SCENE 1:ベージュの殻と、似合わないピンク
第3話 指先のささくれと、透明な仕事
午後一時のオフィスは、蛍光灯の白い光に満ちていた。
カタカタカタ、ッターン。
無機質なタイピング音と、複合機が紙を吐き出す音。空調が絶え間なく乾いた空気を循環させ、食品メーカー・営業三部の事務フロアは、砂漠のように喉を渇かせる。
小日向明里は、デスクの上のExcel画面を見つめていた。 キーボードを叩く指先には、また新しいささくれができている。小さく皮が剥けた部分が、タイピングするたびにチクチクと痛んだ。無意識に指先を擦り合わせ、その痛みを誤魔化す。
明里の世界は、基本的に「ベージュ」と「グレー」で構成されている。 今日着ているのは、駅ビルの閉店セールで買ったベージュのカーディガン。袖口は擦り切れかけていて、よく見るとボタンが一つ緩んでいる。でも、まだ着られる。まだ使える。だから、買い替える理由がない。 デスクの上には、汚れが目立たないという理由で選んだグレーの事務用ブランケット。膝に掛けると、少しだけ安心する。自分の足が、誰かの視界に入らなくて済むから。
「——ねえ、聞いた? 営業二課の佐々木さん、また大口契約取ったんだって」
斜め向かいのデスクから、華やいだ声が聞こえてくる。
「うそ、すごーい! やっぱり綺麗な人は得だよねえ。クライアントのおじ様たちもイチコロって感じ?」
声の主は、今年入社したばかりの後輩女子たちだ。 吉田さんと、山本さん。二人はいつも一緒にいて、いつも楽しそうに笑っている。
明里は視線を上げずに、二人の姿をぼんやりと捉えた。
今季の流行を押さえた透け感のあるブラウス。ふんわりと巻かれた髪。丁寧に仕上げられたナチュラルメイク。デスクの上にはパステルブルーの加湿器がシュウシュウと蒸気を上げ、周囲の空気だけを潤している。
彼女たちの半径三メートルだけ、空気がキラキラして見えた。
明里は自分の手元に視線を落とす。 キーボードの上に置かれた自分の手。荒れた指先。色気のない短い爪。隣のデスクの吉田さんは、いつもネイルサロンに通っていて、今日の爪先はラベンダー色のグラデーションで彩られている。
(……綺麗だな)
羨ましいわけではない。 ただ、自分がそうなれる未来が、どうしても想像できなかった。
***
ピロン。
共有フォルダに、新しいファイルがアップロードされた通知音が鳴った。
『【至急】A社向け見積書_0315.xlsx』
作成者の名前を見ると、さっきまでキャハハと笑っていた後輩の一人、吉田さんだった。今日の午後に先方へ送る予定の、重要な見積もりだ。
(念のため、確認だけしておこうかな……)
明里は何となく、そのファイルを開いた。
パッと見た瞬間、背筋に嫌な予感が走る。
案の定だった。
単価の欄に、明らかな入力ミス。商品コードも一部、去年の旧品番のままになっている。このまま送ったら、先方に迷惑がかかるだけでなく、会社の信用問題にもなりかねない。
(気づいて良かった……)
明里は電卓を手に取り、正しい数値を洗い出していく。 荒れた指先が、マウスとキーボードの上を忙しなく動く。目がパソコン画面を左右に何度も往復する。
「あはは、マジで? それでその人、どうしたの?」
「それがね……!」
背後では、後輩たちがまだ楽しそうに雑談している。 彼女たちは知らない。自分たちのミスを、地味な先輩が黙って直していることを。
明里は黙々と数字を修正していった。 単価、数量、合計金額、消費税。ひとつひとつ、丁寧にチェックして直していく。 十五分ほどかけて、ようやく修正が完了した。
元のファイル名はそのままに、こっそり上書き保存をする。 後輩が気づかないように。誰にも迷惑をかけないように。自分がやったと、誰にも知られないように。
(よし……)
小さく息を吐いて、明里は画面を閉じた。
誰にも褒められない。誰にも気づかれない。 ただ黙々と、裏で誰かのミスを修正し続ける。
それが私の仕事だ。 それでいい。それでいいのだ。 私は背景で、背景は目立ってはいけないのだから。
***
正午を少し過ぎた頃、オフィスの空気が変わった。
あちこちで椅子を引く音がして、「お昼行こう」「どこにする?」という声が飛び交い始める。 明里は足元に置いた鞄に、そっと手を伸ばした。
今朝、三十分早く起きて作ったお弁当。 卵焼きと、昨夜の残りの肉じゃがと、冷凍食品のコロッケ。彩りにミニトマトを添えて、我ながら悪くない出来だと思った。
(今日も一人で食べよう)
いつものことだ。 給湯室の隅か、人の少ない非常階段の踊り場で、こっそりとお弁当を開ける。それが明里の日常だった。
その時——。
「ねえ、今日のランチどうする?」
後輩たちの声が、耳に入った。
「駅前に新しくできたイタリアン、行ってみない? インスタで見たんだけど、パスタがめっちゃ映えるの」
「いいね! 予約いる?」
「当日でも大丈夫みたい。四人までOKだって」
四人。
その言葉に、明里の手が止まった。
「四人かあ。誰か誘う?」
「うーん、女子社員で……誰だろ。小日向さんとか?」
心臓が、小さく跳ねた。
(私?)
吉田さんの声だった。さっき見積書のミスを直してあげた、あの吉田さん。
(誘ってくれるの……?)
明里は鞄の中のお弁当箱に触れたまま、動けなくなった。
指先が、保冷バッグの冷たさを感じている。今朝、丁寧に詰めたお弁当。一人で食べるために作ったお弁当。
でも、もし——。
もし誘われたら、一緒に行こう。 お弁当は、夜に食べればいい。
明里はそっと、お弁当箱から手を離した。 何気ないふりをして、デスクの上の書類を整える。耳だけは、後輩たちの会話に集中させたまま。
「小日向さんかあ……」
山本さんの声が、少しトーンを落とした。
「でも小日向さん、いつもお弁当じゃない? 誘いにくくない?」
「あー、確かに。なんか静かだし」
「話したことあんまりないしね」
「ま、別に三人でもいいでしょ」
その言葉が、明里の胸を貫いた。
「だね。行こ行こ!」
椅子を引く音。楽しそうな笑い声。ヒールの音が遠ざかっていく。
明里は、書類を整える手を止められなかった。
整える必要のない書類を、何度も何度も揃え直す。角を合わせて、トントンと机で叩いて、また揃え直す。そうしていないと、何か別のものが溢れ出しそうだった。
後輩たちの姿が、エレベーターホールに消えていく。
オフィスが、静かになった。
明里はゆっくりと、鞄の中に手を入れた。 保冷バッグを取り出す。今朝、丁寧に詰めたお弁当。
(……うん)
唇の端を、小さく持ち上げる。 笑顔の形を作る。誰に見せるわけでもない、自分のための笑顔。
(別に、いいんだ)
お弁当、美味しそうに出来たし。 一人で食べた方が、気を遣わなくていいし。 ランチ代も浮くし。
(私は、背景だから)
背景は、誰かの物語に入り込んではいけない。 端っこで、静かに、存在感を消して生きていくのが、私の役割だから。
明里はお弁当箱を手に、給湯室へと向かった。
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