第5話 揺れる思い
外出許可が出たのは、月に一度の通院の日だった。
職員に付き添われ、施設の車に乗り込む。
窓の外の景色は、ガラス越しに見るだけでどこか現実感がなかった。
――外は動いている、誰かが消えてもその穴は直ぐに埋められ、最初から誰も消えて居ないかのように当たり前に動く。社会も人生も同じ、ロケット鉛筆と同じだ、抜けても代わりが居る。
それだけで、少し心が疲れた。
病院の帰り、車は信号で止まった。
交差点の角に、ゲームセンターがあった。
色褪せた看板。
派手なネオン。
若者の笑い声。
氷雨は、何気なく視線を向ける
――そこで、見てしまった。
ガラス扉の横に貼られた、一枚の大きなポスター。
鮮やかな色。
殴り合うキャラクターたち。
中央に、大きな文字。
《WORLD FIGHTING GAME CHAMPIONSHIP》
その下に、日本語でこう書かれていた。
《世界大会 予選開催》
胸の奥が、冷たくなった。
『……世界、ですって』
自分の声が、やけに遠く聞こえた。
職員が気づき、ちらりと外を見る。
『ああ、格ゲーの大会ですね。最近多いみたいですよ、eスポーツとか言って、みんな真剣にゲームで戦うんですよ、昔はゲームばかりしてないで勉強しなさいなんてよく言われましたけど、世の中も変わりましたね』
氷雨は、すぐに視線を逸らした。
――馬鹿馬鹿しい。
世界?
大会?
そんな言葉は、自分とは何の関係もない。
九十歳。
施設暮らし。
家族に
夢も希望もない、終活の途中の人間だ。
なんなら早い死神の迎えを望んでいる。
『……冗談じゃないわ』
誰に向けた言葉でもなかった。
世界大会。
それは若い者の場所だ。
才能のある者の舞台だ。
こんな年寄りが立てる舞台じゃない。
自分は、負けを返したいだけ。
ゲームで勝てば、少し返した気持ちになれるってだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
車が走り出す。
ポスターは、すぐに視界から消えた。
――消えたはずだった。
*
その夜、氷雨は眠れなかった。
天井の染みが、やけにくっきりと見える。
目を閉じても、昼間のポスターが浮かぶ。
「世界大会」
その言葉が、頭の中で反響する。
――違う。
――私は、そこへ行くつもりなんてない。
何度もそう言い聞かせる。
だが、否定するたびに、
なぜか胸の奥がざわついた。
共有スペースでのあの空気。
誰かに見られながらレバーを握る感覚。
一発返したときの、あの静かな熱。
それだけで良かった。
――でも…もし。
考えた瞬間、強く首を振った。
――違う。
目立ちたいわけじゃない。
誰かを見返したいわけでもない。
ただ、負けたまま終わりたくないだけ。
一度負けて死を選んだくせに、都合が良いとは思うけど。
それなのに。
「世界大会」という言葉は、
負けを返せる場所として頭から離れなかった。
*
翌日、共有スペース。
氷雨はいつも通りコントローラーを握った。
だが、集中できない。
一発が遅れる。
待ちが甘い。
負けた。
珍しく、二連敗だった。
隅の椅子に座る、あの無口な老人が、ちらりとこちらを見る。
『……今日は、読みが浅いな』
氷雨は、苦く笑った。
『……余計なものを、見てしまって』
老人は、それ以上聞かなかった。
少し間を置いて、ぽつりと言う。
『世界大会…』
氷雨の指が、止まった。
『……なぜ』
『昨日、職員が話してた』
それだけだった。
沈黙。
画面では、次のラウンドが始まっている。
老人が、続ける。
『行きたいんだろ』
即答だった。
『行きません』
声は、はっきりしていた。
拒絶。
『あんな場所、私には関係ない』
老人は、何も言わない。
ただ、画面を見る。
氷雨は、キャラクターを動かしながら続けた。
『私は……勝ちたいわけじゃないんです』
攻撃をガードする。
一拍、待つ。
『ただ……負けを、そのままにしたくないだけ』
隙。
小さな一撃。
当たった。
相手の体力ゲージがわずかに減る。
その瞬間、氷雨は気づいてしまった。
――世界大会なら。
――負けを、もっと大きく返せるんじゃないかと。
その考えが浮かんだこと自体が、
死神への何よりの裏切りだった。
老人が、低く言った。
『……それは、どの舞台だって同じだ、勝たなきゃ返せねぇよ』
氷雨は、何も言えなかった。
世界大会を目指す、とは思わない。
今も思っていない。
だが。
否定しきれない何かが、
確かに胸の奥で動いていた。
それは、夢ではない。
希望でもない。
――もしかしてという微かな希望と薄い期待。
夜桜氷雨、九十歳。
世界は遥かに遠い。
だが、完全に背を向けることもできなくなっていた。
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