岬の一件

まろえ788才


夕方の交差点で、岬が急に立ち止まった。


「告白されたんだ」


「へぇ。岬が?」

声が揺れないように、軽く返す。


「さっきさ、駅で知らない人に声かけられて」


「ナンパ?」


「いや、学校の人」


「……ああ」


それだけで、察してしまう。

岬は、そういう対象にされやすい。


「それで?」

 

「孤高の存在って感じで、かっこいいって言われた」


岬が足を止めた。

信号はまだ赤。小さく息を吐く。


「三人も四人もいるグループは作ってないけど。

私には美結がいるし。群れてる女子と、そんなに変わらないと思うんだけど」


——私には美結がいる——


言葉だけが、頭の中で反響する。

一人だと思っていた岬の世界に、私は最初から含まれていたらしい。


「……まぁ、そういうこと」


岬はそれ以上何も言わず、歩き出す。

赤だった信号が、いつの間にか青に変わっていた。


「美結、コンビニ寄る?」

振り返らずに言う。

「チョコミント食べたい」


「食べる」


思ったより大きな声が出た。

でも、引っ込める気はなかった。


岬の「二人分の世界」に、自分がいること。

それが今は、何より嬉しい。



私たち二人は、いつも成績の境界線を彷徨っていた。

上には上がいて、下には落ちたくない。どちらにも踏み切れない、曖昧な場所。


私は普通に頑張っているつもりだ。平均点を割らないように、夜遅くまで英単語帳をめくり、数学の公式を頭に詰め込む。


問題は、岬だった。


岬は、本来ならもっと上にいられる。


放課後の教室。

人がまばらになり、机の上に夕方の光が斜めに差し込んでいる。


「ねぇ、岬」


隣の席から声をかける。


「さっきの数学の小テスト、範囲わかってた?」


岬は返事をせず、手元のメモ帳にペンを走らせていた。

罫線のない、小さなノート。真っ白なページ。


「……わかってたよ」


少し間を置いて、ようやく答える。


「でも『夜明け』をどう表現するかっていうのが、全然形にならなくて。集中できなかった」


岬の言う「夜明け」は、彼女がネットの鍵アカウントで書いている小説のテーマだ。


宇宙とか、孤独とか、正直、私の頭が置いていかれることも多い。


「どっちかが留年したら、私たちのグループ崩壊だね」


冗談めかして言うと、


「……それは困る」


返ってきた声は、妙に真面目だった。


「じゃあ今日は徹夜で課題やろうかな」

「ほんとに?」

「うん。約束する」


そう言いながら、岬は私の机に目を落とす。


「でも、美結」

「なに」

「そのプリント、まだ半分だよね」


「……う」


図星だった。


「私は普通の子だから仕方ないの」


言い訳とも開き直りともつかない言葉。


「普通の子、便利だね」


岬はくすっと笑って、またメモ帳に視線を戻した。


岬は、黒髪のセミロングを無造作に下ろしている。

毛先だけがわずかに内側へ巻いていて、その癖が彼女の輪郭を少しやわらかくしている。


切れ長の目元は相変わらず涼しくて、私は密かに、狐みたいだと思っていた。


私はスマホを片手に、意味もなくタイムラインを流していた。


「最近の子って、本当にみんな絵が上手いよね」


画面を少し傾けて言うと、岬は短く「うん」とだけ答えた。

視線は私ではなく、窓の外に向いている。西陽が差し込み、彼女の黒髪に細い影を落としていた。


「私ね、最近ずっと、デューラーの『メランコリア I』が頭から離れない」


「出た。急に難しいやつ」


苦笑しながら検索する。

画面に現れたのは、羽の生えた女性が頬杖をつき、道具に囲まれたまま沈黙している姿だった。


「……すごい憂鬱そう」


少し間を置いてから、言葉がこぼれる。


「なんか、岬に似てる」


「そうかな」


岬は楽しそうに目を細めた。


「……岬。なんか悩んでる?」


岬は答えず、代わりに私の方を向いた。

視線が、私の髪に落ちる。


「その髪、いいよね」


「え?」


指先が、私のボブの毛先に触れる。

中学まではずっと平凡なストレートで、高校に入ってから思い切って切った髪。似合っているのかどうか、今でもよく分からない。


「柔らかいし、いい匂いしそう」


確かめるみたいな触れ方だった。

私は身を引きかけて、結局、動けなかった。


「……変じゃない?」


思わず聞く。


「美結らしい」


あまりにも自然な言い方で、何も言い返せなくなる。


「ねえ、美結。マンゾーニの『いいなずけ』ってさ」


唐突に話題が変わる。

 

「えっと……婚約者が引き裂かれる話、だよね」

 

「それもある。でもね」


岬は少し考えてから続けた。


「あの作品の恋愛って、感情をぶつけ合わない。互いを想っているのに、ほとんど触れないし、言葉にもあまりしない」


「清楚系ラブストーリー?」


「うん。でも、それだけじゃない」


岬は窓の外を見たまま言う。


「どうしようもない外部の力に引き裂かれても、“愛している”って事実だけは、どこにも記さないまま守り続ける」


「……回りくどいね」


「触れないことで保たれる距離。枠に入らないまま、互いを選び続ける、みたいな」


「難しいこと言うね」


「難しいよ。私にも、まだよく分からない。

でもたぶん私は、ああいう距離感しか書けないし、ああいう関係じゃないと、耐えられないんだと思う」


「……じゃあ」


言わなくていい質問だと分かっていたのに、口が動く。


「岬は、触れない恋愛が好きなの?」


「好きというか……安全、かな」


沈黙が落ちた。

不思議と、居心地は悪くなかった。


気づいたときには、私は手を伸ばしていた。

指先が触れたのは、岬の耳先だった。


「……っ」


小さく肩が揺れる。

驚いたように目を細めたけれど、身を引くことはしない。ただ、状況を理解しようとするみたいに、一瞬だけ動きが止まる。


「ご、ごめん!」


我に返ったのは私の方だった。

慌てて手を引くと、心臓の音が急に大きくなる。


「今の、変だったよね。ほんとごめん」


「……いや」


少し間を置いてから、岬は耳元に手をやり、確かめるように触れた。


「驚いたけど。嫌では、なかった」


それから、触れられたばかりの耳先を触りながら、思いついたみたいに言う。


「今度さ、初めてのピアス、二人で開けてみる?」


「え?」


「自分でやるの怖いでしょ。二人なら、責任分散できる」


「……そういうことをさらっと言える岬の方が危ないと思う」


「そうかな」


岬は小さく笑った。



私が岬と親しくなったのは、ほんの少し前、二年の春。


私たちの制服は目立つ。駅に立てば、すぐにあの女子校の生徒だとわかる。


だから登下校は自然と連れ立つようになり、一人で行動する生徒はほとんどいない。

 

そんな中で、岬だけはいつも一人だった。

同じ路線を使っていたから、顔を合わせるようになった。

 

車内で彼女は決まって紙の本を読んでいる。隣が空いていれば座り、空いていなければ、近くに立った。特に理由はない。


ただ、そこにいるのが当たり前のような顔をしていたかった。


彼女の隣を歩くようになってから、通学が少しだけ楽しくなった。


自然に始まった関係だったから、無理に距離を縮める必要もなかった。

それでも岬は、私の中ではどこか遠いままだった。

 


通知:『螺旋』更新しました。


夜明けは、まだ来ない。

それとも、私だけがそれを認識できていないのか。


カーテンの隙間から差し込む光は、昨日と同じ角度で床を照らしている。

同じ色、同じ温度。

朝は確かに存在しているのに、新しさだけが欠落している。


マグカップから立ち上る湯気は、すぐに輪郭を失い、空気に溶ける。

触れられない。

掴めない。

けれど、消える直前の一瞬だけ、確かにそこに在ったと分かる。


私の時間も、たぶんそれに似ている。


前に進んでいるはずなのに、景色は変わらない。

同じ問いに戻り、同じ言葉をなぞり、同じ場所で立ち止まる。


それでも完全な円ではない。

わずかに、ほんのわずかにだけ、高さが違う。


回っているのではなく、

落ちているのでもなく、

ただ、ずれながら続いている。


それを人は、成長と呼ぶのかもしれないし、

停滞と呼ぶのかもしれない。


私には、まだ名前がつけられない。


書くことをやめれば、この運動はそこで終わる。


ただ消えていく。


だから、私は書く。

夜明けを迎えるためでも、救われるためでもない。


書くことをやめない。

それだけが、今の私に残された、唯一の抵抗だ。



その週末、私たちは朝早く家を出た。

電車の窓から見える街並みは、次第に田園へ、森へと形を変えていく。


見慣れた看板や交差点が消えていくたびに、日常が一枚ずつ剥がされていくようだった。


岬はスマホを持たない両手を膝に置き、黙って外を眺めている。


通学中のように文庫本を開かないのは、私に気を遣ってくれているのか、それとも今日は読む気分じゃないだけなのか。


「……ねぇ、岬」


「なに?」


「日焼け止め、塗ってる?」


「うん、海だし」


私は少し顔を近づける。


「桜の香りって書いてあるやつでしょ。でも、ローズっぽさもあるし、ちょっと柑橘も混ざってない?」


「日焼け止めの匂いだけじゃないと思うけど……よく分かるね」


岬は、わずかに眉を上げた。


「美結、匂いフェチ?」


「ちがうけど」


笑いながら首を振る。


「私は、美結の髪の匂いの方が嗅いでみたい」


岬は首を傾げたあと、何でもないことのように言った。


「……なんて?」


「前も言ったでしょ。柔らかくて、いい匂いしそう」


本当に何気なく言うから、余計に始末が悪い。


「ねぇ」


気を取り直すみたいに、私は窓の外を見たまま言う。


「車窓っていいよね。自分が前に進んでることだけに意識が向く」


岬は、自分の手元を見つめたまま答えた。


「わかる。普段は画面の中の情報に溺れて、自分がどこに立っているのかも忘れてしまうから」


相変わらず小難しい。

岬が紙の本を選ぶ理由にも、きっとこういう感覚があるのだろう。


辿り着いたのは、関東の喧騒から切り離された、静かな海辺の街だった。

駅を出た瞬間、潮風が一気に鼻腔を満たす。


「……空気、冷たい」


「でも、頭が冴える」


岬の言葉通り、試験やデジタルに疲労していた思考と時間が、少しずつ洗われていく気がした。


砂浜に降りると、波の音だけが、均一なリズムで世界を満たしていた。


しばらく、二人とも何も言わなかった。


「すごいね」


先に口を開いたのは、私だった。


「何が?」


「この均一さ。どこを見ても、波と砂だけ。……同じことを繰り返してるだけなのに、全然飽きない」


「でも美結は、街の喧騒とか、人間の感情の移ろいの方が好きだよね」


「まあね」


私は笑う。


「岬は自然が好きなんでしょ。人間の常識が通用しないから」


岬は少し考えてから、静かに頷いた。


「私は、倫理も常識も関係なく、ただ“ある”だけの強さが好き」


「孤独、ってやつ?」


岬の小説に繰り返し現れる言葉が、ふと浮かぶ。

潮風に晒された私の横顔が、少し赤くなっているのを、岬は見ていた。



私たちは海辺の街を抜け、少し内陸へ歩いた。

やがて現れたのは、数年前に閉鎖されたという巨大なショッピングモールだった。色褪せた看板、閉ざされたシャッター、煤けたガラス。


「これが廃墟かあ。こんな規模のは初めて見た」


自分でも意外なほど、その光景が胸の奥に響いていた。


「海で頭を空っぽにしたのに、今度は心が冷えるね」


岬が、ため息まじりに言う。


「これも孤独だよね」


ここでは、人が集まり、欲しいものを手に入れ、思い出を作っていたはずだ。


この冷え切った建物が、岬自身の創作の停滞と重なって見えた。

この旅は、彼女が孤独を風景として確かめるためのものだったのかもしれない。


日が傾く頃、私たちはすっかり疲れていた。


「ねぇ、タクシー呼ばない?」


「私、乗ったことないかも」


私がスマホで呼び、二人にとって初めてのタクシーに乗り込んだ。

後部座席に沈み、窓の外を見る。電車より視線が低く、景色が地面に近い。


「電車の景色って、物語みたいだったけど」


「うん?」


「タクシーから見ると、ドキュメンタリーだね。未来じゃなくて、“今ここ”を見てる感じ」


岬は少し考えて、簡潔に答える。


「それ、好きな言い方」


答えも結論も出なかった。

けれど、電車からタクシーに乗り換えたみたいに、私たちは同じ世界を、少し違う高さから見られた気がした。



週末の夜、私たちはファミレスのボックス席にいた。

試験前でもないのに、岬は参考書を広げ、その上にノートを重ねている。


消し跡が幾重にも残り、文字は途中から崩れ、意味を失った線や図形に変わっていた。


コーヒーを一口飲んだあと、岬はふいに顔を上げた。


「ねぇ、美結」


「なに。今日はずいぶん沈んでるね」


「……もし私が、この学校を辞めたら、美結はどう思う?」


手元のストローが指から落ちた。


「……冗談、だよね?」


「うん。半分は」


岬は視線を外し、ノートの端をなぞる。


「小説が書きたいんだ。うちの高校、単位も厳しいし……辞めるなら、今なのかなって」


そこには、いつもの比喩も理屈もなかった。


私はすぐに言葉を返せなかった。

「辞める」という響きが、自分の中の触れずにいた場所に当たった。


「学歴とか、就職とか……そういう話じゃないんだけど」


自然と声が低くなる。


「正直、そういうのはどうにでもなると思う。別の道もある」


流れていくタイムライン。

比べて、折れて、描かなくなった自分。


「でもね、途中で辞めたっていう事実だけは、ずっと残る」


テーブルに手を置き、ゆっくり言葉を選ぶ。


「辞めた直後は、楽になる。でも何年かして、行き詰まったときに必ず思うんだよ。

――あの時、もう少し踏ん張ってたら、って」


声がわずかに震える。


「だから……辞めるって決断だけは、軽くしないでほしい」


店内のざわめきが、遠のいた気がした。


「……美結」


「ごめん」


慌てて笑う。


「留年したら、私たちの二人組が崩壊するしさ。必死なだけ」


冗談めかしたけれど、岬はすぐには笑わなかった。


「……ありがとう」


少し間を置いて、そう言った。


「冗談半分だったけど……ちゃんと考えてくれたんだね。もう少し、頑張ってみる」


岬は乱れたノートを静かに閉じた。


岬の思考が、宇宙や真理から、ほんの少し人間の方へ降りてきた。

それだけで、今夜は十分だった。



「いつもさ、岬って、私の降りる駅の一つ前で降りるよね。家、近いのかな」


下校の電車。

本から目を離さないまま、岬は短く答えた。


「かもね」


「じゃあ……今日、岬の家、行ってもいい?」


言ってから、心臓が騒がしくなる。

ただ友達の家に行くだけなのに、どうしてこんなに緊張するのか、自分でもよくわからない。


岬はそこでようやく本を閉じた。


「別にいいけど。どうして?」


「どんな本読んでるのか、ちゃんと見てみたくて」


咄嗟の言い訳に、岬は特に反応せず、「分かった」とだけ言った。


私の降りる駅の一つ手前。

初めて、二人で同じ改札を抜ける。


岬の家は、古いけれどきちんと手入れされていた。

門の前で立ち止まったままの岬に戸惑っていると、


「インターホン、お願い」


仕方なく押す。音がやけに大きく響いた。


扉を開けたのは、大学生くらいの女性だった。

明るく染めた髪をまとめ、ラフな服装。


「岬の友達? 入って入って」


「……ただいま」


岬は気だるそうに言って、靴を脱ぐ。


(お姉さん……?)


「本は一階。部屋は二階」


岬はそれだけ言って、階段を上がる。


岬の部屋は、拍子抜けするほど何もなかった。

机と椅子とベッド。それだけ。


「物、あんまり持たないんだ」


「本に使うからね」


机のコルクボードに、写真が一枚だけ貼ってある。

海を背に、私と岬が並んで笑っている。


「本を二階に置かないのは、地震対策」


「合理的」


階下へ降りる途中、キッチンから声が飛ぶ。


「岬が友達連れてくるなんて珍し」


「クラスメイト」


即答だった。


「はいはい」


お姉さんは意味ありげに笑った。


奥の部屋は、壁一面が本棚だった。

私たちはそこで立ち読みをした。


岬は難しい本の話を楽しそうに語る。

内容は半分も理解できない。

それでも、その声を聞いているだけで、十分だった。



放課後、いつものように並んで帰る途中、岬はやけに落ち着きなく、何度も指先を組み替えていた。歩幅も少し速い。


「美結、聞いてくれる?」


「うん。なに?」


「実は、この前……鍵垢、解除したんだ。全体公開にした」


一瞬、意味を理解するのに間があった。


「えっ? 鍵垢って、あの長編載せてるアカウント?」


「そう。それ」


「どうして急に?」


「この学校を辞めるかもしれない、なんて弱音を吐いた後にさ。なんか……一回くらい外に投げてもいいかなって思った」


岬は笑おうとしたけれど、口元だけが少し引きつっていた。


「……で、どうだったの?」

私は、なるべく軽く聞いた。「変なコメントとか、来てない?」


「閲覧数は、別にそんなに増えてないよ。でもね」


岬はスマホを取り出し、画面をこちらに向けた。


「『この考察好きです』って。こういうコメント、数人だけど来てさ」


声が、ほんの少し弾んでいる。


「すごく嬉しかった。正直、こんな反応もらえると思ってなかった」


「そっか……それは、良かったね」


「うん。なんか、モチベ上がったんだ。書ける気がするし、むしろ勉強も頑張れそうで。両立、できる気がする」


その時の岬の表情には、あのファミレスで見た憂鬱の影はなかった。

代わりにあるのは、高揚と、少し危うい期待。


「……そっか」


私はもう一度、そう言った。


でも同時に、胸の奥に、小さな引っかかりが残った。


岬の言う「頑張れそう」は、未来への宣言というより、自分自身への暗示みたいだった。



それから数日間、岬は明らかに不安定だった。


岬は、学校を休んだ。


最初は、「寝坊かな」と思った。

次に、「体調不良かも」と考えた。


でも、昼になっても、夕方になっても、岬から連絡は来なかった。

二日目も、三日目も、彼女の席は空いたままだった。


私はメッセージを送った。

電話もかけた。


既読はつかない。

コール音だけが、無機質に耳に残る。


(風邪? それとも……)


三日目の放課後。

黒板の文字が、まったく頭に入らなかった。


終業のチャイムと同時に、私は立ち上がっていた。


そのまま、岬の家へ向かった。



(突然来たら、迷惑かな……)


インターホンの前で、数秒、指が止まった。

それでも、引き返す理由は見つからなくて、意を決して押した。


少し間があって、応答が返る。


「はーい」


聞き覚えのある、軽い声。


門の向こうから現れたのは、お姉さんだった。

明るく染めたロングヘアー。


今日は岬の中学のジャージではなく、ゆったりしたニットにデニムという、相変わらず気の抜けた格好をしている。


「あれ、美結ちゃんだよね?」


「あ、はい……」


一瞬、どう切り出せばいいか分からず、言葉に詰まる。


「岬に用事?」


「……学校、三日休んでて。ちょっと心配で」


言い終わる前に、お姉さんは「ああ」と小さく頷いた。

驚いた様子はなく、どこか事情を知っているような顔だった。


「そっか。来てくれて、ありがと」


それだけ言って、門を開ける。


玄関に入ると、家の中は静かだった。

生活音はあるのに、人の気配だけが、薄い。


「岬ね、二階。今日は、起きてはいると思う」


そう言いながら、お姉さんは靴を揃える。


「顔見るだけでも、十分な日ってあるし」


階段の前で、お姉さんは足を止める。


「じゃ、私は下でコーヒー淹れてるね。

終わったら、声かけて」


「……ありがとうございます」


私は、一人で階段を上りながら、胸の奥が少しだけ軽くなるのを感じていた。


(お姉さんも、全部分かってるわけじゃないかもしれない)


でも、分かろうとしすぎない、その距離が。今の岬には、ちょうどいい気がした。


二階の廊下は、静かだった。

岬の部屋の前に立つと、急に、心臓の音が大きくなる。


 ──私は、絵を描いていたことがある。

ネットの向こうで誰かが描いていて、かっこいいと思った。


五千円のペンタブレット。

あの重さと、机の上で少し滑る感じだけは、まだ覚えている。


いつの間にか、絵をネットに載せるようになっていた。

反応があったのか、なかったのか、今では曖昧だ。


中学三年の頃、ペンタブが壊れた。

ああ、こうやって終わるんだ、という感じだった。


買い替えなかった理由も、ちゃんとは説明できない。


ただ、置いた。

机の隅に、そっと。


心臓の音が、やけに近い。


岬の部屋の扉をノックしようとして、

もう一度だけ、深呼吸をした。


(三日ぶりだ)


その事実を、胸の中で確かめてから、

私は、そっと扉を叩いた。


「岬? 美結だよ。いるんでしょ。返事して」


沈黙。


もう一度、少し強く叩く。


「岬、心配なの。小説も何もアップされてないし、連絡もつかない。

何かあったなら、話して。お願い」


しばらくして、扉の向こうから声がした。


「……私は、才能がない」


その一言が、重く、扉越しに落ちてくる。


「本当は、ずっと分かってた。子どもの頃から、難しい言葉を並べて、自分は特別なんだって、思い込もうとしてただけ」


声は、今にも折れそうだった。


「凡庸さが、一行書くたびに分かる。……何も生み出せない自分が、はっきり見えちゃった」


「そんなことない!」

思わず声が裏返る。


「岬の文章は――」


「メランコリアの絵を見た時、私だって突きつけられたんだ」


岬は、私の言葉を遮った。


「無限に思考するだけで、何も生み出せない。

あの絵の女性みたいに、考えすぎて溺れて、沈んでいくだけ」


その独白は、「何かにならなければならない」とずっと自分を追い詰めてきた岬の、芯の部分を剥き出しにしていた。


「……私は、美結のいる“グループ”に、もう戻れない」


扉に耳を当てると、木目のざらつきが頬に伝わる。


その瞬間、私は悟った。


(岬は、孤独を愛してなんかいない)

(孤独に、閉じ込められているだけだ)


この扉は、ただの木製じゃない。

岬自身が内側から鍵をかけた、心とプライドの境界線だ。


そして私は今、その境界の、すぐ手前に立っている。


(戻れない? 才能がないから?)


私にとって岬は、創作の天才かどうかも、優等生かどうかも、関係ない。


ただ、隣にいてほしい人だ。


才能の限界に怯えて、一番大切な場所から勝手に降りようとしているその姿が、どうしようもなく不器用で、どうしようもなく愛おしかった。


気づいたら、私は扉のノブに手をかけていた。

考えるより先に、体が動いていた。


拍子抜けするほど、あっさりと扉は開いた。


「あれ?」


思わず声が漏れる。


「こういうドラマチックな展開って……

鍵、かかってるものじゃないの?」


開け放たれた扉の前で、私は呆然と立ち尽くした。


岬も、目を見開いて固まっている。


「……元から鍵なんてついてないよ、この部屋」


「え……」


一気に力が抜ける。

あれだけ重い独白を聞いた直後に、物理的な障壁が最初から存在しなかったなんて。


あまりにも岬らしくて、あまりにも間抜けで、それが逆に、胸の奥をじんとさせた。


岬は、意外なほど落ち着いた様子だった。

いや、落ち着いているというより――


三日間引きこもっていたとは思えないほど、髪は整えられ、普段より少しだけ凝った白いワンピースを着ている。


「……岬。その格好」


「今から出かけるつもりだった」


少し視線を逸らし、照れたように言う。


「ずっと篭ってると、自分が分からなくなるから。……誰にも会わないつもりだったけど」


ふっと、微笑んだ。


「美結。一緒に行く?」

 


岬の部屋を出て階段を下りると、一階からかすかに生活音が聞こえた。

キッチンの方で、お姉さんがマグカップを片づけている。


私たちに気づいて、ちらっと振り返る。


「あ、起きたんだ」


それだけ言って、岬の格好を一瞬だけ見る。


「いいじゃん」


岬は何も答えず、靴を履く。


お姉さんはそれ以上何も聞かない。

ただ、通り過ぎるときに、軽く言った。


「いってらっしゃい」


「……いってきます」


玄関の扉が閉まる。


外に出ると、湿った大気に包まれて、現実感が戻ってきた。

振り返っても、もう誰も見送ってはいない。


でも、不思議と、背中を押された感じがした。


近くにある、区の公園へ向かう。

二人で並んで傾斜のある芝生に座り、沈んでいく太陽を、黙って見送る。


しばらくして、静かに岬が言葉を紡ぐ。

「イグノラムス・イグノラビムス——“我々は知らぬ、そして知ることはないだろう”」


夕暮れに染まる空を見上げたまま、岬が言った。


「私は、子どもの頃から宇宙が怖かった。

無限で、答えがなくて、でも真理からは絶対に逃げられない。

その“逃げ場のなさ”が、ずっと怖かった」


芝生を撫でる風が、昼の熱を少しずつ冷ましていく。


「書いてきた小説も、結局は同じテーマばかり。

無限とか、孤独とか、理解されない意識とか……

もしかしたら、そういうのって、今はもうウケないのかもしれないね」


岬は苦笑する。


「現代向けに調節すべきなんだろうけど、私って……」


「不器用だよね」


私が言うと、岬は一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。


「……うん。否定できない」


少し間を置いて、岬は続ける。


「でもさ、美結だけは、私のことを分かってくれる気がする。

宇宙の真理より難しい、他人の心を」


「他人じゃないよ」


私は意を決して、岬の方を向いた。


「メランコリアの絵を見た時、本当に岬に似てるって思った。

でも、悪い意味じゃないよ。

笑ってる岬も、憂鬱な岬も、考えすぎて黙り込む岬も――」


言葉が、震える。


「岬の顔なら、どんな表情でも、ずっと見ていたい」


それは、友情の言葉ではなかった。

でも、恋としても、あまりに不器用だった。


岬は顔を赤らめ、視線を落とし、やがて小さく息を吐いた。


「……それは、ちょっと重いね」


「お互い様でしょ」


私は、思い切り笑った。


岬はしばらく私を見つめていたが、やがて耐えきれなくなったように、ふふ、と笑った。


夕暮れの中で、二人の笑い声が、静かに公園に溶けていく。


(この先も、きっと簡単じゃない)

(でも――)


岬の孤独は、誰にも触れられないものじゃなかった。

少なくとも今は、そう思えた。



学校では欠席理由を「風邪」で通していたけれど、私にだけ、岬は正直に教えてくれた。


実際は、無限に寝落ちして、目覚めて焦って、落ち込む

それを繰り返していただけだったらしい。


不器用で、完璧主義で、限界を迎えただけの人間だった。


ある日、カフェで。

岬が難しい本を読んでいる隣で、私はタブレットを取り出した。


「デジタルイラスト、再開したんだね」


本から目を離し、私の顔を見て、岬が言う。


「うん。岬のおかげかも」


私がそう言うと、岬は珍しく本を閉じた。


「海に行った時、話してくれたよね。

人にはそれぞれ波がある、みたいな」


私は静かに続ける。


「それを逃さないためには、ずっと海を見つめていなきゃいけない」


「美結は……波が来る前に、海を諦めたんだね」


「うん。でも、戻ってきたよ」


私はペンを走らせる。


「嫉妬は、今もするよ。でも今は、『いつか自分の波を掴む』って思える」


岬は何も言わず、ただ私を見て、微笑んだ。


その顔に、以前のような切迫した憂鬱はなかった。


「ねえ、美結」


「なに?」


「最近ね……『メランコリア I』、見なくなったんだ」


「え、ほんとに?」

私は思わず声を上げる。

「良かったじゃん! ついに、あの憂鬱そうな羽根付きのお姉さんとお別れできたんだね」


冗談めかして言うと、岬は少し照れたように、でもはっきりと頷いた。


「うん。……代わりにね、最近はジョルジョ・デ・キリコにハマってる」


「デキリコ?」


聞き覚えはあるけれど、具体的なイメージが浮かばない。

私はスマホを取り出して検索した。


画面に現れたのは、やけに長い影、歪んだ遠近法、誰もいないイタリアの広場。

唐突に置かれたマネキンや幾何学的な塔、遠くを横切る小さな汽車。


「……あ」

思わず声が漏れる。

「これ、小学校の美術の教科書で見た気がする。なんか、不安になるやつ」


岬が身を乗り出すようにして、私の画面を覗き込んだ。


「どう? 美結」


その目は、久しぶりに見る、純粋な期待で輝いていた。


「うーん……」

私は少し考えてから、正直に言った。


「前より、岬の中、カオスになってない?」


岬は一瞬、心外そうに眉をひそめたけれど、薄く笑う。


「違うよ、美結。この絵は、息苦しい枠に、自分を閉じ込めていた私を、外に連れ出してくれたの」


私はタブレットを置き、黙って聞いた。


「正しい理屈も、立派な構造もなくていいってこと」


その声は、どこか軽やかだった。


(鍵のかかっていない扉に、鍵をかけていたのは――やっぱり岬自身だったんだ)


胸の奥が、じんわりと温かくなった。

彼女はようやく、自己否定の檻から、外に出られたのだ。


私はもう一度、画面のデ・キリコを見つめた。

不気味なほどの静けさ。意味のなさ。

それでも、そのカオスには、確かな引力があった。


私は、タブレットを手に取る。


「私もね、上手い人の絵を真似しようとしてた頃は、自分の描きたいものがどこにもない、空っぽの広場に立ってる気分だった」


画面には、最近描き始めたばかりの、少し歪で、でも確かに私自身の感情が宿ったイラストが映っている。


「岬が私に、理屈で勇気づけてくれたおかげで、私はまた描こうと思えた。

それで、今度はデ・キリコの絵が、岬を自由にした」


「……うん」


岬は深く頷いた。


私たちはまだ、完成された天才でも、立派な大人でもない。

それでも、それぞれが自分の中にある「諦め」の影と向き合い、もう一度、孤独な創作の海へ飛び込む勇気を持てた。


岬が、自分の言葉で世界を見つめられるようになったことが、私はただ嬉しかった。



通知:『極北』更新しました。


男ルオスは、その腰に佩いた古びた両刃の鉞を、無意識に撫でていた。


「エルネよ。もし、彼らの汚れた手に我らが落ちるならば、私はこの刃にて、お前の魂を先に解き放とう。

その時、お前もまた、ためらわず私の頸に力を加えよ」


女エルネは、その冷たい鋼に、凍えた指を静かに重ねた。


「我が愛しきルオス。誓いましょう。

けれど……時として、私はこの世界を、簡単には諦められない」


ルオスは立ち上がり、眼下に広がる風景を示した。


「見よ、この青き山々を。夜明けを待つ湖の面を。

天を翔ける鷹、水面を跳ねる魚の一瞬の輝きを。

そして、お前が掘り出した、土の底の、わずかな甘き根菜を」


彼の声には、絶望ではなく、この美しすぎる世界への、抗いがたい執着が滲んでいた。


「これらすべては、ただ在るだけで奇跡だ。

それを、無意味な死によって断ち切ることの、なんと惨たらしいことか」


エルネは、静かに微笑んだ。

そして湖面のように深い眼差しで、彼を見上げる。


「愚かなルオス。

お前は、私をずいぶんと軽く見ている」


彼女は立ち上がり、彼の両頬に、自らの手を添えた。


「もし私が先に死んだなら、私はお前に取り憑いてやろう。

お前の口を借り、祖先の言葉を借り、部族の者ども、

そして仇敵ガランガ族の斥候にさえ、私の愛を語らせる。

お前は、この世の誰よりも、

私がどれほどお前を思っていたかを――

お前自身のその口から、何度も聞くことになるのよ」


彼女の吐息は、極寒の空気の中で白く、濃く揺れた。


「お前は私に縛られる。

この世界への執着ゆえに。

お前は、私の死後、そう遠くないうちに、

自らこの湖の畔へ降りてくるでしょう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る