第4話 似合わないコーラルピンク

給湯室の扉を閉めると、蛍光灯のブーンという低い唸り音が耳についた。


誰もいない。 ランチタイムの給湯室は、オフィスの喧騒から切り離された、小さな避難所だ。


シンクの上の横長の鏡に、明里の姿が映っている。


見たくない。 でも、目が吸い寄せられる。


青白い蛍光灯の光が、肌のくすみや、目の下の薄いクマを無慈悲に暴き出していた。頬はこけ、唇の血色は悪い。髪は湿気で広がり、朝セットしたはずの前髪が崩れている。


(……ひどい顔)


鏡は、いつも本当のことを言う。

明里にとって、鏡は敵だった。 見れば見るほど、自分の欠点が目につく。努力していない証拠を、突きつけられる。だから普段は、できるだけ鏡を見ないようにしている。


でも今日は、確かめなければならないことがあった。


明里はスカートのポケットに手を入れ、硬くて冷たい異物を取り出した。


艶のある漆黒のケース。ゴールドのロゴ。見るからに高級そうなデパートコスメの口紅。ケースの上に『NARCIS』の金文字が輝いている。 昨日、親友の湊に半ば強引に押し付けられたものだ。


『アンタさぁ、二十三にもなって薬用リップ一本で戦場に出ようなんて、武器を持たずに全裸で突撃するようなもんだよ? 素材は悪くないんだから、ちょっとは活かしなさいって』


湊の呆れ果てた声が、脳内で再生される。


『いい? 明里。お前は生まれながらに「女」っていうプラチナチケットを持ってんの。それをドブに捨ててんのが、俺には我慢ならないわけ』


プラチナチケット、か。


明里は、手の中の口紅を見つめた。

私にとっては、使い方も分からない、期限切れのクーポンみたいなものだけど。

震える手で、キャップを外す。 現れたのは、鮮やかなコーラルピンク。春の花弁を凝縮したような、生命力に満ちた色。蛍光灯の下で、その色だけが異質な輝きを放っている。


(……似合うわけ、ないのに)


分かっている。 こんな地味な顔に、こんな華やかな色が似合うはずがない。

でも、試してみたかった。 もしかしたら、という微かな期待が、まだ心の片隅に残っていた。


明里は息を止めて、紅を唇に乗せた。


滑らかな感触。甘いバニラのような香り。 一塗りするだけで、カサついていた唇が、まるで別人のものであるかのように艶めいていく。ふっくらと色づいて、潤って、輪郭がくっきりとする。


塗り終えて、顔を上げる。


鏡の中の自分と、目が合った。


「…………」


唇だけが、浮いている。


まるで他人から借りてきたパーツのように、顔から浮き上がっている。鮮やかすぎるピンク色は、逆に肌の黄ぐすみと、目の下のクマと、着古したカーディガンの野暮ったさを、残酷なまでに強調していた。


冬の枯れ木に、無理やり造花をくくりつけたみたいだ。


ちぐはぐで、滑稽で、痛々しい。


唇だけが「私を見て」と叫んでいて、それ以外の全てが「見ないで」と縮こまっている。


(やっぱり)


(私には、無理だ)


目の奥が、熱くなる。


馬鹿みたいだ。 分かっていたのに。最初から分かっていたのに。


明里は慌ててティッシュを引き抜いた。 ゴシゴシと、乱暴に唇を擦る。 美しいコーラルピンクがティッシュに移り、唇は元のパサついた色に戻っていく。


手の中のティッシュを、見つめた。 鮮やかなピンクの染みが、くっきりと残っている。


さっきまで私の唇にあった色。 ほんの数十秒だけ、私を「華やかな女性」に見せようとしてくれた色。

ティッシュの上では、その色はただの汚れだ。 私の唇の上では「滑稽」で、ゴミの上では「汚れ」。


結局、どこにも居場所がない色。


(……私みたいだな)


少しヒリヒリする唇に、いつもの薬用リップを塗り直す。 無色透明の、何の主張もないリップ。これが、私には相応しい。


鏡の中の自分と、もう一度目が合った。


(ごめんね)


誰に謝っているのか、自分でも分からない。


湊に? 変われない自分に? それとも、「可愛くなりたい」と願ってしまった、馬鹿な自分に?


「……やっぱり、こっちの方が落ち着く」


声に出して言ってみる。 嘘だ。


本当は、少しだけ綺麗になった自分が嬉しかった。 鏡の中の自分が、ほんの一瞬だけ輝いて見えたのが、嬉しかった。


でも、それを認めてしまったら。 「変わりたい」と願ってしまったら。 また失敗したときに、もっと傷つくから。


だから私は、最初から諦めることにした。


私には「色」なんて必要ない。 私はオフィスの背景で、背景には色がついていてはいけないのだから。


ティッシュを丸めて、ゴミ箱に捨てる。 ピンク色が、見えなくなった。


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