第1話「田中太郎」
「……全部、なかったことにできるんですか?」
その日、田中太郎は自分の人生の半分を売ることになる。
それが最後の勝負だと、彼は信じていた──。
薄暗い部屋。壁には《MIRA認可取引所》の文字が淡く浮かんでいる。
田中太郎は、脂ぎった額の汗を拭いながら、係員に問いかけた。
「はい。指定された記憶を完全に削除し、報酬を即時お支払いします」
無機質な声。抑揚も、感情もなかった。
「……じゃあ、大負けしたあの日の記憶。お願いします」
田中は笑っていた。ひきつるような、壊れた笑顔だった。
──数時間前。
田中太郎は、また競馬場にいた。
追い詰められた目。痩せこけた頬。
握りしめた馬券は、まるで命の紙だった。
「クソ……なんで、こないんだよッ!」
最後の馬がゴールする。──外れ。
希望の光だった紙切れを、田中は力任せに丸めて投げ捨てた。
彼にはもう、何も残っていなかった。
金も、プライドも、そして記憶すら──。
始めは、どうでもいい記憶を売った。
小学校の授業、親に怒られた日。
なくても困らない記憶が、案外高く売れた。
金を受け取って、すぐにパチンコへ行く。
……もう、止まらなかった。
MIRAで記憶を売り、その金をギャンブルで溶かす。
また記憶を売る。溶かす。売る。溶かす──
「……次は勝てる。次こそは……」
だが、その生活は長くは続かなかった。
“忘れても困らない記憶”は、やがて尽きる。
「えっ……たったこれだけ?」
受け取った報酬を見て、田中は愕然とした。
「その記憶ですと、この金額ですね」
「な、なんの記憶だったら……高く売れますか?」
すがるような目で係員に問う。
「感情が伴った記憶。その振れ幅が大きければ大きいほど、高額になります」
「じゃあ……あの日、全部終わったあの負けの記憶……それを消してください」
報酬を受け取った田中の手は、震えていた。
「こんなに……もらえるのか……」
MIRAを出た田中は、その足でまた競馬場へ向かう。
「これだけあれば、絶対に勝てる……!
今までの負けを、取り戻してやる──!」
──だが、田中が勝つことはなかった。
感情を伴った記憶を、次々と売っていく。
笑った記憶、泣いた記憶、叫んだ記憶。
そして彼の表情は、次第に無機質になっていった。
「……もう、売れる記憶がない」
田中は、最後に一線を越える決断をした。
いちばん楽しかった、小学校の夏休みの思い出を売ることにしたのだ。
薄暗い部屋に、白く光るカプセルのような装置。
シングルベッドよりも細い寝台に横たわる。
額には、コードが繋がった吸盤が貼られた。
プシューッ……
ベッドが動き出し、カプセルの中へ吸い込まれていく。
同時に、上部の蓋が音もなく閉じはじめた。
装置内に響く係員の声。
「それでは、始めます」
「ふふ……これでまた、賭けられる……」
田中は薄気味悪く笑った。
次の瞬間──
目の前に、淡く白い光が差し込む。
「うっ……!」
閃光に変わるその光のなかで、田中の脳裏に一つの記憶が走馬灯のように流れ出す。
──夏の強い陽射しのなか、虫かごと網を手に持ち、カブトムシを探す。
汗まみれで家に帰れば、冷たいスイカが用意されている。
「太郎、おかえり。スイカ、冷えてるよ」
優しい笑顔の母が、静かに迎えてくれる。
無限に続くと思っていた、小さな頃の夏休みの記憶。
あの日の青空。あの日の匂い。あの日の声。
やがて、視界がゆっくりと暗くなっていく。
まるで、眠りにつくかのように──
装置を取り外され、ゆっくりと起き上がる田中。
虚ろな目。ぼんやりと正面を見つめたまま、動かない。
「お疲れ様です。記憶の抽出が完了しました。
──お名前は?」
係員の問いに、数秒の沈黙。
田中は、無言で首をかしげた。
「……連れていけ」
数人の係員に支えられながら、どこかへ連れて行かれる。
その背中に、かつての田中太郎の面影は、微塵もなかった。
フラフラとした足取りで、彼は静かにその場から消えていった──。
第1話 了
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あなたの記憶、買い取ります 河内 謙吾 @kengo8664
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