SCENE 1:ベージュの殻と、似合わないピンク

第3話 指先のささくれと、透明な仕事

午後一時のオフィスは、蛍光灯の白い光に満ちていた。


カタカタカタ、ッターン。


無機質なタイピング音と、複合機が紙を吐き出す音。空調が絶え間なく乾いた空気を循環させ、食品メーカー・営業三部の事務フロアは、砂漠のように喉を渇かせる。


小日向明里は、デスクの上のExcel画面を見つめていた。 キーボードを叩く指先には、また新しいささくれができている。小さく皮が剥けた部分が、タイピングするたびにチクチクと痛んだ。無意識に指先を擦り合わせ、その痛みを誤魔化す。


小日向 明里こひなたあかり、二十三歳。 食品メーカー営業事務。社会人二年目。


明里の世界は、基本的に「ベージュ」と「グレー」で構成されている。 今日着ているのは、駅ビルの閉店セールで買ったベージュのカーディガン。袖口は擦り切れかけていて、よく見るとボタンが一つ緩んでいる。でも、まだ着られる。まだ使える。だから、買い替える理由がない。 デスクの上には、汚れが目立たないという理由で選んだグレーの事務用ブランケット。膝に掛けると、少しだけ安心する。自分の足が、誰かの視界に入らなくて済むから。


「——ねえ、聞いた? 営業二課の佐々木さん、また大口契約取ったんだって」


斜め向かいのデスクから、華やいだ声が聞こえてくる。


「うそ、すごーい! やっぱり綺麗な人は得だよねえ。クライアントのおじ様たちもイチコロって感じ?」


声の主は、今年入社したばかりの後輩女子たちだ。 吉田さんと、山本さん。二人はいつも一緒にいて、いつも楽しそうに笑っている。


明里は視線を上げずに、二人の姿をぼんやりと捉えた。


今季の流行を押さえた透け感のあるブラウス。ふんわりと巻かれた髪。丁寧に仕上げられたナチュラルメイク。デスクの上にはパステルブルーの加湿器がシュウシュウと蒸気を上げ、周囲の空気だけを潤している。


彼女たちの半径三メートルだけ、空気がキラキラして見えた。


明里は自分の手元に視線を落とす。 キーボードの上に置かれた自分の手。荒れた指先。色気のない短い爪。隣のデスクの吉田さんは、いつもネイルサロンに通っていて、今日の爪先はラベンダー色のグラデーションで彩られている。


(……綺麗だな)


羨ましいわけではない。 ただ、自分がそうなれる未来が、どうしても想像できなかった。


***


ピロン。


共有フォルダに、新しいファイルがアップロードされた通知音が鳴った。


『【至急】A社向け見積書_0315.xlsx』


作成者の名前を見ると、さっきまでキャハハと笑っていた後輩の一人、吉田さんだった。今日の午後に先方へ送る予定の、重要な見積もりだ。


(念のため、確認だけしておこうかな……)


明里は何となく、そのファイルを開いた。

パッと見た瞬間、背筋に嫌な予感が走る。


案の定だった。


単価の欄に、明らかな入力ミス。商品コードも一部、去年の旧品番のままになっている。このまま送ったら、先方に迷惑がかかるだけでなく、会社の信用問題にもなりかねない。


(気づいて良かった……)


明里は電卓を手に取り、正しい数値を洗い出していく。 荒れた指先が、マウスとキーボードの上を忙しなく動く。目がパソコン画面を左右に何度も往復する。


「あはは、マジで? それでその人、どうしたの?」


「それがね……!」


背後では、後輩たちがまだ楽しそうに雑談している。 彼女たちは知らない。自分たちのミスを、地味な先輩が黙って直していることを。


明里は黙々と数字を修正していった。 単価、数量、合計金額、消費税。ひとつひとつ、丁寧にチェックして直していく。 十五分ほどかけて、ようやく修正が完了した。


元のファイル名はそのままに、こっそり上書き保存をする。 後輩が気づかないように。誰にも迷惑をかけないように。自分がやったと、誰にも知られないように。


(よし……)


小さく息を吐いて、明里は画面を閉じた。


誰にも褒められない。誰にも気づかれない。 ただ黙々と、裏で誰かのミスを修正し続ける。


それが私の仕事だ。 それでいい。それでいいのだ。 私は背景で、背景は目立ってはいけないのだから。


***


正午を少し過ぎた頃、オフィスの空気が変わった。


あちこちで椅子を引く音がして、「お昼行こう」「どこにする?」という声が飛び交い始める。 明里は足元に置いた鞄に、そっと手を伸ばした。


今朝、三十分早く起きて作ったお弁当。 卵焼きと、昨夜の残りの肉じゃがと、冷凍食品のコロッケ。彩りにミニトマトを添えて、我ながら悪くない出来だと思った。


(今日も一人で食べよう)


いつものことだ。 給湯室の隅か、人の少ない非常階段の踊り場で、こっそりとお弁当を開ける。それが明里の日常だった。


その時——。


「ねえ、今日のランチどうする?」


後輩たちの声が、耳に入った。


「駅前に新しくできたイタリアン、行ってみない? インスタで見たんだけど、パスタがめっちゃ映えるの」


「いいね! 予約いる?」


「当日でも大丈夫みたい。四人までOKだって」


四人。


その言葉に、明里の手が止まった。


「四人かあ。誰か誘う?」


「うーん、女子社員で……誰だろ。小日向さんとか?」


心臓が、小さく跳ねた。


(私?)


吉田さんの声だった。さっき見積書のミスを直してあげた、あの吉田さん。


(誘ってくれるの……?)


明里は鞄の中のお弁当箱に触れたまま、動けなくなった。

指先が、保冷バッグの冷たさを感じている。今朝、丁寧に詰めたお弁当。一人で食べるために作ったお弁当。


でも、もし——。


もし誘われたら、一緒に行こう。 お弁当は、夜に食べればいい。


明里はそっと、お弁当箱から手を離した。 何気ないふりをして、デスクの上の書類を整える。耳だけは、後輩たちの会話に集中させたまま。


「小日向さんかあ……」


山本さんの声が、少しトーンを落とした。


「でも小日向さん、いつもお弁当じゃない? 誘いにくくない?」


「あー、確かに。なんか静かだし」


「話したことあんまりないしね」


「ま、別に三人でもいいでしょ」


その言葉が、明里の胸を貫いた。


「だね。行こ行こ!」


椅子を引く音。楽しそうな笑い声。ヒールの音が遠ざかっていく。


明里は、書類を整える手を止められなかった。


整える必要のない書類を、何度も何度も揃え直す。角を合わせて、トントンと机で叩いて、また揃え直す。そうしていないと、何か別のものが溢れ出しそうだった。


後輩たちの姿が、エレベーターホールに消えていく。


オフィスが、静かになった。


明里はゆっくりと、鞄の中に手を入れた。 保冷バッグを取り出す。今朝、丁寧に詰めたお弁当。


(……うん)


唇の端を、小さく持ち上げる。 笑顔の形を作る。誰に見せるわけでもない、自分のための笑顔。


(別に、いいんだ)


お弁当、美味しそうに出来たし。 一人で食べた方が、気を遣わなくていいし。 ランチ代も浮くし。


(私は、背景だから)


背景は、誰かの物語に入り込んではいけない。 端っこで、静かに、存在感を消して生きていくのが、私の役割だから。


明里はお弁当箱を手に、給湯室へと向かった。

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