整備士は速く走りたい

七瀬絢斗

プロローグ

 閉鎖三十分前のアナウンスが、峠のスピーカーから短く響いた。

 必要最低限の音量で、余韻を引きずらない。音は谷に落ちる前に失速し、湿った夜気に吸われるように消えた。


 何度も聞いた定型文のはずなのに、夜になると微妙に印象が違う。

 冷えた空気を通るせいか、言葉の輪郭が少しだけ硬い。人の声というより、設備の一部のように聞こえる。


 外気九度。


 フェンスの向こうで巡回員のライトが揺れた。白色光が湿った路面をなぞり、水膜を一筋ずつ浮かび上がらせていく。アスファルトの目地が、白く細い線になって現れては消えた。


 二十一時を過ぎれば、ここでは一台も走れない。

 それは警告というより、条件だった。人がどうこうする以前に、物理的に終わる。


 藤井玲は、メーターに視線を落とした。

 回転数。油温。水温。針はどれも、想定していた範囲の中に収まっている。


 短く息を吸い、吐く。

 昼間に残っていた熱が、シート越しにまだ身体に残っていたが、吸気のたびに少しずつ夜へ溶けていくのが分かった。


 ──ここなら、試せる。


 白線に沿って街灯の光が落ち、路面には夜露が薄く浮いている。

 尾根を渡る風がフェンスを鳴らし、金属音が乾いた周期で繰り返された。


 ヘッドライトに照らされ、枝先の蕾が淡く色づく。

 まだ固く閉じたままの形。開くには早い。それでも、時間だけは確実に進んでいる。


 最終セクション。

 上りを抜け、左の中高速からロングストレートへつなぐ構成。


 ダークグレーメタリックの86が、わずかに姿勢を沈めた。

 サスペンションが一拍遅れて深く入り、その沈み込みを腰と背中で受け止める。内臓が、ほんの少しだけ下に引かれる。


 スロットルは一定。

 ブレーキを一瞬だけ踏む。踏力が戻る前に、荷重が前へ移る。


 ステアを切ると、タイヤが低く鳴いた。

 滑りではない。音になる直前の、限界を知らせる短い声。


 ──入口で終え、出口で足さない。


 同じ操作でも、条件は毎回違う。

 速度、湿度、気温、路面の荒れ。差分を無視しないために、同じ手順を繰り返す。


 四速へ。

 自然吸気の音が澄み、回転が途切れずにつながる。ヘッドライトの先で蕾の並木が流れ、チェックラインの光電が一度だけ点滅した。


 悪くない。

 ただ、まだ余白はある。


 展望台の分岐でウインカーを入れる。

 減速し、白線の内側へ滑り込む。ブレーキを踏み切り、パーキング。


 エンジンを切ると、周囲の音が一気に戻ってきた。

 風の音。遠くの設備音。湿ったアスファルトの匂いと、わずかに焦げたゴムの匂いが混ざる。


 奥の区画。

 冷たい光を返すディープマルーンのZが停まっていた。異様に低いフェンダーライン。リア下部に覗くデフクーラー。派手さはないが、余計なものもない。


 触れなくても分かる。

 距離の取り方で、塗装の下に残る熱が伝わってくる。


 その向こうに、気配があった。


「上り、低速のとこ」


 不意に、声がした。


 振り向くと、Zのフェンダーに女が腰を預けていた。

 重心を金属に預ける立ち方。力が抜けているのに、姿勢は崩れていない。


 風が髪を揺らし、月光が輪郭を淡く縁取る。


「……あそこ、詰めてきたでしょ」


 玲は一拍、視線を外した。

 否定するほどでもないが、今すぐ返す言葉も選びたくなかった。


「勢いじゃ無理な区間。あそこで来られる人、そう多くない」


 彼女は続ける。

 断定というより、確かめる調子だった。


「中腹の右も、よかった」


 白線が切れ、夜露の残る右コーナー。

 舵角と荷重の感触が、遅れて浮かぶ。


「踏めるのに踏まない。

 あそこ、いちばん上手い」


 言葉が置かれ、間が生まれた。

 彼女は一度だけ視線を逸らす。


「私も昔、踏めなかった。

 でも、踏まなきゃ勝てないって思って――」


 言いかけて、止めた。


「……いや。今のは関係ないか」


 空気が少しだけ冷えた気がした。


「とにかく。

 “信用しないって判断”ができる人は、嫌いじゃない」


 言ったあとで、ほんの少しだけ言い過ぎた顔をした。


 玲は返事をしなかった。

 視線を戻し、展望台の白線を見る。


 上りの低速。

 中腹の右。

 どれも、偶然で抜けられる場所じゃない。


 正しい。

 それだけに、少し面倒だった。


「名前、聞いてもいい?」


 少し間があってから、彼女が言った。


「……藤井玲」

「秋月真希。真希でいいよ」


 彼女はルーフを軽く叩き、ドアを開ける。

 セルが回り、3.7リッターV6が目を覚ました。


 低回転から張り詰めたまま立ち上がる、硬い呼吸。

 音が空気を押し、振動が足元に伝わる。


 テールランプが赤く灯り、Zは振り返らずに下っていった。


 光が消えると、時間が元の速度に戻るまで、少しだけ間があった。


 玲は自分の86に視線を戻した。

 ホイールが街灯を拾って、鈍く光る。


 左中速の出口。

 アクセルの踏み込みが、一瞬だけ遅かった。


 気のせいだ、たぶん。

 そう結論づけるには、ほんの少しだけ早い。


 ドアを開け、シートに身体を沈める。

 スタートスイッチを押すと、自然吸気のエンジンが静かに回り始めた。


 ヘッドライトが白線をなぞる。


 ──また来るでしょ。


 風に紛れて、声がした気がした。

 幻聴だと、今は判断しておく。


 それでも、アクセルを踏み込むまでに、

 いつもより、ほんのわずかに時間がかかった。


 タイヤを鳴らすことなく、86は下りへ滑り出す。

 白い光が、蕾の枝に一瞬だけ、春の色を残した。

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