第2話 嘘の名刺と灰色の路地
2026年7月14日の夕方。秋葉原駅の電気街口を出た瞬間、遥希は首の後ろがじっとり汗ばむのを感じた。ビルの隙間から吹く風は熱いのに、どこか湿っている。人の波の上を、看板のネオンがざらついた光で滑っていった。
手の中の彩度計は、胸ポケットにしまうとすぐ震え始める。針は、落ち着いているはずの「通常」から、じわりと低い側へ寄っていた。
「はい、これ」
背後から肩を叩かれ、振り向くと、しおりが紙片を二枚、指で挟んで差し出した。どちらも名刺サイズだ。片方は、白い紙に黒い文字だけ。もう片方は、妙に赤が強い。
遥希はまず、白いほうを取った。角がほんの少し丸い。家のプリンターの癖が出ている。
『都 色彩対策 臨時担当 汐里 栞』
「……“都”?」
遥希が眉を上げると、しおりは肩をすくめて笑った。
「“東京都”って全部書くと長いでしょ。ほら、呼びやすいし、信じやすい」
「信じやすいって、僕が?」
「違う違う。路地の大人たちが。案内してくれる確率、上がるから」
遥希は名刺を裏返した。裏は真っ白。電話番号もメールもない。
「連絡先が無い臨時担当は、さすがに……」
「そこは、君が持ってる。ほら、赤いやつ」
しおりはもう一枚、赤が強い名刺を遥希の指に押しつけた。『彩度計 試作機 観測者 遥希』と書いてある。字が少し傾いていて、書いた人の息の癖が見える。
遥希は言い返しかけて、彩度計の針が、急に「下がる」ほうへ跳ねたのを見た。身体の内側が、ひやりと冷える。昨日、神田の厨房で感じた、あの灰色の圧が、また近づいている。
「……来てる」
「でしょ。だから、歩く。早く」
しおりは自分の名刺を胸ポケットに突っ込み、ぐいと先に出た。人混みを避けるように、電気街の裏手へ折れる。表通りの派手な音が一枚壁になって、裏路地は急に静かだった。自販機の青だけが、やけに冷たい。
路地の奥で、段ボールを片づけていた中古パーツ屋の店主が、遥希たちを見るなり顔をしかめた。
「また撮影か? こっちは忙しいんだよ」
しおりは間髪入れず、偽の名刺を差し出した。
「都の色彩対策です。最近、この辺で“色が抜ける”って相談、増えてません?」
店主は名刺としおりの顔を見比べ、口を半開きにしたまま固まった。次に、鼻で笑う。
「……都ねえ。そんな部署、聞いたことねえけど」
遥希は、心臓が一回だけ跳ねるのを感じた。が、しおりは目をそらさない。代わりに、店主の足元へ視線を落とす。
「じゃあ聞きます。あなた、さっき“撮影”って言った。誰か、来たでしょ」
店主は舌打ちして、顎で路地のさらに奥を示した。
「変な学生が、昼からうろついてた。黒いパーカー。壁に紙みたいなの貼って、すぐ消えた。そしたら、蛍光灯が一瞬、死んだ」
遥希の手の中で、彩度計の針が、底へ向かって滑った。鼓動が、耳の内側で重くなる。
「行こう」
遥希が言うより早く、しおりが走り出した。足音が、乾いたアスファルトに短く響く。曲がり角を曲がった先で、空気の色が変わっていた。
そこだけ、世界の彩度が落ちている。
路地の壁に貼られた小さな四角い紙――白でも灰でもない、何かを吸う膜みたいなものが、電線の影の下で薄く揺れていた。近くの看板の赤が、そこへ向かって滲み、薄まっていく。自販機の青も、喉を詰まらせたみたいに沈んでいく。
そして、しゃがみ込んでいる少年がいた。制服のズボンに、リュック。中学生くらい。手にはスマホ。画面を見つめているのに、指が止まっている。目だけが、助けを探して泳いでいる。
「……ここ、どこだっけ」
少年の声は乾いていた。言葉の端が、剥がれた紙みたいに軽い。
しおりがしゃがみ込み、肩に触れようとして手を止めた。触れた瞬間に、何かを持っていかれると、本能が告げたのだろう。
遥希は彩度計を掲げ、紙の膜に近づけた。針は底で震え、音もなく悲鳴を上げる。膜の中心は、冷たい。冷たさが、皮膚の下に入ってくる。思考が、薄くなる。
「まず、出そう。少年を、こっちへ」
遥希が言うと、しおりが少年の前に手のひらを出した。
「手、貸して。歩ける? 名前、言える?」
少年は口を開いたが、音が出ない。眉が困った形になる。自分のことが、思い出せない顔だ。
遥希は息を吸い、ポケットを探った。昨日、しおりに渡すために持ち歩いた小瓶がある。唐辛子の粉。蓋を開けた瞬間、鼻がつんと痛む。
「しおりさん、目、こすらないで」
「今さら心配?」
しおりが笑いかけて、すぐ真顔に戻った。少年の手首を、そっと掴む。力を入れすぎない。逃げ道だけ残して、引っ張る。
遥希は唐辛子の粉を、膜の手前の地面にぱっと撒いた。赤い粒が散り、灰色の空気に飲まれそうになった、その瞬間。
胸の奥が、かっと熱くなった。
赤が、点く。
地面の赤い粒が燃えるわけじゃない。燃えたのは、遥希の中の「辛い」という感覚だ。舌の奥の痛み、喉の熱、胃の底のむず痒い熱。全部が一つになって、目に見える赤い揺らぎとして、路地に滲み出した。
赤い揺らぎが、膜に触れたところで弾けた。灰色が、ぎゅっと縮む。空気が、少しだけ戻る。看板の赤が、逃げるみたいに元の場所へ戻る。
「……効く!」
しおりが叫び、少年の腕を引いた。少年の靴が、膜の範囲から外れた瞬間、彼は大きく息を吸った。目に、色が戻る。
「う、わ……俺、何して……」
遥希は自分の掌を見た。赤い揺らぎが薄れ、指先が少し冷える。舌の感覚が、ほんの少しだけ鈍い。昨日の神田ほどじゃない。だが、確かに「抜けた」部分がある。
しおりが少年に水を渡した。どこから出したのか、コンビニの小さなペットボトル。ラベルの青が、いつもより鮮やかに見える。
「飲んで。……で、君。今日、誰かに声かけられた?」
少年は首を振り、眉間にしわを寄せた。
「なんか……紙、貼ってた人が……目が合った気がする。でも、顔が……」
路地の奥、膜の向こうで、誰かの足音が一つ、消えた。
遥希が反射的に振り向く。だが、見えるのは、灰色の薄い残り香だけ。膜は、さっきより小さい。誰かが遠隔で、引っ込めたみたいに。
しおりが立ち上がり、遥希の隣に並んだ。名刺を指で弾く。
「ねえ、遥希くん。今の、君ひとりじゃ無理だよね」
「……僕は、測る。君は?」
「私は、通す。話を聞き出す。ついでに、儲け筋も拾う」
遥希はため息を吐き、彩度計を握り直した。針はまだ低いが、底ではない。赤が、残っている。
「儲け筋は、後にして」
「後にするよ。後にしたほうが、たぶん高く売れる」
しおりはそう言いながら、少年の肩に手を置き、駅の明るいほうへ導いた。触れた指先は、さっきより少し優しかった。
遥希は最後に一度、路地の壁を見た。灰色の膜があった場所だけ、塗料が薄く剥げている。まるで、色を吸われた傷跡だ。
この街の夜には、誰かが意図して、色を奪う仕掛けを置いている。
それなら、見つけて、止める。直す。昨日と同じように、次の失敗を減らすために。
遥希は、しおりの背中を追った。電気街の音が戻り、ネオンが滲む。だが、胸の内には、灰色の冷たさがまだ残っていた。
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