第2話 エレベーターの三十センチ

シャワーを終えた拓海が、バスルームから出てきた。


湯気と共に、石鹸の清潔な香りが漂う。腰にバスタオルを巻いただけの姿で、洗面台の前に立つ。


湊はその音を聞いてベッドから出る。シルクのバスローブを羽織り、洗面台が見える位置に寄りかかった。鏡越しにそんな湊の姿を見つけ、拓海の瞳がわずかに見開く。


「……起きたのか?」


そのまま視線を合わせ、拓海が聞く。


「……うん」


「俺が起こしたか? ごめん」


「……別に」


我ながら、ぶっきらぼうな返事だ。


本当は「キスしてくれなかったから拗ねてる」と言いたい。「なんでやめたの」と問い詰めたい。


でも、そんな「重い」ことは言えない。


拓海は「ごめん」と言った。起こしてしまったことを、申し訳なく思っている。

でも湊が怒っているのは、そこじゃない。


(起こしてくれて良かったのに)


(キスで起こしてくれたら、最高の朝だったのに)


その言葉は、喉の奥で溶けて消えた。


拓海はドレッサーの前に座り、髪を乾かし始めた。ドライヤーの音が、二人の間の沈黙を埋める。


湊は拓海の背中を見つめていた。


広い背中。しっかりとした肩甲骨。腰のあたりに、うっすらと痕が残っている。刺青を消す治療の痕だ。


付き合い始めた頃、湊がぽろっと「刺青入れる人、あんまり好きじゃない」と言ったことがある。深い意味はなかった。ただの世間話だった。


でも拓海は、その言葉を覚えていた。


何も言わずに、レーザー治療を始めた。痛みに耐えながら、何度も通院して、少しずつ消している。


それを知った時、湊は泣きそうになった。


(こんなに愛されてるのに)


(なんで俺は、素直になれないんだろう)


ドライヤーの音が止まった。


「……今日、何時から?」


拓海が振り返らずに訊いた。


「……十八時から」


「そっか。ゆっくり寝てていいよ」


優しい言葉。でも、その優しさが、今は距離に感じる。


「……拓海」


「ん?」


「……コンビニ、行く」


「え?」


「拓海の出勤に合わせて。一緒に出る」


拓海が、ようやく振り返った。驚いたような、少し嬉しそうな顔。


「……いいのか? 眠いだろ」


「別に。牛乳切れてるし」


嘘だ。牛乳はまだある。

ただ、少しでも長く、拓海と一緒にいたかっただけ。

でも、そんなこと言えるわけない。


***


三十分後。


湊は黒いマスクで顔の下半分を覆い、オーバーサイズのパーカーにスウェットという「近所のコンビニ用」の格好で、拓海の隣に立っていた。


メイクはしていない。髪も整えていない。この姿を人に見せるのは本来なら死んでも嫌だが、「少しでも一緒にいたい」という欲求が、プライドを上回った。


エレベーターのボタンを押す。

二人きりの箱の中。下降を示す数字が、静かに減っていく。


32、31、30——。


湊は、そっと手を伸ばした。

拓海の手に、自分の指先を絡めようとする。


あと少し。あと数センチで、指が触れる——。


チン。


二十三階で、エレベーターが停止した。

ドアが開く。スーツ姿の中年男性が乗り込んでくる。


湊は、咄嗟に手を引っ込めた。


心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。


(危なかった)


男の視線が、一瞬だけ二人の距離——その微妙な隙間を値踏みするように泳ぎ、それから興味なさげにスマートフォンへ落ちた。


それだけのことだ。別に、何かを見られたわけじゃない。手を繋いでいたわけでもない。


でも、湊の心臓はずっと早鐘を打っていた。


(もし見られていたら)


(男同士で手を繋いでいるところを見られていたら)


このマンションには、様々な人が住んでいる。拓海と湊がゲイカップルであることは、表向きには隠している。「ルームシェアしている友人」という体裁だ。


それが、この社会で生きていくための処世術だった。


エレベーターの中、三人は無言で立っていた。


湊と拓海の間には、たった三十センチの距離がある。手を伸ばせば届く距離。でも、その三十センチが、今は海のように広く感じられた。


1階に着いた。

ドアが開き、中年男性が先に降りていく。

湊と拓海も、何も言わずにエレベーターを降りた。


繋げなかった手が、ポケットの中で所在なく握られている。


***


マンションのエントランスを出ると、朝の空気が肌を刺した。

三月の風は、まだ冷たい。湊はパーカーのフードを深く被り、マスクの位置を直した。


「……それじゃあ、行ってくる」


拓海の声が、白い息と一緒に空気に溶ける。


「……うん」


湊は頷いた。


二人の間に、沈黙が落ちる。


行き交う人々の足音。車のエンジン音。どこかで鳴るスマートフォンの着信音。

世界は騒がしいのに、二人の間だけが、真空のように静かだった。


(キス、したい)


湊は思った。

「いってらっしゃい」のキスを。


普通の恋人たちが、普通にしていること。朝、玄関で、軽く唇を合わせて送り出す。それだけのことを、俺たちはできない。


周りの目が、気になるから。


「男同士がキスしてる」——そんな視線を浴びるのが、怖いから。


拓海も、同じことを考えているのだろうか。

彼の目が、一瞬だけ湊の唇に落ちた。


それとも、気のせいだったのか。


「……いってらっしゃい」


湊の声は、マスク越しにくぐもって聞こえた。


「ああ。……お前も、今日は早く寝ろよ」


「……うん」


拓海が背を向ける。

長い脚が、駅へ向かって歩き出す。

湊はその背中を見送った。


スーツの背中。広い肩。少しだけ猫背気味の姿勢。

あの背中に抱きつきたい。「行かないで」と言いたい。


でも、できない。


こんな往来で、男が男に抱きつくなんて。


(……普通のカップルなら)


女と男なら。


手を繋いで歩ける。人前でキスできる。「いってらっしゃい、愛してる」と言える。

それが「普通」で、「当たり前」で、誰にも眉をひそめられない。


俺たちには、その「当たり前」がない。

拓海の背中が、人混みに消えていく。


一度も振り返らなかった。


(……振り返って、ほしかったな)


湊はマスクの下で、唇を噛んだ。

冬の風が、頬を刺す。

朝の光は明るいのに、心の中だけが、どんよりと曇っていた。


湊は踵を返し、コンビニへと歩き出した。

本当は何も買うものなんてない。


ただ、拓海と一緒にいる時間が欲しかっただけ。

それなのに、その時間すら、うまく使えなかった。


(……俺たち、どうなっちゃうんだろう)


答えの出ない問いを抱えたまま、湊は冬の街を歩いていく。

時計を見る。まだ午前八時。バーの出勤まで、十時間もある。


(今夜も、笑顔を作らなきゃ)


カウンターの中で、「ナナ」を演じなければならない。毒舌で、愉快で、悩みなんて吹き飛ばしてくれるオネエを。


本当は、自分が一番吹き飛ばしてほしいのに。


湊は目を閉じて、深く息を吐いた。

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