは、彼の信仰の中で最も美しい言葉だった。
かつて、母星の海で、
潮の流れに身を任せながら、
彼は同じ言葉を使った。
――抗う必要はない。
――流れは、正しい場所へ運ぶ。
あのとき、私はそれを信じられなかった。
「もし、流れが君を殺す方向に向かっていたら」
沈黙。
「それでも?」
「それでもだ」
即答。
だが、完璧ではなかった。
私は、操縦桿に手を置く。
加速レバーに、親指が触れる。
「私は――」
言葉を選ぶ時間は、もう残されていなかった。
「私は、君を失う未来よりも、
秩序を壊す未来を選ぶ」
警告音が鳴る。
等速圏からの逸脱。
燃料消費、急上昇。
「やめろ!」
彼の声が、初めて怒りを帯びる。
「それは冒涜だ!
お前自身を、壊す行為だ!」
「知っている」
私は、船を傾ける。
「でも私は、
壊れなければ触れられないものがあると、
ずっと思っていた」
通信が乱れる。
映像に、彼の船影が映り込む。
距離、縮小中。
「……お前は」
彼の声が、震える。
「昔から、
答えのない場所へ行く人間だった」
「だから、ここにいる」
衝撃。
小惑星の破片が、船体を削る。
等速圏は、完全に崩壊した。
それでも、船は進む。
祈りを捨て、
正解を裏切り、
ただ一人を選んだ、その速度で。
◯
「……これ、この前の続編?」
声に出した瞬間、自分でも驚くほど、日常の温度だった。
ドライヤーの風が止まり、部屋の中に静けさが戻っている。
岬は、私の後ろでコードをまとめながら、少し間を置いた。
「うん。続編っていうか……同じ速度の、別の地点」
曖昧な言い方。
でも、岬らしい。
私はメモ帳の切れ端をもう一度見返す。
文字は小さく、ところどころ書き直した跡がある。
勢いで書いた、というより、何度も立ち止まりながら進んだ感じ。
「等速圏って、安全な場所のはずなのにさ」
私は言葉を探しながら続ける。
「ここでは、何もしないことが正解、みたいに扱われてるよね。でも……そのまま進んで、壊れていくのも、ちゃんと描かれてる」
岬はベッドの縁に腰を下ろした。
膝の上にドライヤーを置いたまま、私の横顔を見る。
「最初は、そういう場所を書きたかったんだと思う」
「安心できる場所?」
「うん。選ばなくていい場所。判断を委ねられる場所」
岬は一度、視線を落とす。
「でも、書いてる途中で気づいた。そこって……誰かを失う可能性がある場所でもあるなって」
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「じゃあ、この人――主人公は」
「たぶん、裏切ってる」
岬ははっきり言った。
「信仰も、秩序も、約束されてた未来も。全部」
その言い方に、責める感じはなかった。
むしろ、静かに肯定している。
「……私さ」
言おうか迷って、一度息を吸う。
「この『何もしないことが最良だ』って台詞、ちょっと怖かった」
岬が、わずかに眉を動かす。
「怖い?」
「うん。だってそれ、優しそうなんだもん。理屈もきれいだし。でも……誰かが苦しんでても、『今は時じゃない』って言えてしまう感じがして」
岬は、少しだけ笑った。
「やっぱり、そこに引っかかると思った」
「なんで?」
「美結は、たぶん……何もしないことを選ぶのが、一番しんどい人だから」
私は、返事ができなかった。
代わりに、また紙を見る。
最後の行――
信仰と感情の、どちらを燃料にするかを問われながら。
「これさ」
私は言う。
「燃料、どっちか一つじゃないとダメなのかな」
岬は、少し考えてから答えた。
「……混ざると、制御できなくなる」
「でも、制御できないから、進めることもあるんじゃない?」
言ってから、少し恥ずかしくなる。
まるで、自分が物語の続きを要求しているみたいだった。
岬は、私を見る。
「続き、書きたい?」
問いかけは、軽い。
でも、逃げ道はなかった。
「……一人で、は無理かも」
正直に言う。
「でも、二人なら。少なくとも、途中で止まる理由は減る気がする」
岬は、ゆっくりとうなずいた。
「じゃあ、決まりだね」
「何が?」
「等速圏の先。二人で書く」
その言葉の中に、同じ速度でいられる保証は、どこにもなかった。
昼に染めたばかりの髪は、もう乾いている。でも、何かが、確実に動き始めていた。
私は、メモの一片を胸に抱えたまま、思った。
――たぶんこれは、
選ばなかった時間の、続編だ。
岬の一件 まろえ788才 @maroee788
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