第7話 夢と現実の狭間で

フレームの特訓は地味だった。


派手な連続技は一切教えられない。

飛び込みもしない。

攻めもしない。


あるのは、同じ動作の繰り返しだけだった。


相手が大技を振る。

氷雨は、ただ待つ。

終わる瞬間に、最速の弱いパンチを入れる。


それだけ。


失敗すれば、何も起こらない。

成功しても、画面が少し止まるだけだ。


『これを、百回』


大友は淡々と言った。


『……百回、ですか』


『成功を、です』


氷雨は、それ以上聞かなかった。


その日の夜、手が痺れて眠れなかった。

指が、熱を持ち、勝手に小刻みに震える。


――老いだ。


それは、言い訳ではなく、事実だった。


翌日も、特訓は続いた。


成功は、二十回。

翌日は、十八回。

さらにその翌日は、十五回。


減っている。


集中力が続かない。

目が霞む。

肩が上がらない。


『今日は、ここまでにしましょう』


大友が止める。


『……まだ』


氷雨は、言葉を続けられなかった。

息が、思ったより荒れている。


ベッドに戻ると、体が言うことをきかない。

脚が重く、腰が抜けそうになる。

寝返りすら一苦労。


――限界は、見えている。


それでも、翌日、氷雨は共有スペースにいた。


観客は、増えていた。


入浴帰りの利用者。

食後に立ち寄る利用者。

職員が一人、二人。


誰も声を出さない。

だが、氷雨が大技を弱パンチで止めるたび、空気がわずかに動く。


失敗が続いた日、

氷雨は、ふと、口にしてしまった。


『……世界大会なら』


声は、独り言に近かった。

だが、その場にいた全員に、聞こえてしまった。


『世界大会なら……

  こういう相手ばかり、なんでしょうね』


一瞬、時間が止まった。


大友が、ゆっくりとこちらを見る。

入居者たちの視線が重なる。


氷雨は、はっとして口を閉じた。


――言ってしまった。


自分で、自分を裏切った。


『……違います』


慌てて続ける。


『出る気は、ありませんから』


沈黙。


大友は、何も言わなかった。

だが、その日の特訓は、そこで終わった。


    *


翌日、施設長に呼ばれた。


事務室は、静かで、沁み込むように冷えていた。

机の上に書類が積まれている。

だらしない机の人間は仕事もだらしない。

そんな目でチラリと見る氷雨に対し、施設長が口を開いた。


『夜桜さん』


穏やかな声、こういう声色を使う時の人間は、必ず何かを含んでいる。


『最近、少し……活動的でいいですね』


ほらきた…氷雨は、何も言わない。


『ただ、体調面の心配があります』


それは、正論だった。


『大会だの、世界だのという話も出ているようですけど…』


施設長は、言葉を選ぶ。


『ここは、そういう場所ではありません』


 ――そうだ…ここは、終わるための場所だった。


『無理は、させられません、わかりますよね』


それ以上、責める言葉はなかった。

だからこそ、重かった。


    *


その週末、息子夫婦が来た。


面会室。


息子は、以前より老けて見えた。

妻は、終始、落ち着かない様子だった。


『母さん……』


息子が、切り出す。


『最近、変なこと、考えてないよな』


氷雨は、視線を逸らした。


『ゲームの大会だっけ?

  施設の人から、聞いた』


妻の声は、硬かった。


『お願いだから……

  これ以上、心配させないで』


氷雨は、拳を握った。

言葉が喉まで出かかった。


――世界大会。


だが、言えなかった。


『……私は』


代わりに、そう言った。


『負けたまま、終わりたくないだけです』


息子は、何も言えなかった。

妻は、目を伏せた。


その沈黙が、答えだった。


    *


夜。


共有スペースは、無人だった。


氷雨は一人でコントローラーを握る。


画面の相手が、大技を振る。


待つ。

待つ。

――今。


止めた。


成功。


だが、胸は、軽くならなかった。


世界大会。

その言葉は…もう、引っ込まない。


否定しても、

現実が壁として立ち塞がっても、

体が限界を訴えても。


それでも、

一度、口にしてしまった夢は戻らなかった。


もう一人の自分が肯定する。

――夢見て何が悪い、いくつになっても何かに挑むのは自由だ。


夜桜氷雨、九十歳。


コンピューター相手に負けを返した気になっていた人生は、

いつの間にか、世界に届くかもしれない場所を見てしまっていた。

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2025年12月29日 05:00
2025年12月30日 05:00
2025年12月31日 05:00

One Frame Life 如月 睦月 @kisaragi0125

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