第1章 対峙
第1話 距離の取り方
ep.1
床に落ちた月の反射が、フローリングの木目を一本だけなぞっている。椅子の背に預けた体重が、まだ落ち切らない。背骨の奥で、何かが浮いたまま止まっている。
何かが引っかかっている。
それがどこなのかは、まだ分からない。
あのとき耳に残ったのは、音だけだった。
衝突の瞬間に潰れた金属音。短く、乾いた破断音。映像は途中で途切れ、輪郭だけが意識の奥に残る。色も速度も剥がれ落ち、形だけが沈む。時間が経っても薄れない。ただ、触れられなくなっただけで、底に残る。
息を吸う。
少し遅れる。冷えた空気が喉で止まり、それ以上落ちてこない。胸まで届かないまま、呼吸が途切れる。その隙間に、沈んでいた音が浮かぶ。
カーテンは閉めていなかった。
男子寮の四階。夜気を含んだ窓の外から、月の光がレース越しに床へ落ちる。そこへモニターの青が重なり、部屋の中央だけが淡く浮いた。暗さは残る。だが、完全な夜でもない。境目の光だった。
金属ベースに指を置く。
冷たさが皮膚の温度を吸う。掌の内側が一瞬だけ硬くなる。アルミのペダルには靴底の癖が残っている。踏み込みの角度。戻し方。力を抜く位置。視線を落とさなくても、足が覚えている。
黄ばんだケーブルの被覆に触れる。
樹脂の感触は均一で、時間の重さだけが指先に残る。戻るわけではない。ただ、同じ動きに戻れる。
画面にはシミュレーター。
ステージはニュルブルクリンク北コース。
「ここほど難しいところはない」と、父が言っていた。
光の粒が流れ、路面の継ぎ目が揺れる。視界の端が細かく震え、背中に張りが生まれる。
ヘッドセット越しに無線が落ちる。
意味を追う前に、体が先に動く。
クラッチを踏む。
ブレーキを、わずかに残す。
シフターが掌に重さを返す。
操作は止まらない。
意識だけが、少し遅れる。
アスファルトの継ぎ目を拾った瞬間、ステアが腕を打つ。
振動が肘に残る。音になる前の、嫌な気配だけが先に来る。視界が狭まり、息が浅くなる。
出口で、アクセルが一拍遅れた。
それだけで、映像が弾ける。
衝突音が室内の空気を震わせ、椅子の脚が床を鳴らす。音は短く、乾いている。反射的に肩が強張り、歯を噛みしめる。
考える前に、指が動いた。
リスタート。
灰皿の上で、細い煙が揺れている。鼻腔に残る匂いが、過去を引き寄せる。声だったか、ただの感覚だったか、その境目は曖昧だ。
もう一度、走る。
今度はブレーキを早く離す。
車の重みを前に移して、前輪を滑らせないようにする。
ガードレールが近いてきた。ハンドルを戻す瞬間に、アクセルを床まで強く踏む。
スピーカーが高回転まで回る乾いた音を吐く。
振動が椅子を伝い、足裏に残る。さっきと、同じ反力。
そこで、手が止まる。
ゴールラインを抜けた。
右上で、数字が点滅している。
画面を見つめても、体は前に倒れたままだった。視線だけが数字を追い、呼吸は戻らない。ヘッドセットを外すと、耳の奥に残響が残る。背もたれに体を預けると、足裏にはまだ反力がこびりついていた。
目を閉じる。
次に開いたとき、光は白くなっている。窓際の空気が、朝の温度へ移っていた。机の上のデータバンクが、07:40を刻む。
ドアが、ノックもなく開く。
声が落ちるまで、半拍。
「おはよー……って、うわ。お前またハンコン握りっぱなしで落ちたのか」
寝癖の残る髪を手ぐしで整えながら、慶介が顔を出す。ツナギの肩を落とし、グレーのパーカーを羽織った姿には、すでに今日の重さが混ざっていた。
「……タバコ、根元まで燃やしてるじゃねえか。危ねえよ」
「寝てない。走ってた」
「走ってた? 峠か?」
「違う。ニュル」
慶介は口元を緩める。
それを見て、背中の力が抜けた。代わりに、別の重さが残る。
「ニュルと峠は別者だろ」
短く言って、PCの電源を落とす。立ち上がると、足裏に床の硬さが戻る。デスクの端、透明なホルダーに並ぶ紙片の中から、優待券を二枚だけ抜き取る。
「ほら、朝メシ。ドライブスルー行くぞ。今日までだし」
「お、マジ? じゃあ俺がXV出すわ。準備しろよ」
慶介がリビングへ戻っていく。
短い廊下を抜ける途中、テレビのニュース音が耳に引っかかる。
一度だけ、振り返る。
電源ランプの消えたモニターに、薄い影が揺れている。
白い朝の光の端に、夜の名残が残っていた。
背中の奥で、まだ解けない重さが、静かに息をしている。
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