ぼくだけのグリズリー

あまいこしあん

ぼくだけのグリズリー

「ふぅ~、今日もしゃべったね。喉、大丈夫?」


そう言って彼女は、配信部屋の隅で用意してあったコーヒーの入ったマグカップを手に取り、桃熊みつに差し出した。


桃熊みつは、椅子に深く腰を下ろしたまま少しだけ顔を上げ、それを受け取る。


「ありがと。助かる」


マグカップを持つ仕草や、息を整える間の取り方は、さっきまで配信画面に映っていたものとほとんど変わらない。


落ち着いた声色も、言葉を選ぶ癖も、相手との距離を測るような視線も。


彼女はそれを見て、ぽつりと言った。


「配信終わったのに、まだ“みっちゃん”してるね」


その言葉に、桃熊みつは一瞬だけ目を瞬かせてから、少し困ったように笑った。


「そんなに分かる?」


「うん。毎日一緒にいるし」


彼女はそう言って、テーブルに肘をつく。

マグカップを持つ桃熊みつの様子を、何気なく眺める。


飲み方も、間の取り方も、ほんの少し肩の力を抜く仕草も、配信で見てきた“みっちゃん”そのままだった。


「切り替え、苦手なんだよね」


桃熊みつはコーヒーを一口飲んでから言う。


「配信だからこう、っていうより……

たぶん、家にいてもこのままなんだと思う」


それは言い訳でも、照れ隠しでもなくて、ただの事実を口にしているような声だった。


彼女は小さく頷く。


「嫌じゃないよ」


「ほんと?」


「うん。むしろ安心する」


桃熊みつは、その言葉に少しだけ肩の力を抜いた。


「そっか。それなら、よかった」


短い沈黙が落ちる。

生活音だけが、部屋に残る。


「ね」


彼女が声をかける。


「配信のときって、あんなにたくさんの人に向けて話してるでしょ」


「うん」


「今は……どう?」


桃熊みつは、すぐには答えなかった。

カップを持ったまま、少し考える。


「今はね」


視線が合う。


「ちゃんと、一人に向けて話してる」


特別な意味を含ませる言い方じゃない。

でも、曖昧にも逃げていない。


彼女はその答えに、満足そうに息をついた。


「そっか」


それ以上、踏み込まない。

それ以上、踏み込ませない。


「みっちゃん、夜型だもんね。まだまだ話せる?」


彼女は笑いながら訊ねる。


「うん、そうなんだよ。配信は終わっても、まだ頭が冴えてる感じ」


桃熊みつは椅子に深く座り直し、カップをテーブルに置く。


「だから、配信終わっても一緒に話してるのが好きなんだ」


彼女は嬉しそうに頷いた。


「私もだよ。みっちゃんの声、ずっと聞いていたいし」


二人は自然な距離感のまま、夜の静かな部屋でゆっくりと会話を続けていく。


外はもう暗いけれど、二人にとってはこれからが本番の時間だった。


「じゃあさ、もうちょっとだけダラダラしよ?」


彼女がにやりと笑う。


「えー、まだ?みっちゃん、明日も配信あるよ?」


桃熊みつはだるそうに伸びをしながら言う。


「夜型だから仕方ないじゃん。昼間はほとんど寝てるし」


彼女は目を細めて笑う。


「それで、みんなに元気な声届けてるの、すごいよね」


「でもね、配信の時はもちろん別の緊張感とか責任感もあるから、心が休まるって意味じゃ、やっぱりこっちの時間のほうが大事なんだ」


みつは、そう言葉を補足した。


「ファンのみんなの前で話すのは好きだし、すごく嬉しいけどね。でも、それが全部じゃなくて。配信じゃない時の自分でいられる時間が、なにより大切なんだ」


彼女は、少し目を伏せながら続ける。


「だから……こうして、君と話しているこの瞬間は、配信よりも心からリラックスできてるんだよ」


彼女の声には、安心感とほんの少しの照れも混じっていた。


彼女たちは夜更けの時間を共有しながら、あれこれ話し続けた。


配信のこと、リスナーのこと、そしてお互いのこと。


桃熊みつがどんな思いで話しているのか、彼女はどんな風に支えたいのか。


二人の間には、言葉にしきれない温かさがあった。


「そういえば、最近また新しいリスナーさんが増えてるみたいだよ」


彼女が言う。


「うん、ありがたいことにね。いつも同じ人たちだけじゃなくて、新しい人も来てくれるのは嬉しい」


桃熊みつは、画面の向こうで見ているリスナーの顔は見えないけど、その存在はいつも感じている。


「でも、新しい人って、やっぱり最初は緊張してコメントも少なかったりするよね」


彼女はうなずく。


「そうだね。でも、慣れてくるとどんどん馴染んでくれて、楽しくなってくるんだよ」


「そういうの見るのも楽しいよね」


「うん、みんなの成長を見守るのって、なんだか親戚みたいな気持ちになる」


時間は過ぎていき、夜は深まった。


時計の針が午前6時を過ぎても、二人の会話は続く。


「ねぇ、みっちゃん」


彼女が少し真剣な顔で言う。


「配信で一番嬉しかったことって何?」


桃熊みつは少し考えてから、口を開いた。


「うーん……やっぱり、リスナーの人たちが笑ってくれるときかな」


「そうだよね」


「私、話すことが好きだから、誰かが楽しんでくれてるのが一番の喜びなんだ」


彼女は微笑む。


「だから、リスナーのみんながいてくれて本当に良かった」


桃熊みつの言葉は、心からの感謝で満ちていた。


「それにね」


彼女は話を続ける。


「たまに、変な噛み癖とかイタズラみたいなのあるけど、そういうのも全部含めて楽しい」


「みっちゃんらしいよね」


「うん。でもね、そんなみんなが大好きだよ」


彼女は冗談っぽく言いながらも、真剣な眼差しを向ける。


桃熊みつは顔を赤らめて、ちょっと照れた。


「そういえば、配信での話だけど」


彼女は話題を変えた。


「最近、あの新しいリスナーさんの“しお”さん、どう思う?」


桃熊みつは笑って答える。


「ああ、しおくんね。最初は初見で緊張してたけど、だんだん打ち解けてきた感じがする」


「そうだよね、あの人、明るくてすごく素直だし、配信にもすごく乗ってくれてる」


「うん。コメント遅延でタイムラグあっても、頑張って盛り上げてくれてありがたいよ」


彼女はマグカップを手に取り、ゆっくりとコーヒーを飲む。


「でもね、しおくんには気をつけてほしいこともあるよね」


桃熊みつは不思議そうに眉をひそめた。


「どういうこと?」


彼女は少し照れたように、そして少しだけヤンデレっぽいトーンで話し始める。


「だって……しおくん、すごくみっちゃんのこと見てるでしょ?

わたしもね、もっとみっちゃんに見られたいなーって、思っちゃうんだ」


彼女は視線を少し落とし、指先をこわばらせながら続ける。


「だからね……

みっちゃん、これからは、私だけのものになってほしいの」


その言葉は甘くも、どこか冷たさを帯びていた。


桃熊みつは目を丸くして戸惑う。


「え、えっと……」


彼女はみつの手を強く握りしめ、少し首をかしげて言った。


「配信は楽しいけど、私にはみっちゃんの声も笑顔も全部、独り占めしたい。

私だけが、みっちゃんの全部を知っていたいの」


みつは息をのむ。


「そんなに……?」


「うん。だから、これからは一緒にいる時間をもっと増やそうね」


彼女の瞳は強く輝き、まるでみつを捕まえるように見つめていた。


「束縛ってわけじゃないよ、愛情だよ」


そう微笑んで、みつの腕にそっと身体を寄せる。


みつは体の力が抜けていくのを感じた。


「……わかった。君のこと、大事にする」


彼女は満足そうにうなずき、くすっと笑った。


「じゃあ、これからもずっと一緒だよ」


数日後。


みつの配信は少しずつ時間が短くなり、声も少しだけ元気がなくなっていった。


でも彼女はいつもそばにいて、みつの体調や気分を細やかに気遣っていた。


「ねぇ、みっちゃん。今日は配信どうする?」


彼女は少し首をかしげて尋ねる。


「うーん……」


みつはカップを持ちながらため息をつく。


「……みっちゃんは配信できるかな~?ふへへ」


彼女はいたずらっぽく笑いながら言った。


みつはそれを聞き、ゆっくりと目を閉じた。


少し脱力しながら、だけどどこか安心している自分に気づくのだった。


やわらかい灯りの下、二人は静かに寄り添いながら、これからの時間を過ごしていく。


みつの声は、今までとは違う優しさを帯びていた。


それは新しい絆の始まりだった。

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