ep.2

 二人は簡単に身支度を済ませ、男子寮のエレベーター前に並んだ。

 表示灯が「4」で止まり、短い電子音とともにドアが開く。中にはすでに学生が一人、壁に背を預けて立っている。視線は落ちたまま、誰とも交わらない。


 ドアが閉まり、箱がゆっくりと動き出す。

 下降を知らせる低い唸りが、足裏に遅れて伝わる。床がわずかに沈み、身体の重さだけがはっきりする。玲は壁にもたれ、瞬きを一つ挟んだ。頭は起きているが、身体の一部がまだ追いついていない。まぶたの裏に、夜の濃さが薄く残っている。


 一階でドアが開くと、空気が切り替わった。

 乾いた土の匂い。遠くの道路を流れる排気。肺に入った空気が、まだ冷たいまま戻ってこない。朝の温度だった。


 外に出ると、雲ひとつない空が広がっていた。

 ひんやりとした空気が肌に触れるが、寒いというほどではない。歩き出すとすぐに体温が追いつき、上着の内側に熱がこもる。


 デザートカーキのスバルXVが、駐車場の端で待っていた。

 スタートスイッチを押すと、水平対向の始動音が一度だけ跳ね、すぐに落ち着く。ルーフに残った夜露が朝日を受け、細かく弾く。


「助手席どうぞ。今日は特別にシートヒーター付きで」


 慶介が何気なく言う。

 玲はドアを開け、無言で乗り込んだ。シートに体重を預けると、背中にじんわりと熱が広がる。革越しに伝わる温度が、意識より先に呼吸を落ち着かせた。


「本革シートにヒーターとは……贅沢な学生だな」

「中古だからセーフっしょ」


 慶介はそう返しながらギアを入れる。

 XVは静かに動き出し、寮の敷地を抜けていった。フロントガラス越しの光が、朝だとわかる色をしていた。


 FMラジオが自動で入り、軽いジングルが車内を満たす。

 内容よりも音圧だけが耳に残る。朝の番組特有の明るさが、まだ車内に馴染みきらない。


「今日の座学、絶対眠くなるわ」

「二級シャシだろ。あの先生、声が低すぎて催眠効果あるからな」

「褒めてんのか?」

「まあ……。いい声ってところは」


 信号で止まり、慶介は軽くブレーキを踏み直す。

 玲は窓の外を見たまま、返事をしなかった。会話が一拍だけ遅れる。代わりに、呼吸が一度だけ深くなる。


 住宅街を抜け、右へウインカー。

 ファストフード店のドライブスルーへ、車が吸い込まれる。


「フィレオフィッシュ単品とホットコーヒー、ソーセージマフィン単品とアップルパイひとつ」


 スピーカー越しの確認音。

 窓を少し下げた瞬間、揚げ油とコーヒーの匂いが流れ込む。空気が一段重くなり、玲の肩の力が、目に見えない程度に抜けた。


「朝から揚げ物かよ。昨日、胃がもたれるって言ってただろ」

「朝だけは別腹なんだよ。フィレオは正義」

「……理屈になってない」


 受け取った紙袋を慶介が助手席に置く。

 玲は黙って袋を引き寄せ、中からアップルパイを取り出した。サクッ、と小気味よい音が車内に響く。

 熱い密が舌を焼いた瞬間、頭の奥で何かがほどけた。

 窓の外、朝の光に縁取られた街が、少しだけ解像度を落として映る。


「……朝は、これだな」

「だろ。安定のチェーン品質」


 車は再び流れに乗る。

 通勤車両が増え、歩道には学生の姿も目立ち始めた。クラクションが遠くで鳴り、音の層が一瞬だけ厚くなる。


「……混んできたな」

「まあ。平日だし」

「こういう時だけ、マイケルダグラスみたいにブチ切れるヤツもいたっておかしくないよな」

「フォーリングダウンかよ。お前、俺が知らなかったらダダ滑りだぜ?」


 慶介が笑い、左へウインカー。

 木立に囲まれた道へ入ると、視界が少し開けた。


 鹿坂の坂道。

 常磐川と青雲市街が、朝日に縁取られて広がる。


 玲は、無意識に首をわずかに傾けた。


「……意外と、綺麗だな」

「あー。運転してると、あんま見ないよな」

「86だと、目線が低いから」

「なるほど。車種の違いか」


 ブレーキが軽く踏まれ、車速が落ちる。


「ていうか今日、遊星ギアの分解だったっけ?」

「そう。減速機の原理、復習しとけ」

「パズルだろ、あれ」

「違う。力の流れだ」


 玲は言い切ってから、口を閉じた。

 慶介は一拍置いて、フィレオを噛む。


「……はいはい。出た、理屈の人」

「必要な話だって」

「わかってるって。続きは教室でな」


 橋に差しかかる。

 川面の反射がフロントガラスに散り、視界が一瞬だけ白くなる。玲は瞬きをして、それをやり過ごした。


 前方に、青雲モビリティ大学校の校舎が見えてくる。

 車内の空気が、ほんの少し締まる。


「今日も長いな」

「……アップルパイ、もうひとつあってもよかったかもな」


 校門をくぐり、慶介が車を寄せる。

 エンジンが止まり、振動だけが手のひらに残った。


 玲はドアを開け、地面に足を下ろす。

 朝の光が、ボンネットの縁をなぞっていた。


 校舎に一番近い区画に、黒い車影が見えた。

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