ep.6
放課後、十六時半を少し回った頃。
春の陽はすでに傾きはじめ、鳴浜の整備用品店「ストレート」の駐車場には、昼とは違う影が落ちていた。
デザートカーキのスバルXVが、減速もためらわず、その影の中へ滑り込む。
エンジン音が切れ、周囲の車の気配と同じ高さに収まった。
「工具、観に行かね?」
昼休み、慶介がそう言い出した。
部品ではなく“工具”。しかも“観に”という、目的の輪郭が曖昧な誘いだったが、玲は特に理由もなく頷いた。
「ちょっと欲しいのがあってさ。バイト代、ようやく入ったし」
そう言って慶介は運転席から降りる。
ドアを閉める音が短く響き、シートに残った温もりが、そのまま置き去りになる。
玲も無言でそれに続いた。
店内は天井が高く、蛍光灯の白が、棚に並ぶステンレスを均等に照らしていた。
スプレー缶、ケミカル、インパクトソケット。
整備科の実習室とは違い、“選ばせるため”に整えられた陳列は、どこか人工的で、工具というより展示品のように見える。
慶介は一直線にラチェットコーナーへ向かった。
一方で玲は、オイル棚の前で足を止める。
──もうすぐ交換時期か。
86に入れている0W-20は高い。性能は信頼しているが、財布との折り合いを考えると、数字が少し重かった。
そのとき、棚の向こうから声が聞こえた。
「……あった。テンショナー壊してくれちゃって」
落ち着いた声だった。
ただ、言葉の端に、本気の苛立ちが混じっている。
玲が振り返ると、まず目に入ったのは、ジャンパーの袖口だった。
棚越しに、その奥に人影がある。
秋月真希が立っていた。
濃いグレーのジャンパーの下に、NISSANロゴ入りの作業ツナギ。
羽織ったジャンパーが、均整の取れた体躯を自然に際立たせている。
玲は、そこで一度だけ視線を切った。
再び見たとき、視線は高めに結われたポニーテールへ向かう。
毛先はゆるく波打ち、うなじから首筋へ続くラインに、鍛えられた筋肉の存在が静かに現れていた。
ジャンパーの襟元から、黒と赤の色味が一瞬だけ覗く。
何かがある、ということだけが分かる程度だった。
艶のある小麦色の肌。切れ長の目。
クールな印象の奥に、集中と意地が、交互に顔を出している。
「……お疲れ」
先に口を開いたのは、真希の方だった。
「……GRスポーツのオイル、私も使ってるんだよね」
隣に並んだ彼女の左手には、小さな段ボール箱があった。
「……それ、なに?」
「ああこれ? スズキの軽専用テンショナーツール。二万超え。マジ泣ける」
箱を軽く振る。
中で工具が、小さく鳴った。
「先輩がさ、R06のテンショナーをストレートレンチで無理やり縮めようとして。
見事にナメたの。しかも六角のとこ。もう一発アウト。
整解開いたら“SST使え”って──そりゃそうだよね、って話」
愚痴混じりの口調だったが、感情は荒れていない。
その怒りが、感情のものではないことだけは、なぜか分かった。
その感覚が、どこか見覚えのあるものだと気づいたのは、少し後だった。
「……明日、鵠沢には?」
何気ない調子で聞いたつもりだった。
だが真希は、ほんの少し口元を歪め、肩をすくめる。
「木曜日の夜は、ちょっと無理。仕事、たぶん終わらない」
視線が合う。
そこに嘘はなかった。
「でも──月曜か火曜の夜なら、たいてい走ってるよ」
玲は一拍置いて頷いた。
「……連絡。してもいいか」
短い言葉だったが、真希の表情がふっとほどける。
吊り気味のアイラインが、わずかに和らいだ。
「うん。……走る時、連絡ちょうだい」
互いにスマホを取り出し、番号を交換する。
画面に表示された名前を、玲はしばらく黙って見つめた。
そのとき、棚の影から慶介が戻ってくる。
二人の距離と、真希の首元を一瞬見て、少しだけ目を丸くした。
「……知り合い?」
「ちょっと前に、峠で走っただけ」
「“だけ”って……」
慶介は苦笑したが、それ以上は踏み込まなかった。
会計を終えても、真希は急ぐ様子を見せなかった。
駐車場へ向かう足取りは落ち着いていて、整備士としての手つきの静けさが、そのまま背中に残っている。
慶介がXVのバックドアを開け、工具をしまう。
玲はその後ろで、ふと振り返った。
真希はジャンパーを羽織ったまま、Z34の助手席を開け、テンショナーツールを置く。
ディープマルーンのボディ。リアのエンブレム。足元のキャリパー。
七速AT。
──彼女も、ATだった。
真希もまた、隣に並ぶスバルXVを見やる。
視線は、ボンネットの高さに一瞬だけ留まった。
「今日、86は?」
「交通費浮かせたいから、交代でクルマ出してるんだ」
真希は、もう一度だけ玲を見る。
「そうなんだ。また、峠で会うかもね」
軽い調子だったが、言葉のあとに、わずかな余韻が残った。
それは単なる再会の約束ではなかった。
玲は短く頷く。
それで十分だった。
真希がZ34に乗り込み、セルが回る。
短く、そしてすぐに回転が落ち着く。
無駄な音は、なかった。
彼女の外見。
丁寧な操作。
技術への怒り。
そのすべてが、同じ場所に収まっている理由を、玲はまだ理解できない。
余韻を胸に残したまま、玲はXVの助手席へ戻る。
ドアを閉めると、隣から視線を感じた。
「……なんか、いい感じじゃん?」
「なにが」
シートベルトを引き出しながら、素っ気なく返す。
「いや。お前って女っけないから、意外だなーって」
揶揄はあったが、悪意はなかった。
玲は答えず、バックルを差し込む。
エンジンがかかり、XVが駐車場を離れる。
ルームミラーの奥で、マルーンのZ34が小さくなっていく。
名前を知った。
連絡先を交わした。
それだけのはずだった。
それでも、胸の奥が静かにざわついている。
そのざわめきが、走りとは違うことだけは、はっきりしていた。
春の街は、ゆっくりと群青に染まりつつある。
車窓を流れる光も、騒がず、語らず。
その静けさを、玲もまた、壊さずにいた。
整備士は速く走りたい 七瀬絢斗 @karinkurum
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