ep.4
玲と慶介が席に着くと、すぐ前の列で田所が振り返った。
木村もそれに続き、軽く会釈をする。
「おはよ」
「おはよう」
短いやり取りのあと、田所は少し声を落とした。
「これさ……走ってんの、水原じゃないかって。今、教室ちょっとざわついてて」
そう言って、タブレットの画面を傾ける。
青いサムネイル。
〈ガチおぢTV〉のロゴ。
肯定的に“走り屋”を扱うことで知られている、青雲生まれ青雲育ちと名乗るアカウントだった。
映像は夜。
見覚えのある直線道路――青雲東部道路の高架下にある直線区間。
高架の影が路面を切り分け、背後ではアウトレットモールの観覧車が、ゆっくりと回っている。
黒い90クレスタと、シルバーのV35型スカイラインクーペ。
一般車両の間を縫いながら、テールを振って滑り込む。
白線を越え、車線を跨ぎ、ブレーキランプが一瞬だけ赤く弾けた。
──危ない。
それだけが、真っ先に浮かんだ。
スピーカーから、やけに陽気な関西弁の声が流れてくる。
『いまの角度見た!? いやー、エグい! これが本物やで!』
楽しそうな笑い声。
画面の外で拍手する音。
慶介が眉をひそめ、身を乗り出した。
「……ここ、東部道路のとこだよな」
「だよな」
田所が曖昧に頷く。
その直後、BGMが被さった。
Yeah
Midnight run, no sleep
Street cold, heart freeze
No rule, no sign
Redline, cross the line
Smoke in the back
Lights go black
They don’t know
How we roll
Midnight road, my zone
All alone, stone cold
Speed talk, real talk
No cap, full lock
Yeah
We ride
We die
Midnight life
低音だけが強調され、言葉は引き伸ばされている。
意味は薄く、似た言い回しだけが繰り返されていた。
「……これ去年グラミー獲ったやつじゃん。著作権、大丈夫?」
慶介が真顔で言う。
玲は一拍置いて、同じ調子で頷いた。
「やっぱりグラミー獲った曲か。聴いてたら荒んだ気持ちが浄化されたよ」
慶介は吹き出しかけて、慌てて喉を鳴らした。
動画の音が、まだ教室の隅に残っている。
そのとき、ドアが開いた。
「……あ、いた」
水原だった。
鞄を肩に引っかけたまま、まっすぐこちらを見る。
「お前さ」
遠慮のない声だった。
「やっぱ興味あんじゃん。ずっと見てたろ?」
田所と木村の肩が、わずかに強張る。
視線が一瞬、玲に集まった。
玲はタブレットから目を上げただけで、表情を変えない。
「うーん」
一拍置いてから、淡々と言う。
「危ないことやってるし、正直カッコ悪いよなって話してたとこ」
教室の空気が、すっと冷えた。
水原の口元が止まる。
「……は?」
「東部道路だろ、あれ」
玲は視線を戻さずに続ける。
「一般車いるし。撮ってる側は楽しそうだけど、事故ったら誰が責任取るの?」
水原は鼻で笑った。
「そういうの分かってねぇな。あれが“本物”なんだよ」
「本物かどうかは知らないけど」
玲はノートに視線を落としたまま言う。
「少なくとも、俺は真似したいとは思わなかったし」
誰も口を挟まない。
否定も、擁護もない。
水原は一瞬だけ周囲を見回し、舌打ちした。
「……そんな事ほざくなら、いい加減スポ車から降りろや。やる気ねえヤツがスポ車乗ってるってだけで、周りがシラけるんだからよ」
そう言い残し、自分の席へ向かう。
机に鞄を置く音が、やけに大きく響いた。
「……スピーカー、音下げてくれない?」
教室が、ほんの一拍、呼吸を止めた。
声の主は高田紗菜だった。
肩で切り揃えた黒髪に、丸縁の眼鏡。
つなぎの上に羽織った淡いグレーのパーカー。
派手さはないが、目元だけがはっきりとした線を描いている。
「すっごくウザいんだけど」
慶介が苦笑して、スピーカーに手を伸ばした。
「悪い悪い。去年グラミー獲った名曲らしくてさ。
耳が癒されるって、珍しく玲も褒めてたし」
そう言いながら、動画を停止する。
高田は一瞬、目を丸くした。
「……それ、本気で言ってる?」
慶介は間髪入れずに返した。
「んな訳ないじゃん」
高田は小さく息を吐いた。
「よかった。本気だったら、藤井くんに“耳鼻科行った方がいいよ”って言うところだった」
そう言って、自分の席へ戻る。
椅子を引く音が、教室の空気を元に戻した。
静けさの中で、玲がぼそりと呟く。
「……あのチャンネル、ちょっと気に入ってたのに」
慶介が一瞬、手を止めた。
「え、マジ?」
木村と田所も、思わず玲を見る。
玲は顔を上げず、ノートに視線を落としたまま続ける。
「地元の走り屋がどうこう言ってるならさ。
普通、地域性意識して青雲訛りに寄せるだろ」
一拍。
木村が「ああ……」と声を漏らす。
「確かに」
「言われてみれば、そうだな」
田所も頷いた。
玲はペン先を少しだけ動かしながら言う。
「でも、ずっと関西弁で喋ってるのが気になって。
この人、青雲生まれ青雲育ちらしいのに、なんでこんなコテコテの関西弁なんだろって思い始めるとさ」
少し間を置いて、続ける。
「もう、喋ってるだけで面白くなっちゃって」
慶介が肩を揺らし、笑いを噛み殺した。
「……そこかよ」
「そこ」
玲は短く返す。
誰かが小さく笑い、教室の空気がわずかに緩んだ。
机を叩く音や、ページをめくる音が、ゆっくり戻ってきた。
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