スナック残涙
枯枝 葉
スナック残涙
オレは黙ったまま、タバコを咥えた。
ママは、その動きを見逃さない。そばにある『スナック
小さな引き出しから一本、マッチ棒を取り出す。何度も擦られて白くなった擦り跡に、赤い頭を走らせた。
――シュッ!
硫黄の匂いが、ロックのウイスキーとカウンターの古木の香りに混じり、すぐに薄れていく。
小さな炎が、彼女の指先で揺れる。ママは僅かに身を乗り出し、咥えたタバコの先にそっと火を近づけた。
オレの影が、長年磨き込まれたカウンターに滑り出ていく。
差し出された炎にタバコの先を触れさせ、ひと息吸う。
――ジー。
赤が、じわりと滲む。
吸い込まれるたび、炎は小さく震えた。
彼女は、何も言わない。
火の具合を確かめると、マッチを離し、火を吹き消した。
オレは軽く会釈する。ママは笑みを浮かべながら、燃えさしを灰皿に置いた。
吐き出された蒼白い煙と、マッチの微かな残り香が絡み合うように、天井の暗がりへと消えていく。
「ロック、お作りしましょうか?」
「……ああ。シングルで……」
ママは静かに棚から一本のボトルを抜いた。ラベルは少し色褪せている。派手さはないが、長く置かれてきた酒だとわかる。
氷を取り出す音が、店の奥まで澄んで響く。
角の取れかけた氷を二つ、トングでつまみ、ロックグラスの底に静かに落とした。
ママはグラスを一度だけ回し、冷えを確かめてからボトルを傾けた。
――トク、トク、トク。
低い音が、うす暗い店内の静けさに染み込んでいく。琥珀色の液体が氷の角をなぞりながら、光を含んでゆっくりと満たされていく。
「どうぞ」
短い声だった。
オレがグラスを手に取ると、氷が小さく響く。
その音を聞いて、ママは微かに微笑んだ。
「以前来たときに気になっていたんだが、ここのスナックの名前『残涙』って……」
ママは、少しだけ視線を落とした。
「……『残涙』というのはね、悲しみや未練が完全には消えず、心に燻り続ける感情のことなの。……消え切らない涙――そんな経験、ありませんか? 微笑みの裏に残涙を隠して、好きだった人と別れた想い出って」
オレはグラスを傾けた。
「うーん、そうだな」
電灯色の光が、オレを過去へと誘う。
「……もう五年前のクリスマスになる――オレを残して先に逝った……妻」
ママは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。それから、少し遅れていつもの微笑みに戻った。
「……」
「それまでは大好きだったクリスマスの季節なのに……それからは、くるたびに辛くなった」
「……」
「去年、初めてこの店に寄った。何も訊かれなかったのが、救いだった。その静かな気配りが心に残ったんだ」
「……ありがとうございます」
その時、店のレトロな柱時計がクリスマスの夜の終わりを告げた。
「……じゃあ、帰るよ。来年のクリスマスに、また」
「はい。お待ちしています」
ドアのベルが鳴り響いた。
グラスや灰皿を洗いながら、ママは心の中で独り言を呟いた。
――この店に来る客も、みな私と同じ。人生の途中で灯りを探している。深い夜にひとり溺れる前に、少しだけ飲んで心をほどき、またそれぞれの闇へと帰っていく。もう二度と戻らない時間の――その続きを心から願いながら。
ねっ、そうでしょ? あなた……。
――おわり――
◼️本作品はフィクションであり、実在の店名・人物等とは一切関係ありません。 また、本作品の著作権は、作者にあります。
スナック残涙 枯枝 葉 @kareeda-you
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