ep.5
昼休みのガーデンホールには、ざわめきが幾層にも重なって漂っていた。
椅子が引かれる音。トレーがぶつかる乾いた衝突音。揚げ物の油と、紙パック飲料の甘い匂いが、白い昼の光に溶け込んでいる。
窓際では、逆光に照らされた学生たちの輪郭が、ゆっくりと揺れていた。
誰かの笑い声が、天井に反射して遅れて落ちてくる。
玲と慶介は、奥の壁際の席を選んだ。
空調の冷風がぎりぎり届かない場所で、テーブルの表面だけが、わずかにぬるい。
玲はコンビニのパスタを、慶介はサンドイッチを広げる。
プラスチックのフタを外す音が、周囲の雑音に紛れて消えた。
「午後って、実車使って故障原因探究だったよな」
慶介がサンドイッチをかじりながら言う。
パンの袋が、しゅっと短く鳴った。
その音に合わせるように、テーブルの上に、照明の影が少しだけ揺れる。
「そう。先輩たちが“謎の故障”を残してるらしい。まずはその検証から」
「……マジか。午前で、もう気力切れたんだけど」
慶介はそう言って、背もたれに体を預けた。
ストローの先で、紙パックの中の氷を軽く噛む。
きい、と小さな音がして、それがなぜか、周囲のざわめきの中でくっきりと浮かび上がった。
玲は何も言わず、フォークでパスタを巻き取る。
トマトソースが、白い皿の縁に細く伸びた。
「……相変わらず余裕だな。86って、そんな速かったっけ」
声は、横から差し込んできた。
トレーを片手に、人の流れをすり抜けながら、水原が言う。
立ち止まるでもなく、視線だけを投げるような調子だった。
玲はフォークを止めなかった。
ステンレスの表面に、誰かの影が一瞬だけ横切る。
「速いかどうかは、知らないけど」
パスタを口に運びながら、顔も上げずに続ける。
「学校来るのに、困ってないよ」
一瞬、空気が詰まった。
水原の足音が、ほんのわずかに遅れる。
「……まあ、そういう考え方もあるか」
肩をすくめる気配。
軽い調子で、言葉が重なる。
「でもさ。
走る気もねぇのにスポ車乗ってるのって、正直、もったいねぇと思うけどな」
その言葉に、慶介が顔を上げた。
サンドイッチを持ったまま、間を置かずに言う。
「そう思うならさ。
買ってやればいいじゃん」
一瞬、水原の視線が泳いだ。
言葉を探すような間。
そして、小さく舌打ちが落ちる。
「……チッ」
背中が、人の流れに吸い込まれていく。
ガーデンホールのざわめきが、ゆっくりと元の音量に戻っていった。
フォークが皿に触れる音だけが、しばらく残った。
玲はようやくフォークを置き、遠ざかる背中を見ながら、ぽつりと言う。
「ああ、行っちゃったよ。
買ってくれるんだったら、新型アウトランダーって言おうと思ってたのに」
慶介が、思わず噴き出しかける。
「なんでアウトランダーなんだよ」
「背が高いから、冠水もある程度は気にしなくていい。
それに、蓄電池にもなる。災害のときは便利だと思う」
「……え、でもアウトランダーって高くね?」
「確か七百万超えるだろ。
しかもホイール、二十インチじゃなかったっけ」
玲は少し考えるように、視線を落とす。
「一個前の型か、
エクリプスクロスのPHEVで迷ったんだよな。
あっちは確か、十六インチ履けるし」
「……まあ、冬タイヤ代は多少安くなるよな。
あの86、オプションのブレンボ入ってるから、十七インチしか入らないってぼやいてたよな」
「そうなんだよ。
前のオーナー、効くって分かってたから付けたんだろうけど、
生活で使う前提のことは、抜けてたんだろうな」
玲は再びフォークを持ち、何事もなかったようにパスタを口に運ぶ。
周囲の話し声が、少しだけ大きくなった気がした。
しばらくして、田所と木村が戻ってくる。
購買袋を片手に、惣菜パンとカップラーメンを並べる。
「藤井、水原に絡まれたくないからって、クルマ買い替えるのか?」
田所が、何気なく言う。
玲は答えず、慶介が肩をすくめた。
「いやいや。
水原が『86を通学用にしか使わないのは勿体ない』って言うから、
俺が『そう思うなら買ってやれば?』って返しただけ」
「それは正論だな」
田所はパンを取り出しながら頷き、慶介の隣に腰を下ろす。
「人のクルマの使い方に文句つけるなら、そこまで面倒見るべきだろ」
木村はカップ麺のフタを半分だけ開け、湯気が上がるのを待ってから、玲の隣に座った。
「ていうかさ。
あいつ、90クレスタ乗ってるくせに、1JZ入ってないグレードじゃん」
「……え。入ってないの?」
「うん。
71系に入ってた1G-GZEが載ってるって、水原が自慢そうに話してた」
少し間を置き、木村は続ける。
「俺さ、悪気なく『あ、1JZじゃないんだ』って言っちゃって。
それから実習中、ずっと無視されてる」
「1JZじゃない90クレスタを、MTって理由だけで三百五十万は……
だいぶ、いい値段だな」
玲は、ほんの少しだけ間を置いた。
「今さ。
九十年代のマニュアルで、走り屋に使われてたってだけで、
びっくりするほど高いよな」
フォークを動かしながら、続ける。
「中古車サイト見てたら、
二十万キロ走ったシビックが、ASKって出てた」
「ASKのシビックって、何かレアパーツでも入ってんの?」
玲はそこで言葉を切り、少しだけ間を置いた。
「内装は鉄板むき出しのドンガラで、
シートもリクライニングできないフルバケだった。
エンジンはB16AからB18Cに載せ替え」
それ以上付け足さず、視線を皿に戻す。
「外装は……
結婚式とか成人式には縁起よさそうだけど、
葬式のときは……まあ、少し気を遣いそうな色だったな」
木村と田所が、同時に息を漏らす。
「ああ……」
玲はその反応を一瞬だけ確かめ、再びパスタを口に運ぶ。
「俺は、正直言って……」
一拍。
「乗りたくないな、あのクルマは」
「……好きな人には、悪いけど」
フォークが皿に触れる小さな音が、
遠くの呼び出しベルや、誰かの笑い声に溶けていった。
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