第6話 最速フレーム

現実は静かに、しかし確実に立ちはだかった。


予選参加条件。


それは、共有スペースの隅に置かれたタブレットを、

職員が何気なく操作して見せた画面に書かれていた。


年齢制限――なし。

国籍――不問。


だが、その下に並ぶ文字が、氷雨の呼吸を浅くした。


・大会規定コントローラー使用

・長時間対戦への耐久力

・移動・遠征可能であること


――長時間対戦への耐久力…無理だ。


 それは、考えるまでもなかった。


施設の外出は、許可制。

長時間の立位は、医師から止められている。

遠征など、夢物語ですらない。


『……やっぱり、別世界ですね』


氷雨の呟きに、職員は軽く肩をすくめた。


『まあ、世界大会ですから』


その言葉が、胸に刺さる。


世界。

また、その言葉だ。


その日の午後、共有スペースでコントローラーを握っても、

集中は戻らなかった。


 読みが遅れる。

 待ちが崩れる。


 負ける。


負けた瞬間、胸に浮かんだのは悔しさではなかった。


――やっぱり、届かない。


そのときだった。


『出る気、ないですよね』


背後から、軽い声がした。


振り向くと、若い男性職員が立っていた。

名札には「大友」とある。


『……ありません』


即答。


『ですよね』


大友は笑った。

からかうようでも、突き放すようでもない。


『でも、氷雨さんの“待ちP”、あれ、かなり嫌なやつですよ』


氷雨は、眉をひそめた。


『……ピー?』


『ええ、待ちパンチです。相手からするとね、攻めにくいんですよ』


それだけ言って、大友は画面を見る。


『俺、世界大会、出たことあるんですよ。昔』


氷雨の指が、止まった。


『……冗談は、やめてください』


『本当です』


大友は、あっさり言った。


『予選で落ちましたけど、あははは』


その言い方が、妙に現実的で、

だからこそ嘘には聞こえなかった。


『格ゲーって、反射神経とか若さとか言われますけど…』


大友は、画面を指さす。


『俺はフレームだと思うんです』


氷雨は、聞き慣れない言葉に、首を傾げた。


『……ふれーむ』


『技が出るまでの時間。硬直。隙の事です』


大友は続ける。


『速い人は、速く見てるんじゃない。

  “終わる瞬間”を知ってるだけです』


『つまり、技を知れば確定反撃を狙って出せるって事です。

もちろん世界ともなればそんなの基本ですから、そこの読み合いになるんですよ、行くべきか待つべきか。』


氷雨の胸が、微かに鳴った。


――それ、知っている。


読み。

待ち。


それは、自分が編み出した唯一の武器だった。


『まあ』


大友は、軽く笑って言った。


『出る気ないなら、関係ない話ですけどね』


その夜、氷雨は眠れなかった。


天井の染みを、久しぶりに数えた。

一つ、二つ。


だが、途中でやめた。


頭の中には、別の文字が浮かんでいた。


「フレーム」


「最速」


「止める」


――出る気はない。


何度も、そう言い聞かせる。


それでも、翌朝、

氷雨は自分でも驚く行動を取っていた。


タブレットを借り、世界大会のホームページ画面を出してもらって、

大会規定を、最初から最後まで読んでいた。


 出る気はない。

 ただ、知りたいだけ。


――どこまでが、無理なのか。


    *


午後、共有スペース。


氷雨は、コントローラーを置き、大友の前に立った。


立った、というより、

体を支えながら、そこにいた。


『……お願いがあります』


大友が、目を丸くする。


『稽古を、つけてください』


一瞬、空気が止まった。


『世界大会に出る気は、ありません』


氷雨は、すぐに続けた。


『ただ……負けを、人生の負けを返したいだけです、

  そのためには知ることがたくさんあると思いまして』


大友は、しばらく黙っていた。

そして、静かに言った。


『なら、覚悟してください氷雨さん』


聞いていた職員たちが声をかける。


『氷雨さん、大友は世界を見て来たから厳しいぞ!はっはっは』

『氷雨さんがんばって!』

『大友やっつけちゃえ!』


自分にこんなにも応援してくれる職員が居ると気づいた。


大友はコントローラーを、氷雨の手に戻す。


『言ったように、格闘ゲームは、フレームです』


画面に、トレーニングモードが映る。


『相手の大技。

  あれ、見た目は派手ですけど』


キャラクターが、大振りの技を出す。


『見た目は派手ですけど、隙だらけなんです』


大友は、指示した。


『最速フレームのパンチで、止めて下さい』


氷雨は、目を凝らした。


派手な動き、当たったら大ダメージなのは知っている。


 だが、その奥に――

 一瞬、止まる時間がある。


『今です』


氷雨は、震える指でボタンを押した。


 遅い。

 当たらない。


 失敗。


『もう一回』


 失敗。


『……違います』


大友の声は、厳しかった。


『“終わる瞬間”を待つんです』


何度も、何度も。


 失敗。

 失敗。

 失敗。


だが、ある一瞬。


相手の大技が――止まった。


最速フレームの地味なパンチが、

派手な技を潰した。


氷雨の呼吸が、止まる。


『……今のです』


『大技は喰らったらデカいので、ついガードしちゃいますけど、ガードするとこっちが硬直して、向こうが早く動けるんです。ガードせず、かわす事で100%確定反撃が入ります。まぁ、おいおいやっていきましょう。』


大友は、静かに言った。


氷雨の胸の奥で、

長い間、眠っていた感情が、はっきりと動いた。


 勝ちたい、ではない。

 生きたい、でもない。


――返した。


その確信だけが、

夜桜氷雨を、次の一日へ引きずり出していた。

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