第3話 単独の影、涼眞
2026年7月16日、日付が変わったばかりの深夜。上野駅から高架沿いに歩いたガード下は、昼の賑わいが嘘みたいに空いていた。車の音が遠くで渦を巻き、柱の落書きだけが街灯に照らされている。吐いた息は白くならないのに、胸の奥だけが妙に冷えた。
涼眞は一人で柱の影を踏まないように歩く。靴底が水たまりを薄く切り、ぴちゃ、と小さく鳴った。スマホの地図は見ない。目の前の空気が、少しだけ灰色に濁っている――そう感じたほうへ曲がる。それが、今夜ここに来た理由だった。
「……ほんとにあるんだな」
つぶやきは、誰にも返されない。けれど返事がないほうが、涼眞は少し笑える。怖いなら帰る、で終わる。怖いのに進むなら、面白いからだ。面白い、という言い訳がある限り、足は止まらない。
ガード下の奥、飲み屋の裏手に、古い自販機が一台だけ光っていた。売り切れの札が並び、唯一残っている缶の色だけがやけに薄い。涼眞が近づくと、影が一段濃くなった。
自販機の横に、背の高い男が立っていた。帽子を深く被り、腕に黒い布のバッグを抱えている。バッグの口から、角張った箱の輪郭が覗いた。箱の表面は、光を弾かない灰色だ。
涼眞の喉が、反射で鳴る。
「それ、何ですか」
男は振り向かない。代わりに、肩だけが少し揺れた。笑ったのか、ため息なのか分からない。
「見えちゃったか。坊や、夜更かしは肌に悪いぜ」
涼眞は一歩踏み出した。そこで、足元の影が、ぬるりと伸びる感覚があった。自分の影じゃない。男の足元から伸びた影が、床のひび割れに沿って、涼眞の足首へ絡もうとしている。
「あ」
気づいた時には遅い。影が触れたところだけ、皮膚の感覚が薄くなる。涼眞は反射で足を引いたが、ふくらはぎが痺れて、力が抜けた。膝が落ち、コンクリートに手をつく。
男がようやく振り向いた。帽子の影で目は見えない。けれど、口元だけが、だらしなく上がっている。
「触ったら、色が抜ける。抜けたら、動けない。簡単だろ?」
男がバッグを抱え直し、涼眞の頭上をまたいで歩こうとする。涼眞は悔しくて、手を伸ばした。指先が空を掴み、掴んだはずの夜気がさらさらとこぼれる。
「待て……!」
声は出たのに、身体が追いつかない。足の痺れが腰へ広がり、笑いそうになる。こんなの、好奇心の罰金が高すぎる。
その時、背後から細い声が割り込んだ。
「ちょっと。夜更かしは肌に悪いって言うなら、あなたの帽子の中、先に心配したら?」
涼眞が振り向くと、路地の入口に二人の影があった。ひとりは小柄な女で、紙袋をぶら下げている。もうひとりは男で、胸ポケットに小さな箱――あの時、秋葉原で見た装置を差していた。
「……あの装置の人」
涼眞が息を吐く。遥希は涼眞を見て、眉をひそめた。助けるかどうか迷っている目じゃない。状況を読み直している目だ。遥希の隣で、しおりが紙袋を軽く振った。
「辛いの、買ってきた。夜食。ついでに、帽子男をひっくり返す用」
「用……?」
遥希が止める間もなく、しおりは袋の口を開け、赤い香りを夜へ放った。辛いチップスの粉が、ふわりと舞う。男が鼻を押さえる。
「っ、なんだそれ……!」
「嗅いだら泣くやつ。私、泣くのは苦手だから、あなたが泣いて」
しおりが笑う。その笑い方は軽いのに、足は半歩も引かない。涼眞はその横顔を見て、妙な安心と、妙な腹立たしさが同時に湧いた。自分は一人で勝手に突っ込んで、今、助けられようとしている。
遥希は胸ポケットから彩度計を抜き、針の震えを確かめた。針は、男の足元の影に向けると沈み、涼眞の足首の痺れに向けると、さらに小さく跳ねた。
「影が……色の波を作ってる」
「波? なにそれ」
涼眞が言うと、遥希は答えながらも視線を外さない。
「人の感情と結びついた“色”が、現象になって出てる。あなたの足、触られた?」
「触られた。動かない」
遥希は短くうなずく。しおりが、涼眞の横にしゃがみ、痺れている足首に指を当てた。触れ方が雑に見えて、力は入っていない。
「ねえ、あなた。名前、言える?」
涼眞は反射で答えた。「涼眞」
「涼眞ね。私は、しおり。そっちは遥希。で、帽子男。あなた、名札ないの? 無いなら“帽子男”でいい?」
男が舌打ちし、影をもう一度伸ばした。今度は遥希の足元へ。遥希は避けない。代わりに、彩度計の針を見たまま、床に小さな赤い瓶を落とした。瓶の中身――唐辛子の粉が、ぱっと散る。
赤い粒が落ちた瞬間、涼眞の鼻がつんと痛む。次の瞬間、路地に、熱が走った。
遥希の胸の奥で生まれた辛さが、赤い揺らぎになって、床の上を線のように灯す。影がその線に触れたところだけ、じゅっと音もなく薄くなる。
「うわ、焦げてるみたい」
しおりが小声で言い、涼眞の足首から手を離した。
「焦げてない。……でも、影が嫌がってる」
遥希は言い切ると、涼眞をちらっと見た。「動けるようになるまで、時間がいる。今、あなたの“色”で止められるなら、止めて」
「俺の……?」
男が笑った。「坊やの色? そんなの、すぐ抜け――」
男が言い終える前に、しおりが口を挟んだ。
「聞いた? 坊やって言われた。悔しくない?」
涼眞は、悔しい。悔しいのに、身体が動かない。その悔しさが、腹の底で熱くなった。今まで、面白いで済ませてきた。面白いで済ませた結果が、これだ。
涼眞は、床を見た。自分の影が、柱の影と混ざり合っている。混ざっているなら、引っ張れる。そう思った瞬間、影が、ひゅっと伸びた。
自分の足元から、黒い線が走る。男の足首に絡みつき、縫い止めるみたいに締まった。男が体勢を崩し、バッグを落とす。箱がコンクリートに当たり、鈍い音がした。
「なっ……!」
男が影をほどこうとする。けれど、涼眞の影はほどけない。悔しさが、指先に食い込むように残っているからだ。
遥希が即座に動いた。彩度計を箱へ向け、針の沈み方を読み取る。しおりが、落ちたバッグの口を押さえ、箱を蹴らないように足を止める。
「触るな」と遥希が短く言った。
「わかってる。私、損するの嫌い」
しおりの声は軽いのに、目は箱から離れない。涼眞は影を維持しながら、息を吐いた。足の痺れが、少しだけ薄れる。まだ立てない。でも、今の自分は、ただ倒れているだけじゃない。
男は歯を剥き、涼眞へ睨みを投げた。
「その影、もらう。使える色だ」
「……やだよ。俺のは、俺のだ」
涼眞が言うと、自分でも驚くほど声が低かった。遥希が小さく息を吸い、彩度計の針を指で押さえた。針の震えが、ほんの少し落ち着く。
「連携できる」
遥希はそう言い、次に、しおりのほうを見た。「赤で影を削って、影で足を縫う。箱は触らず、数値だけ取る」
「了解。あ、涼眞。今の続けて。成功報酬、相談してあげる」
「成功報酬……?」
涼眞が言うと、しおりは肩をすくめた。「だって、危ないことしたら、何か返ってこないと。そういうの、嫌いじゃないでしょ?」
涼眞は答えない。答えない代わりに、影をもう一度締めた。男の膝ががくりと落ちる。
その瞬間、箱の表面の灰色が、ほんの一滴だけ薄くなった気がした。遥希の彩度計が、かすかに鳴る。
遥希は言葉を飲み込み、ノートを取り出して走り書きする。失敗を減らすために、今の成功を固定するために。
涼眞はそれを横目で見て、胸の奥の冷えが、少しだけ溶けた気がした。一人で追いかける夜は、確かに面白い。けれど、面白いだけじゃ、守れない。自分の足元も、誰かの色も。
遠くで始発前の清掃車が通り、ガード下に水の匂いが広がった。しおりが紙袋からチップスを一枚取り出し、涼眞の口元へ差し出す。
「食べる? 勝ったら、お祝い。負けたら、涙拭き用」
涼眞は少し迷ってから、口を開けた。舌が痛くなって、思わず笑いそうになる。笑ったら影がほどける気がして、笑わなかった。
遥希の赤い揺らぎが、路地の床に細い道を作る。その道の端で、涼眞の影が、初めて誰かを止めていた。
次の更新予定
激辛レッドと無彩の夜 mynameis愛 @mynameisai
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