あの家でのこと

古屋いっぽ

あの家でのこと

 人と同じ姿をした食人鬼が出現して二年が経つ。


 それを恐れた客人たちは避難所であるここに気休めの安息を求めてやってきた。乱暴な人でなければ快く受け入れ続けた結果、この家では十人前後の客人たちが常に生活している。

 ウィリアムズに任されたのは、この家に訪れる人々を中に入れるか入れないかを決定することだけだった。



 ところで、ウィリアムズが彼を食人鬼だと気づいたのは、ずいぶん早い段階からである。

 彼が客人としてここに訪れた数日後、丘の上で腐りかけの死体を貪っていたのはかなりショッキングな光景ではあったが、ウィリアムズはそれを見なかったことにした。

 すぐ隣にいる人間が食人鬼だったということは、珍しいことではない。彼が食人鬼であることは、期せずして人の秘密を知ってしまうことと同義だった。


 ウィリアムズが家に客人を招き入れることは、彼に食事を用意することでもある。

 ただ、安全というものがどこにもなくなった世界で、この家だけが例外ということもない。客人たちは自らの意思でここへやってきた。ウィリアムズには、拒む理由が思いつかなかった。



「こんにちは」


 昼過ぎにやってきたのは、若い女だった。目を泳がせながら左腕を摩り続け、落ち着きがない。


「ここ、誰でも入れてくれるって聞いて」


 ドア越しだからか、無理に声を張っているようである。覗き穴からしばらく様子を眺めたあと、扉を開けた。


「どうぞ」

「ありがとう……」


 女は控えめに笑う。肩をすくめ、客人としてきた割には警戒心むき出しで、忙しなく家の中を眺めていた。その視線の先、窓の真下に置かれたソファに深く腰掛けている彼を見つける。


「……こんにちは」


 共同生活をする相手なので仕方なくといった感じで挨拶をする。彼は遠慮がちに片手を上げた。自分から進んで新しい客人に話しかけるような性格ではなかった。


「あの、これ」


 ウィリアムズは玄関の入り口に置いていた紙を手にして女に渡す。そこには、この家で守るべきルールが書いてあるのだ。


「快適な生活のためにもよろしくお願いします」

「分かった……。出て行ってもいいんだよね?」

「はい。いつでも自由に。部屋も、空いているところを好きに使って」


 女は軽く頷いて、部屋の奥へ向かっていく。その姿が見えなくなって、彼がわざとらしく息を吐き出した。


「また食事を増やしたな」


 正体を知られていると分かっている彼は、毎回嫌味のような、重苦しい気分を与える言葉を口にする。ウィリアムズはダイニングテーブルのそばにある椅子に腰かけ、昨日の夕べから置いたままにしていた文庫本を開いた。


「食べるのはきみだろ」

「原因を作るのはお前だ」

「きみの食糧なんて外にたくさん歩いてる。あの人たちはたまたまここにきて、たまたまきみがここにいるだけ」


 話をしながら文字を読むといった器用なことはできない。ウィリアムズはただ、興味がないポーズをしたいだけである。


「今日はあの女を襲う」

「どうぞ」


 試すような言葉はこれが初めてではない。彼が宣言通りに行動するのは半々だった。文庫本の文字が記号のように見え、内容が入ってこないのを苛立たしく思いながら、ウィリアムズは顔を上げた。


「生きるために殺して食べるのは変じゃないよ」

「じゃあお前は、自分と同じ形をした生き物を殺して食べても心が痛まないわけだな」

「それは分からないけど。食べないと生きられないんだから、気にしたって仕方ない」


 次は彼が視線を逸らす番だった。窓の外を眺めながらたった一言、「お前の言うとおりだな」と言った。

 ウィリアムズは文庫本に目を落とした。食事の話よりこちらの方がずっと面白い。彼が入れたであろうページの折り込みを指で弾いた。


「ほら、これ。僕もここまで読んだ。感想を言い合おう」


 彼の視線がウィリアムズに戻る。目を細め、気だるそうなふりをしながらも、黙ってダイニングにやってきた。隣の椅子に腰かけ、同じページを覗き込む。

 ふたりはしばらく、その物語についてああでもないこうでもないと語り合った。彼らの関係が奇妙な絆でつながっているのは秘密を共有しているというよりも、こうした気の合う何かがあったからである。



 夜がやってきた。

 彼が食事をするのは、いつもこの時間だった。ウィリアムズは何度か寝返りを打ちながら耳を澄ますけれど、不審な音は聞こえない。

 変えられないことについて悩みを垂れ流す彼は鬱陶しかった。それでもウィリアムズは、他人の苦しみについて理解を示すことはできる。同調もできる。だが、寄り添いでもなければそれを美徳とも思っていない。

 

 彼はあの女を食べているのだろうか。

 無関心な理解に傷つきながら。

 かわいそうな友人。


 そう胸を痛めながらも、彼が傷ついてほしいとどこかで思っている。食人鬼が人を脅かすように、ウィリアムズもまた、彼の中に影を落とす天敵でありたがった。


 床が軋む音で現実に引き戻される。上半身だけを起こすと、暗闇に慣れた目が、部屋の入り口に立つ彼を見つけた。

 こんな状況でも、ウィリアムズは自分が彼の食事になることなど微塵も考えていない。


「こんな時間に何してるの?」


 ウィリアムズは訊ねた。彼は答えない。窓から青白い月明かりが差し込んで少し表情が見える。しかし、見えたところで彼が何を考えているかは何一つ分からない。その切れ長の目が細められる。


「眠れないんだ。少し話をしよう」

「分かった」


 ウィリアムズは彼について行く。様子から、彼はまだ食事をしていないと分かった。

 今日は誰も食べないつもりらしい。空腹に苛立っているとしたら、それはそれで気を紛らわせる手伝いくらいは、してやってもいいと思えた。

 ダイニングルームに行き、明かりは灯さず椅子に腰かける。静かな夜だった。


「本の話の続きでもする?」


 ウィリアムズが訊ねると、彼は首を左右に振った。そして苦々しい表情で拳を握る。


「お前は本当に、俺たちを普通の人間みたいに扱うんだな」

「またその話……」

「聴け。いいから聴け。俺は考えた。人間と人喰いはもう共存するしかない。それは間違いない。俺だってそんなことは分かっている」


 客人たちが目を覚まさないように、必死に声を抑えていることが伝わってきた。彼は歯を食いしばり、ウィリアムズを憎々しげに睨みつける。


「悩んだって仕方ないことだ。お前は人喰いがいる世界でも自分の意志を持ってうまく生きていく。それは純粋に凄い。尊敬もしてる。けどな、俺は人間を喰う自分が嫌で嫌で仕方ない。毎日苦しい。お前からすれば馬鹿で無駄な悩みだろう。それでも俺は、無様だろうが誇りを持って生きてるんだ」


 どこで息継ぎをしているのかと思うほど言葉が溢れ静かな夜の中に残響する。ウィリアムズは頭の中で咀嚼して、よせばいいのに咀嚼を続け、腹立たしさに体を熱くした。


「いったいどうしてきみに僕の生き方が理解できる?」

「理解してるなんて言ったか?」

「言ったさ」


 思わず口に出した言葉が合図になった。ウィリアムズは苛立ちを隠そうともせず、それどころか彼に対してどんどん前のめりになる。


「きみが無様に生きることについて僕の人生は関係ない。この世界で僕がうまく生きてるって、人間でもないきみがどうしてそう言い切れる?」

「充分うまく生きてるだろ? お前は人を喰わなくたっていいんだからな」

「人を食べるだけでこの世の不幸を引き受けた気でいるらしいね。随分快適な人生だ」


 大きな音が響いた。椅子が散らばり、飛びかかってきた彼がウィリアムズを床に倒す。

 そのときウィリアムズは初めて傷ついた。彼は絶対に自分を食べないという自信があったからだ。それが音を立てて崩れていく。残ったものの形は憎しみによく似ていた。


「食べるのか? 僕を?」

「冗談言うなよ! 俺がお前をなぜ食べないか教えてやろうか。嫌いだからだ。嫌いなものはわざわざ食べない。お前が夕食で残すピクルスみたいにな」

「僕だって、不幸面を惜しげもなく晒すきみが心底嫌いだよ」


 ウィリアムズは怒りに燃える目で彼を見た。

 互いを傷つけることに躊躇はない。むしろ立ち直れないほど打ちのめされればいい。ここまで思っていながら、ウィリアムズは家主の権限を彼に対して行使しない。

 その関係性が友情であるといまだに信じたいのだ。


 扉が開く音があちこちから響き、ダイニングには数人の客人たちが集まった。二人はしばらく睨み合い、ようやく彼が引きはがされて、ウィリアムズは立ち上がった。

 彼は何も言わずに家を出ていく。ウィリアムズは追わなかった。騒がしくしたことを客人たちに謝罪し、自分の部屋へ戻った。



 夜が明ける。

 ウィリアムズは昼近くになってダイニングにやってきた。彼はいつものソファに座っている。

 昨日やってきた女の姿はない。





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