妃候補のふりをして入宮したら、皇帝陛下の“裏の護衛”になりました。
酸菜
第1話江南の選妃
江南(こうなん)の春は、フィルターでもかかったみたいに綺麗だった。
薄い霧。きらめく水面。
柳はやわらかく揺れて、今にも心に触れそうに枝を垂らす。
臨安(りんあん)の運河沿いには新しい提灯がずらりと並び、赤い光が賑やかに揺れていた。石畳まで磨かれたみたいに見える。
今日、町の話題はひとつ。
――陛下が江南へ、“妃選び”に来る。
茶楼では扇がパン、と鳴った。語り手が声を張り上げる。
「行昭帝(こうしょうてい)の選妃だ! 江南の娘たち、誰が一気に天まで駆け上がる――」
客席がどっと笑う。
「天? 陛下は毎晩“豹苑(ひょうえん)”だろ。あそこ、美人だけで一座できるってさ」
「おい、声がでかい」
隣が慌てて囁いた。
「いまは朝廷の“あの連中”が幅を利かせてる。余計なこと言うな。明日、豹苑どころじゃない。家の戸を叩かれるぞ」
“あの連中”――誰のことか、皆わかっている。
ここ数年、派閥がじわじわ根を伸ばした。
塩の流通。織物の役所。米の運送。金の流れ。
見えない網が、朝廷と江南をきつく結んでいる。
皇帝は一番高い場所に座っているはずなのに。
その網の中心に、閉じ込められているみたいだった。
しかもその網は、必ずしも皇帝の言うことを聞かない。
楊妙妙(よう・みょうみょう)は、茶楼の軒下で豆花(とうふぁ)を手にしていた。
中へ押し入って噂話を拾うことはしない。
「ちょうど聞こえる距離」に立つ。
――面倒を避ける猫みたいに。
十六歳。澄んだ眉目、白い肌。
目立つタイプじゃない。雨上がりの白壁みたいに、清潔で、飽きが来ない。
けれど、奪わない。
服装も賢い。淡い青の上着に、素色の長いスカート。耳元の小さな銀。香袋も控えめ。
出る杭は打たれる。
妙妙は杭にならない。
豆花を一口すくい、甘さに合わせて笑ってみせる。
いかにも“ただの見物人”みたいに。
――でも、目は笑っていない。
豹苑。
昏君。
選妃。
派閥。
他人にとっては噂でも、彼女にとっては道標だった。
妙妙は宮に入るつもりだ。
妃になるためじゃない。
彼女が入りたいのは――
あの網の“中心”だ。
⸻
城南の水榭(すいしゃ:水辺の楼閣)には、臨時の行宮(あんぐう)が建てられていた。
選妃が始まった瞬間、町は一斉に“祭りモード”になる。
織物屋は一番鮮やかな反物を吊るし、香屋は高価な香を風に乗せる。
飴細工の屋台まで型を新しくし、龍と鳳凰が陽に照らされて眩しい。
人が溢れ、娘たちは団扇で口元を隠して囁き合う。
「私の叔母は織造局で……」
「うちは塩運の役所に……」
妙妙はその中に混じる。水滴が川に溶けるみたいに。
前に出すぎない。最後尾にも行かない。
真ん中が一番安全だ。
目を合わせない。怯えたふりもしない。
ただ、“ちょうどいい普通”でいる。
普通なら、狙われにくい。
狙われなければ――生きて宮へ入れる。
目立つ者は死にやすい。
生き残った者だけが、扉をくぐれる。
⸻
夕刻、儀仗(ぎじょう)の列が入城した。
太鼓が先に響く。心臓の鼓動みたいに重い。
鎧が擦れる小さな音。馬蹄が石畳を打つ乾いた音。
群衆は自然と道を開けた。
皇帝が姿を現した瞬間、臨安は一拍だけ静まる。
周曜衡(しゅう・ようこう)――行昭帝。十八歳。
噂より若く、噂より“ちゃんとして”見えた。
背筋はまっすぐ。目元は鋭いのに、口元だけ笑いが乗る。
その笑いは少し悪い。
わざと軽薄を纏っているみたいで――なのに、やけに似合っていた。
誰かが花を投げた。
彼は受け止め、指先で少しだけ止める。
まるで騒ぎごとまで掌に収めたみたいに。
「慌てるな」
彼は笑った。
「朕は、ちゃんと見えている」
軽い口調なのに、群衆がなぜか半拍、静かになる。
妙妙は一瞬だけ見て、すぐ視線を落とした。
長く見れば、隙になる。
――でも、その瞬間。
視線を感じた。
軽い。短い。
羽が撫でたみたいなのに、針みたいに正確。
妙妙の指先が、わずかに強張り、次の瞬間にはほどけた。
見られたなら、見られたでいい。
彼女は透明になりたいわけじゃない。
“覚えられにくい存在”になりたいだけだ。
⸻
夜、水榭で宴が開かれた。
宴というより“披露”だ。江南の富と香り、そして“わきまえ”。
回廊には無数の灯が吊られ、光が水面で砕けて金の欠片になる。
音楽は柔らかい。酒は甘い。風にさえ桂花のねっとりした香りが混じった。
妙妙は側で茶を給仕する役に回された。
おかしい。
本来、候補の娘がこんな近くに立つはずがない。
――おかしい場所には、答えがある。
周曜衡は主座でだらりと寄りかかっている。聴いているようで、聴いていない。
誰かが薄い杯の酒を差し出した。
「陛下、江南の桂花酒でございます。疲れが取れます」
周曜衡は受け取り、何でもない顔で笑う。
「疲れが取れる? 江南は俺が元気すぎると困るのか?」
周囲が一斉に媚び笑いを浮かべた。
その中で、妙妙は“あってはいけない匂い”を嗅いだ。
甘い桂花の底に、細い辛さ。
冷たく硬い、草木の粉みたいな――。
妙妙の胸に浮かぶ言葉はひとつ。
(殺しに来たんじゃない)
本気で皇帝を殺すなら、こんな場所は選ばない。
狙いは――皇帝を“乱す”こと。
乱して、押すべきでない印を押させる。
書くべきでない文に署名させる。
周曜衡が杯を上げ、口に運ぼうとした、その瞬間。
妙妙は一歩前へ出た。
裾が引っかかったように見せて、盆を傾ける。
――しゃっ。
杯が倒れ、酒が周曜衡の袖を濡らした。
場が凍る。
(終わった)
誰かの顔が青ざめる。
だが周曜衡は怒らなかった。濡れた袖を見下ろし、妙妙を見る。
笑みが、むしろ深くなる。
「名は?」
妙妙は即座に膝をつく。声は柔らかい。
「楊妙妙でございます。不手際により御身を汚し、罰は甘んじて受けます」
「不手際?」
彼はゆっくり繰り返す。
「不手際の者が、俺が杯を上げた“その瞬間”に、そんな都合よく転ぶか?」
冗談みたいな口調。だが中に針がある。――試されている。
妙妙は顔を上げない。
「陛下が急に飲まれ、御身を害するのが恐ろしかったのです」
横から冷笑が入る。
「候補風情が、陛下の飲み方に口を出すのか?」
周曜衡はその男に視線を向けた。
「彼女が口を出すのは駄目で、お前はいいのか?」
男は言葉を失った。
周曜衡は濡れた袖を軽く払う。
「酒を替えろ。今夜の俺は心が広い。殺さねぇ」
その“心が広い”が、なぜか脅しに聞こえた。
侍従が慌てて新しい杯を用意する。
妙妙の鼻先に、さっきと同じ辛さがかすかに届いた。
薄く、さらに隠されて。
(用意は一杯じゃない)
妙妙は香炉に視線を走らせる。
檀香が濃すぎる。濃い煙が、柔らかな網みたいに絡みつく。
彼女は袖の中で小さな丸薬を砕き、香灰にそっと落とした。
熱でほどける。匂いは淡い。
それでも“網”を少しだけ緩めるには足りる。
次の瞬間、周曜衡の呼吸がわずかに整った。
その時、一人の大臣が文書を捧げ持ち、甘い声で迫る。
「陛下、織造と塩運の報告でございます。御印をいただければ、明日には――」
周曜衡が茶盞を持つ手が、ほんの一瞬止まった。
笑いはそのまま。だが目の奥に影が走る。
――まだ効いている。
酒ではない。香か。あるいは茶か。
彼らが欲しいのは、皇帝の命じゃない。
皇帝の“手”だ。
紙の上に落ちる印。
⸻
水榭の奥、屏風の陰がふっと揺れた。
影が飛び出してくる。
刀ではない。細い鞭だ。
鞭先が周曜衡の肩を狙う。
角度はえげつないが、力は抑えてある。
致命傷にはならない。
ただ、痛みで理性を崩すには十分。
欲しいのは――失控。
妙妙が一歩、割り込んだ。
――ぱんっ!
鞭が彼女の腕を裂き、袖が一筋破れる。
だが妙妙は引かない。むしろ力を借りて鞭を滑らせる。
次の瞬間、銀針がきらりと光った。
相手の手首の内側へ。
刺客が息を呑む。鞭が落ちた。
妙妙は膝裏を蹴って相手を跪かせ、卓の脇の布を一振りする。
布が相手の顔を覆う。暴れる獣に布をかけるみたいに。
外から見れば、舞い手がよろけた程度にしか見えない。
周曜衡は妙妙の背後で、のんびりした声で言った。
「江南の曲は賑やかだな。無作法な“舞い手”は連れていけ」
衛兵が駆け込み、刺客を押さえる。
酒を運んだ侍従が青ざめて下がろうとしたが、周曜衡が扇で軽く指した。
「お前もだ。今夜の俺は心が広い。殺さねぇ。まず閉じ込めろ」
文書を持つ大臣が口を開こうとした。
周曜衡は見もしない。
「文書は置け。今夜は曲を聴きたい。説教はいらねぇ」
一言で、場が沈黙した。
音楽は再び流れた。
だがそれは、紙で作った音みたいに薄かった。
誰もが知っている。
さっきの一瞬で、“宴”はもう宴じゃない。
⸻
周曜衡が妙妙を見た。
その目は“候補の娘”を見る目じゃない。
――拾ってしまった刃を見る目だ。
「俺を救ったな」
彼はゆっくり言う。
妙妙は伏目のまま。
「私はただ、御身が驚かれて、無辜の者が巻き添えになるのが怖かっただけです」
「無辜?」
周曜衡が小さく繰り返し、口角を上げる。
「お前の言い方は、“朝廷を信じていない奴”のそれだ」
妙妙の心臓が一拍だけ速くなる。
(知っている? それとも試すだけ?)
妙妙は答えない。爪を隠し、感情を押し込める。
周曜衡は突然、笑った。
「奇遇だな。俺も、あまり信じていない」
そして、軽く手を上げる。
「詔を」
侍従が震えながら進み出る。
周曜衡は皆の前で告げた。
「楊妙妙――採用。俺の妃候補とする」
水榭に、時間が止まったみたいな沈黙が落ちた。
怒りの目。計算の目。瞬きひとつで理解する目。
目立たない娘が、一番危険な場所へ持ち上げられた。
妃候補の名は、金の冠。
そして――的。
妙妙は頭を垂れ、謝恩した。
心は不思議なくらい静かだった。
的でいい。
的になれば、人が来る。
懐柔しようとする者。脅す者。探る者。刺す者。
来る者が多いほど、彼女が探す道ははっきりする。
⸻
宴が終わり、回廊の灯は昼みたいに明るい。
周曜衡が妙妙の横を通り過ぎた。足音は軽い。
独り言みたいに言う。
「明日、入宮だ。浮かれるなよ」
妙妙は初めて、真正面から彼を見た。
少年皇帝の目には笑いがある。江面の金片みたいに明るい。
けれど、その下には暗い潮が潜む。
彼は声を落とした。妙妙にしか届かない距離で。
「お前の腕は、後宮に置くには惜しい」
妙妙の指先が、ほんの少し固くなる。
周曜衡の口調は相変わらず軽い。からかいとも、試しともつかない。
「名分はやる。厄介ごともやる。
この船に乗る度胸があるなら――行き先に文句を言うな」
妙妙は彼を見て、ふっと笑った。
浅い笑み。猫が牙を少しだけ覗かせるみたいに。
「陛下。船は怖くありません。
怖いのは――船の上で、私を魚扱いする人です」
周曜衡が一瞬だけ目を丸くし、すぐに声を立てて笑った。
「いいな」
そして風みたいに軽く言う。
「なら、お前は魚でいい。俺が釣り針になる」
彼は背を向けて去っていく。衣の裾が灯影を掠め、墨の一筆みたいに消えた。
妙妙は立ち尽くし、遠くで岸を打つ水音を聞いた。
胸の中で、扉がゆっくり開いていく。
宮に入った。
彼女は倒す機会に近づいたつもりだった。
けれど、どこかで感じている。
自分は今――
別の誰かが描いた物語の中へ、踏み込んでしまったのだと。
この物語の危険は、刀でも毒でも鞭でもない。
――誰かを、信じたくなった瞬間。
妃候補のふりをして入宮したら、皇帝陛下の“裏の護衛”になりました。 酸菜 @SANSAI0315
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