人魚の見る夢、人魚と見る夢
西しまこ
満月の夜に産卵するのです
私は恋人と別れて、海に来ました。
家に一人でいるのは怖かったのです。広くもないマンションの一室ですが、彼の荷物がなくなっても、存在がそこここにありましたから。部屋にいると、彼の幻影が私を悲しみの淵に落とすのです。彼は幻となっても、春の日のように優しく冬の日のように冷たく、私に纏わりつくのです。開放的な海に行けば、寄せては返す波が、彼との想い出を攫っていってくれるかもしれないという淡い期待を抱きました。
ざざん、ざざんという波音、碧い波と白い泡沫、私の気持ちとは裏腹に明るい太陽の光が海の上で踊っています。眩しさに、私は思わず目を細めました。しかし、次の瞬間、目を見開きました。
人魚がいたのです。
美しい人魚が。
碧い海の中に白い上半身をつるりと出して、波の音に合わせてゆらゆらと揺られていたのです。
最初は幻ではないかと思いました。本や映像の中でしか見たことのない人魚がそこにいるのです。混乱しました。マンションの一室では去ってしまった彼の幻影を見て、紺碧の海では人魚の実像を見るのです。自分は苦しみのあまり、どうかしてしまったのではないかと怯えました。
人魚は、優しい北欧系の顔立ちをしていました。真っ白な肌に海と同じ色の碧い瞳。そして、流れるような金色の長い髪。作りもののような、麗しき儚げなようすで海の中にいるのです。そして私をじっと見ていました。人魚の瞳に吸い込まれてしまいそうでした。
気づけば碧さの中にいました。海の碧さなのか人魚の瞳の碧さなのか分からなくなりました。或いはそれらは同じものなのかもしれません。しかし大変心地よい感じがしました。あたたかくて目を閉じればすぐに眠れるような。碧さの中で私は人魚の中に入り人魚は私の中に入り、そうしてぐるぐるぐるぐると混ざり合ったのです。私はうっとりとその感覚に身を浸していました。
私はついに言いました。
うちへ来るかい? と。
それは人魚を見た瞬間に、なぜか頭に浮かんだ台詞で、どうしてもそれを言わずにはいられなかったのです。
人魚は海の瞳と愛らしい唇で、次の満月までならいいわ、と光る硝子のような声で言いました。
そのとき私に湧き起こった歓喜の感情をあなたは理解出来るでしょうか。恋人との別れの悲しみも日々の鬱屈した思いも、全て吹き飛ばすような喜びなのです。
私は人魚を、恋人のいなくなった部屋に連れて来ました。人魚はまるで初めからそこにいたみたいにしっくりと馴染んで、大きな盥の中にゆらりとし、ぴちゃぴちゃと音をたて、私の心を和ませるのでした。私は思いました。別れた恋人ではなく、人魚の方がよほどこの部屋にぴったりだと。それほど、人魚がうちにいる光景は、まるで月に兎が棲んでいるのと同じように、素敵なものだったのです。
そうして私は、恋人のことを忘れたのです。
仕事が終わって帰る部屋の中で月明かりにきらきらと身体を輝かせている人魚を見ると、あらゆる物思いは人魚の肌に弾かれて霧散するようでした。
私はそっと、人魚の白い肌に手を伸ばします。
人魚のつるりとした白い肌に触れてその滑らかさを充分に味わったあと、しっとりとした長い金髪に口づけすると、波音に攫われていくのは私であるかのような、妙な感じがしました。人魚はあたたかく私を抱き締めます。私も人魚を抱き締めます。あの、ぐるぐるぐるとした感じが蘇ります。奇妙な安心感が私を包み込むのでした。
私は人魚の赤い唇を指でなぞりました。光る硝子の声が細く漏れて、私はもっとそれが聞きたくなり、唇から顔の輪郭をゆっくりとなぞり、それから鎖骨の形を確かめ更にその下にある膨らみを優しく揺らし桜色の突起を愛撫したのです。恋人であった彼にはあって人魚にはないもの、彼にはなくて人魚にはあるもの。ないものが何だと言うのでしょう? 人魚は私が知らなかった快楽を教えてくれるのでした。
仕事から帰るマンションの一室。そこだけ、他から孤絶した私と人魚だけの美しい空間でした。
人魚が海の瞳で私を見つめます。ぴしゃんという音が部屋に響き、私は人魚に触れ人魚に触れられ、ぐるぐるぐるぐると混ざり合い溶け合い、人魚からは光る硝子の声が漏れ、人魚とこうしているときだけが現実で、この部屋から出た世界こそが夢幻であるかのようでした。
私は月が満ちて来るのを不安と共に眺めました。人魚は次の満月までならいいわ、と言ったのです。満月になったら海へ還るのです。
どうしても還らないといけないのかい? そうよ。だって満月の晩、わたくしたち人魚は卵を産むんですもの。月が丸く大きくなった群青色の夜の海に、月明かりが落ちると、産卵が始まるの。満月の晩に卵を産むのは、大人の人魚のだいじな使命なのよ。
私は満月が近づくにつれ、涙が出るようになりました。人魚は私の涙をそっと舐めてくれました。涙は潮の味がするのね、懐かしい味だわ、と人魚は微笑みました。
満月の晩、私は約束通り人魚を海辺に連れて行きました。人魚はぴちゃんと音を立てると、するすると海へ入って行きました。海の波と一体化して、あっという間に沖へ沖へと行ってしまったのです。
家に帰り、人魚が使っていた盥を見ると、そこに満月の光が降り注いでおりました。
よく見ると、盥には、小さな小さな、真珠のような卵がありました。それは乳白色の輝きを見せながら、でも少し透き通っていて私の心を慰めるのでした。
私はマンションから、人魚が還って行った海を眺めました。
*
わたくしは海でたゆたひながら、あの人のことを見てをりました。
あの人を見つけたのは
ざざああん、ざざああああんといふ波の音楽を聞きながら、ひねもす海でゆうらりゆうらりと泳ぎて、小魚や小動物や海藻たちとあざれあふのがわたくしの日課でありました。海の中のくくもりし音、常には緩やかな海藻の動きなどはわたくしの心持ちを柔らかにぬるんだ眠りに誘ふのです。
嗚呼、光のちらちら降りゆきて、紺碧の海の中をさざめきさざめきてゆくさまをわたくしはどれだけ愛したことでせう。
光降る海、たゆたふわたくし、ざざあああんといふ波の調べ、水の流れにゆく魚たち。広がる金の髪は海の水にのびゆき、わたくしの欲深き
海の世界をそのやうに
をりふし、わたしくは海から顔出すやうになりました。
空の中を飛ぶ鳥。鳥たちの鳴き声は遠くまで飛んでゆくのです。嗚呼、海の中とはなんと異なることでせう。わたくしはその澄んだ音色に浮き立つやうな心持ちになつたのであります。わたしくは海から顔出し、地の生き物たちを眺むることを密かな楽しみといたしました。
さうして、白き箱がニンゲンたちの棲み処であることに気づいたのであります。わたくしの海の瞳はずつとずつと遠くまで見通すことが出来るのです。
ある日、一人のニンゲンが、
黒き髪はなんといふ美しき輝きがあるのでせう。
深く海の底まで潜りますと、そこは光のない黒き闇の世界なのです。しかし、しんとして静かなその黒さは不思議に優しくわたくしを取り囲み癒すのです。わたくしはその深海と同じやうなものをかの人の髪に感じたのです。愁ひを秘めた双眸、細くて長き吐息、語りかけてくるやうな唇。わたくしはそのニンゲンが箱から出てくるのを心待ちにするやうになつたのでございます。
細く糸のやうな月が浮かんでをります。微かな光を身に受けながら、満月を思ひやりました。満月の海で、わたくしたち人魚は産卵するのです。わたくしは、かの人を思ひながら産卵するさまを脳裏に描いたのであります。
奇蹟が起こりました。
黒髪の方が海に来て、わたくしを見つけたのであります。わたくしを凝つと見つめました。かの方とわたくしの視線が絡み合ひ、わたくしの心は喜びで震え、思わずぴしやりと尾鰭で水音を立ててしまひました。
うちへ来るかい? 黒髪の方がそう言ふのです。わたくしは満月までならとお答えいたしました。満月まで、あの人と共に過ごすのです。嗚呼、なんといふ幸福なのでせう。
わたくしは夢見るやうな日々を過ごしたのであります。海からゆらゆらと見てをりましたあの人がすぐそばに居て、その吐息がわたくしに触れるのです。わたくしは黒髪の方の吐息に包まれ、満月に産む卵のことを考えるのです。
あの人がわたくしに触れ、わたくしの唇からは甘い声が漏れてしまひます。あの人が黒髪を揺らして、わたくしを壊れやすい薄い硝子のように優しく撫でてゆくのです。嗚呼、このような歓喜を今までどうして知らずにいられたのでせう。海の中で感じた欲深き
あの人が出かけている昼間、わたくしは夜を夢見て、ゆうらりゆうらりと盥の中で微睡みます。さうして、あの人の足音を耳に感じるとわたくしは身体を起こし、かちやりという音を待つのです。待つといふ幸福をわたくしは初めて知りました。
深海の髪を持つあの人と、天に昇る快感を夜毎に味わうのです。
吐息がわたくしを包み手がわたくしを撫で、黒髪が夜の淫靡な優しさを導き、思わず漏れ出でるわたくしの甘い声にあの人が嬉しさうに笑ひ、唇に舌が触れ柔らかな唇が重なり、唇から生きてゐるかのやうな舌が入り込みあたたかな唾液と舌が絡み合ひ、わたくしの思考は痺れ悶え白く光り、高き所へと一瞬にして昇つてゆくのであります。
わたくしはやはり満月に産む卵のことを考えずにはいられないのです。満月の光が零れ落ちる夜の海に、わたくしは乳白色の卵を産むのです。黒髪の方からもたらされた歓喜と共に産卵をするのです。
あの人は満月が近づくにつれ、涙を流すやうになりました。涙をそつと舐めました。涙はわたくしの身体の一部になり、わたくしはあの人と混ざり合ふのです。大丈夫、あなたはわたくしの一部となりわたくしはわたくしの一部をあなたに残してゆきますから。わたくしは一心にさう念じあの人の愛撫に蕩けるのでした。
満月の夜、わたくしは産卵のために海へ還ってゆきました。わたくしの卵たちは海を漂ひ流され、さうして麗しき人魚になる夢を抱いてゐるのです。
わたくしの卵を、あの人は見つけてくれたでせうか。
*
人魚が海へ還って行き、私は一人になりました。マンションの一室には盥が残され、そこに人魚がまだいるような気がしたのです。乳白色の、美しい真珠のような卵は透き通った海の色のグラスに海の水と共に入れ、窓辺に置きました。人魚のためにこうした方がよいと思ったのです。盥は必要なくなりましたが、私はどうしても盥を片づける気にはなれませんでした。
仕事から帰り部屋に入ると、人魚の気配が色濃くそこに満ちており愛おしく感じられました。以前恋人と別れたときは辛くて部屋にいられなかったことを思うと、還って行ってなお、私の気持ちを慰める人魚は何と稀有な存在でありましょう。かつて恋人と一緒にいて寂しかった私は、今一人でいて寂しくないのです。
私は人魚の気配に包まれながら、毎日卵に語りかけました。あらゆることをとりとめもなく話していると、人魚はやはりすぐそばにいるような気持ちにもなりました。
そのようにして、私は心安らかな日々を過ごしていたのです。
しかし、ある日、私の平穏を破る出来事が起こりました。母が訪ねて来たのです。母はいつものように傍若無人にチャイムを鳴らすと、ずかずかと室内に入って来ました。そうして、玄関を見て室内を見渡し、よかったわ、あの男とは別れたのね、と小さい頃から変わらない魔女の声で言いました。彼の靴や服がないことから、そのように断じたのです。母は元恋人との交際に初めから反対していました。
母は私が淹れたお茶を飲みながら、あの盥は何なの? とようやく言いました。私の元恋人のことで頭がいっぱいで、目立つ盥であってもそれまで目に入らなかったのでしょう。私は大物の洗濯をしていると答えました。母はつまらなさそうに、そうと言っただけでした。そしてせかせかと、あなた、あの男と別れたのならちょうどいいわ、わたし、あなたにいい人を紹介したいと思っているのよ、と言ったのです。写真をいくつか見せられ、私は喉のところに大きな石が入っているような感覚に襲われました。母は、この人はどこそこの大学を出ているのよ、とか、この人は有名な企業に勤めているのよ、とか、趣味は料理なんですっていいわね、とか、色々なことを言いました。私は必死に笑顔を貼り付けて、母の話を聞きました。そうしないと、母が手当たり次第に物を投げてしまうことが容易に予想されたのです。私は、私の大切な卵が壊れてしまうことを恐れたのです。
母は上機嫌で帰って行きました。
母が部屋にいたのは短い時間であったと思われます。しかし、私はまるで何十年も暴風雨に耐えていたような気持ちになりました。窓や扉を固く閉ざしても、家はがたがたと揺れて心を恐怖で震わせ、隙間からは風や雨が刃のように入り込み、私を突き刺すのです。
ふつう、ということが私にはよく分かりませんでした。
ふつうの両親のもとに生まれ、ふつうに育てられたはずなのに、私の中にはふつうが育たなかったらしいのです。ふつうという観念は私をぎゅうぎゅうと押し潰しました。年を重ねる毎に重しはより大きく重くなり私は私を保つことがとても難しくなりました。息さえ出来ないほどに。どうしてふつうに生きられないのだ?
生まれた家を出ました。そうして私はようやく息が出来るようになったのです。別れた恋人とも、生まれ育った家族よりはずっと楽しく暮らすことが出来たのです。そういうことを、家族は少しも分からないようでした。私は彼と別れて、とても悲しく寂しかったのです。別れる前の一時期は一緒にいても辛く、そのことが私をひどく苦しめました。ふつうが何か分からない私を、初めに救ってくれたのが彼だったのです。しかし、彼とは別れる決断をしたのです。そこには深い葛藤があり解けない絡み合った紐の固さがあり、暗い穴の中に落ち込んで出られないような情動がありました。ふつう、それは苦しみや悲しみではないのでしょうか。
ぴしゃりと音がしました。
音の方を見ると、海の色のグラスの中の真珠のような卵が、光の帯を濃くしていました。
人魚が残した卵は私を包み込んでくれるようでした。それは、人魚自身の情愛でもあるようでした。大丈夫よ、という人魚の声が聞こえるような心持ちがして、そこに私は希望を見るのです。ふつうが何か分からなくてもふつうでなくても、大丈夫だと言われたような気になるのです。
盥から海の情景が広がります。
母の気配を上書きして、海の気配が部屋いっぱいに広がっていきます。その中で、海の色のグラスの中の美しい卵はいよいよ美しく光り、少し震えているようでした。私は玄関の鍵を固く締め誰も入って来られないことを確認して、盥のもとに行きます。私は、人魚の卵が入った海の色のグラスを手に取り、盥の中に入りました。
人魚の気配を感じます。
するりとした人魚の肌触りをこの手に感じ柔らかな人魚の唇を唇に感じ、舌が唾液が絡み合いぐるぐるぐるぐると混ざり合い、私は盥の中でどうしようもなくひたひたにあたたかに濡れて、人魚とのあの夜毎の交わりが今もなお続いているのだということが分かったのです。
海の色のグラスの中で卵が囁きました。
それは、微かな光る硝子の声なのでした。
*
満月の夜、わたくしは産卵いたしました。
黒髪の方を思ひやつて、乳白色の卵を夜の海に産んだのでございます。わたくしの意識は無数の卵に宿りわたくしの肉体は紺碧の海に溶けてゆきました。満月の光を身体中で感じながらわたくしは乳白色の卵になり紺碧の海となり、ゆららんゆらんゆららんゆらんと幸福な気持ちで朝の目覚めを待つてをりました。
幾つものわたくしは幾つもの夢を見ました。
碧い海の中に潜り白い波しぶきに揺られ、ざざあああんという波の調べに歌ひながら、わたくしは縦横無尽に広がりゆくのです。さうして、わたくしはあの人の元に残して来たあの、真珠のやうな卵の中にも居るのです。
美しき硝子の中で、真珠なる卵に宿つたわたくしは、黒髪の方の声を聞いたのでございます。なんとも愛しき声でありました。触れ合つた記憶と声が絡み合ひ歓喜に震え、わたくしは卵の中で仄かな光を発するのです。硝子の中でわたくしはいつも声を待つて居りました。
魔女が平らかな流れを無慈悲に破りました。
あの人が魔女に傷つけられてゐることがすぐに理解出来たのであります。わたくしが早く立ち去るやう強くつよく念じたからか、魔女はあの人にいやらしく笑ひかけると、早々に退出してゆきました。けれども後に残されたあの人の周りには黒い靄が纏わりつきてゐるやうに見えたのです。
大丈夫よ大丈夫よ大丈夫よ。
わたくしは必死になつてあの人に伝えたのです。わたくしはわたくしの
ぴしやりという音を立て、光の帯も発しました。
あの人はわたくしの入った硝子を手に取り、盥に入りました。わたくしは
わたくしの現実の肉体は既に紺碧の海に溶けてをります。しかし、わたくしは確かに乳白色の、真珠なる卵のうちにあり、黒髪の方を抱き締めやうとしたのであります。あの人を抱き締めあの人の肌をするすると撫でどこもかもあの人を味わひ、あの人の唇にわたくしの唇を押し当て舌で舌を探り唾液を交換しあらゆる体液を交換し溶け合ひ、月の光の下で、ぐるぐるぐるぐるとあたたかき交はりをするのです。
ぴしやんという音がいたしました。
わたくしは気づけば盥の中で人魚の姿となってあの人の温もりを感じてゐたのでございます。嗚呼、なんといふことでせう。産卵をして幾つものわたくしになつた後、わたくしは知らぬ間に徐々に消えゆくのがこれまででした。しかし、いま、わたくしはわたくしの意識を保つたまま、黒髪の方をわたくしの白き
黒髪も黒目も濡らしたあの人が、わたくしをより強く抱き締めるのです。月の光が美しくわたくしとあの人をひらひらと撫で、わたくしはなぜだか泣きたいやうなあの人の涙を舐めたいやうなあやしく愛しき気持ちがしたのでございます。
会いたかった。
あの人が小さく呟きました。わたくしはやはり涙を流しました。あの人も涙を流しておりましたので、わたくしはあの人の涙を舐めました。潮の味がしました。あの人の涙を舐めあの人の頰を舐めあの人の唇を舐めあの人の舌を舐めあの人の首筋を舐めあの人の鎖骨を舐めあの人の服を脱がしあの人の輪郭を舐め、あらゆるあの人を舐め、わたくしは、海の中でゆうらりゆうらりとしてゐたやうに、ずつとここでかうして、あの人と共にゆうらりゆうらりと生きて行くことが分かつたのであります。
涙は月の光に溶けて部屋にあたたかな
欲するもの全てに満たされてわたくしは
*
私は勤めていた会社を辞め新しく在宅の仕事をすることにしました。
人魚とずっと一緒にいたかったからです。収入は減りましたが問題はありません。人魚といる時間が増え私は満足しました。
人魚も満ち足りているようです。
人魚が微笑むと光の粒が舞うようでした。人魚と私は夜となく昼となく交わり、そうして人魚の光る硝子の声を聞き、私は生きていることを実感しました。
家族からの連絡は全て遮断しました。生まれ育った家族を棄て、私はようやく安心することが出来たのです。私はもう、怯える必要がなくなったのです。私はこれからは人魚と生きていくのです。
チャイムが鳴りました。
画像を見ると、なんと元恋人がそこに映っていました。開けてくれ、いるんだろう? と彼は言いました。私は黙っていました。どうして彼は戻って来たのだろう? もう彼のことは忘れたのに。私には人魚がいるのに。
会社を辞めたって聞いて、心配して。ねえ、入れてくれ。俺が悪かったから。もう一度やり直そう。いや、せめて話だけでもさせて欲しい。頼むよ。好きなんだ。愛している。
彼はあのとき私が聞きたかった言葉を言いました。どうしてあのとき、それを言ってくれなかったのだろう? 私は解錠しませんでした。なぜなら私には既に人魚がいるからです。私は人魚が微笑む盥のところに行きました。私には人魚がいればいいのです。
しかし、私が人魚を抱き締めていると、玄関でかちゃりという音がしたのです。
*
あの人が黒髪をさらさらとさせて、毎日家に居るやうになりわたくしは心から嬉しく思ひました。いつでもあの人に触れることが出来るのです。嗚呼、なんという幸福なのでせう。わたくしはあの人を知らぬ前のわたくしにはもう戻ることは出来ないのでした。
朝も昼も夜も、わたくしはあの人と歓喜を味わひて、瞬間、わたくしは無数のわたくしの夢を見るのです。わたくしはこのわたくしであり同時にこれまでのわたくしでもあり、また無数のわたくしでもあるのです。無数のわたくしの夢を見て、あの人と居るわたくしに戻るのであります。
わたくしは充分に傷ついてゐるこの人がもう傷つかないやう念じました。しかし、思わぬところから静寂を乱す者が現れたのでございます。
かちやりと音がしてその男が入つて来ました。どうして? 鍵を持っていたんだよ。男は戸惑うあの人を抱きしめて愛していると言ふのです。愛してゐるのなら、なぜ独りにしたのでせう。なぜ孤独の淵に落としたのでせう。それは愛と呼べるのでせうか。
わたくしは盥の上で海の瞳で男を凝つと見つめました。
男はわたしを見ることなく、あの人をただ抱き締めてゐるのです。あの人は困惑してをりました。
*
やめて欲しい、もう終わったのだから。私はそう言いました。しかし、彼は私を強く抱き締めたまま、もう離したくないんだと言いました。だけど私には既に人魚がいるのです。どうして会社を辞めたんだ、みんな、心配している。私にはみんなは要らないのです。人魚がいればいいのです。お前がいないと、俺は駄目なんだってことが分かったんだ。私には人魚がいるのです。彼に抱きしめられているところを人魚に見られたくありませんでした。私は彼の腕の中から抜け出ようとしました。どうして? もう終わったのだから。過去なのだから。俺はまだ過去には出来ない。それがよく分かったんだ。私にはもう過去です。もう好きじゃないのか? もう好きじゃないんです。それでもいい。そばにいて欲しい。出来ません。彼が唇を寄せて来たので、私は満身の力で彼を押しのけて盥のところに行きました。人魚は優しく微笑み、海の瞳で私を見つめます。白い肌に月光が落ちて金色の髪と共にきららららと美しく光り、私の目からは思わず涙が零れました。人魚は私の涙を舐めました。潮の味がするわ、と言いました。大丈夫よ、わたしがいるわとも言いました。私は人魚を抱き締めました。大丈夫大丈夫大丈夫。息をしている。大丈夫大丈夫。人魚の心臓の音と私の心臓の音が重なり、高く響いていました。
彼が私の名を呼びながら、盥のところに来ました。どうしたんだ、どうしてそんなところにいるんだ、濡れるじゃないか。やめて。やめてやめてやめて。彼が私を無理やり盥から出そうとします。私は人魚を抱き締めます。白い肌をきつくきつく抱き締め、私と人魚はぐるぐるぐるぐるともう既に溶け合っていることが分かるのです。どうしたんだ、どうしてしまったんだ、俺がいなくなったことがそんなに悲しかったのか? 私は既に人魚に出会ったのです。私の生は人魚と共にあり私の性も人魚と共にあるのです。人魚との快楽の中で私は生きるのです。そこは私を傷つけるものはなく魔女も魔女の家もなく私を棄て去る者もなく、永遠に清浄なのです。
了
人魚の見る夢、人魚と見る夢 西しまこ @nishi-shima
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