第4話 政府の対応

午前十時。

大学本館の最上階にある第一会議室前は、張り詰めた糸のような異様な緊張感に満ちていた。

普段であれば、研究費の審査委員会や定例の教授会が行われるだけの、アカデミックで無機質な空間だ。廊下の壁には歴代学長の肖像画が飾られ、静謐な空気が流れているはずだった。額縁に収められた学長たちの顔は、威厳に満ちているが、どこか遠い過去のものだった。彼らの時代には、このような異常事態は起きなかったのだろう。

だが今日は、明らかに空気が違った。

廊下に立った瞬間から、その違いは明白だった。普段の静けさとは質の異なる、緊迫した沈黙。それは、何か重大なことが起ころうとしている前兆だった。

重厚な木製のドアの両脇には、黒いスーツに身を包んだ職員が二人、彫像のように直立している。記者でもなければ、学生でもない。その佇まいは、訓練された軍人のようだった。視線は前方に固定され、微動だにしない。明らかに"外部"の、それも権力の中枢に近い場所から来た人間特有の、冷徹で隙のない気配が漂っていた。彼らの存在だけで、この場所が通常の大学施設ではなくなっていることを物語っていた。

洋子と浩は、学科長に急遽呼び出され、この会議室前の長椅子で待機していた。

その椅子は、硬く冷たかった。座り心地の悪さが、余計に緊張を高めていた。二人とも、背筋を伸ばして座っている。だが、その姿勢は緊張からくるもので、自然なものではなかった。

「……浩くん。ほんとに、政府の人が来るの?」

洋子が小声で囁く。その声は、わずかに震えていた。膝の上に置かれたその手は、白くなるほど強く互いを握りしめていた。指が食い込み、痛いはずだった。だが、その痛みが、かろうじて現実感を保たせていた。

「ああ。間違いないよ。昨日、村上さんが言ってた"文科省の特別班"……いや、もっと上の組織かもしれない」

浩もまた、平静を装うのに必死だった。スーツの膝に置いた掌は、嫌な汗で湿っている。このスーツは、普段は着ない。学会発表のときぐらいしか袖を通さない。だが、今日は違う。正式な場だ。拒否できない場だ。

浩は、昨夜ほとんど眠れなかった。目を閉じても、様々な想像が頭を駆け巡る。政府が動く。それは、事態が想像を超えているということだ。自分たちは、何を求められるのか。協力とは、具体的に何をすることなのか。

窓の外では、今日も変わらず灰色の空から雪が舞っているというのに、廊下の空調は喉が張り付くほど乾ききっていた。吸い込む空気が、微細な棘となって肺に刺さるようだ。咳をしたい衝動に駆られたが、この静寂の中でそれは憚られた。

時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえた。一秒、一秒が、長く感じられる。待つという行為が、これほど苦痛だとは思わなかった。

廊下の先から、足音が聞こえた。だが、それは会議室には向かわず、別の方向へと消えていった。二人は、その足音が消えるまで、息を詰めて聞いていた。

洋子は、横目で黒スーツの男たちを見た。彼らは、まったく動かない。まばたきすらしていないように見える。人間なのか、と疑いたくなるほどだった。

カチャリ、と金属的な音がして、会議室のドアが内側から静かに開いた。

その音は、予想外に大きく響いた。静寂を破る音。運命が動き出す音。

先ほどの黒スーツの男の一人が、無表情のまま一歩踏み出し、低く抑揚のない声で告げた。

「気象学研究室の大学院生、村上ゼミのお二人ですね。どうぞ、こちらへ」

拒否権のない、業務的な響き。それは命令だった。丁寧な言葉遣いだが、断ることは許されない。そのことは、声のトーンから明白だった。

二人は顔を見合わせ、無言で頷くと、ゆっくりと立ち上がった。

立ち上がる瞬間、洋子の足が少しふらついた。浩が、さりげなく彼女の腕を支える。その手の温もりが、わずかに洋子を落ち着かせた。

足を踏み入れた会議室は、広々としている分、余計に寒々しかった。

天井は高く、窓は大きい。だが、その広さが、かえって孤独感を増幅させていた。この広い空間に、少数の人間だけが集まっている。その光景は、異様だった。

長大な楕円形のテーブルの奥には、学長、理学部長、そして二人の所属する気象学科長が並んで座っていた。普段は威厳ある彼らが、今日ばかりはどこか肩身が狭そうに、あるいは畏怖するように体を硬くしている。学長の顔は蒼白で、理学部長は視線を落としている。気象学科長だけが、わずかに二人の方を見て、小さく頷いた。励ましの合図だろうか。

そして、彼らの対面に、見慣れない四名の男女が陣取っていた。

全員が濃紺やチャコールグレーのスーツを着こなし、手元には紙の資料ではなく、薄型のタブレット端末だけが整然と置かれている。その光景だけで、ここが大学の自治が及ばない"緊急事態"の場であることがむき出しになっていた。大学という学問の場が、権力によって侵食されている。その現実が、この配置に凝縮されていた。

四人の顔は、それぞれ異なる。だが、共通しているのは、その冷徹な表情だった。感情を排した、機能的な顔。彼らは、ここに個人として来ているのではない。組織の代表として来ているのだ。

「席にどうぞ」

学長が疲れ切った声で促し、二人は末席にあるパイプ椅子に向かい合うようにして座った。

そのパイプ椅子は、他の椅子とは明らかに格が違った。安物で、座り心地が悪い。まるで、立場の違いを物理的に示しているかのようだった。

浩は、椅子に座りながら、部屋全体を観察した。窓の外には、雪が降り続けている。その白さが、妙に眩しく感じられた。

官僚たちの中央に座っていた一人の女性が、ゆっくりと視線を上げた。四十代半ばだろうか。ショートカットの髪に、銀縁の眼鏡。その瞳は理知的だが、感情を一切読み取らせない冷たさを湛えている。彼女の顔は整っているが、美しいというよりも、鋭いという印象だった。

「内閣危機管理監付・特別監察班の岸本と申します」

彼女の声は静かだったが、部屋の隅々まで通る明瞭な響きを持っていた。その声には、訓練された強さがあった。指揮官の声だ。

内閣危機管理監付。その肩書きだけで、事態の深刻さが伝わってくる。これは、国家的な危機なのだ。

「本日、急遽お越しいただいたのは、すでにお二人がニュースなどで耳にしているであろう、一連の"行方不明事件"についてです。本学の研究データの提供を含め、皆さんの協力を正式に要請するために参りました」

その言い回しは極めて丁寧だった。だが、言葉の端々に含まれる圧力、空気の密度は、ただならぬものがあった。「要請」という言葉を使っているが、それは実質的には「命令」だった。断る選択肢は、最初から用意されていない。

岸本は手元のタブレットを指先で弾き、淡々と続けた。その動作は、無駄がなく、洗練されていた。

「まず、結論から申し上げます。現在、全国規模で"記憶の欠落を伴う行方不明者"が急激な増加傾向にあります」

その言葉が、部屋の空気を一変させた。

彼女は言葉を区切るように、二人を見据えた。その視線は、鋭く、探るようだった。まるで、二人の反応を観察しているかのように。

「家族、友人、同僚、恋人……本来ならその人物を最もよく知るはずの複数の証言者が、一様に口を揃えて"その人物を知らない""最初からいなかった"と証言する事例が、各地で相次いでいるのです」


洋子は息を呑んだ。隣で浩の喉がひきつる音が聞こえた。

その音は、小さかったが、この静寂の中ではよく響いた。浩もまた、動揺している。科学者として冷静であろうとしているが、この現実は、理性を超えていた。

それは、昨日まで彼らが村上から聞き、研究室で怯えていた"噂"そのものだ。

だが、それは噂ではなかった。事実だった。政府が公式に認めている事実。その重みが、二人の肩にのしかかってくる。

洋子の手が、さらに強く握りしめられた。爪が掌に食い込む。だが、その痛みが、かろうじて現実との接点を保っていた。

「政府としては、もはやこれを単なる失踪事件や家出の類として扱うことは不可能と判断しました」

岸本の声は、変わらず冷静だった。感情を排した、事務的な口調。だが、その言葉の意味は重い。政府が、この現象を公式に認めたということだ。

岸本は手元の操作で、部屋の前方にあるスクリーンに映像を投影した。

プロジェクターの光が、暗い部屋を照らす。その光の中に、映像が浮かび上がった。

映し出されたのは、どこにでもあるアパートのエントランス防犯カメラの映像だった。日付は三日前。

画質は粗いが、十分に見える。時刻は夜の八時過ぎ。グレーのパーカーを着て、コンビニの袋を提げた青年が、自動ドアを抜けていく。多少うつむき加減だが、確かにそこに質量を持って存在している。歩き方は普通だ。特に異常なところはない。ごく普通の、日常的な光景。

だが、その「普通さ」が、かえって不気味だった。この青年は、この後、消えるのだ。

映像が切り替わる。今度は、警察による聞き取り調査の録画映像だ。

場所は、警察署の取調室だろう。質素な部屋。テーブルと椅子だけがある。映っているのは、おそらくその青年の両親と思われる中年の夫婦。だが、その表情には、息子を心配する焦燥感や悲壮感がまるでなかった。あるのは、純粋な困惑だけ。まるで、何か理解できないことを説明されているかのような表情。

画面の右下には、警察官の声が録音されていた。

『先ほどお見せした防犯カメラの映像ですが、この方に見覚えはありませんか』

父親は、画面を食い入るように見つめていた。だが、その目には、認識の光がない。

『刑事さん、すみません……何度も言いますが、この映像の方、知りません』

父親が申し訳なさそうに言い、母親も不思議そうに首をかしげる。その仕草は、演技には見えなかった。本当に、心から、わからないという表情だった。

『うちはずっと二人暮らしです。息子なんて、いたことはありませんよ』

母親の声は、穏やかだった。そこには、嘘をついている緊張も、隠し事をしている焦りもない。ただ、事実を述べているだけの声。

会議室の空気が、鉛のように重く沈んでいく。

スクリーンの中の夫婦は嘘をついているようには見えなかった。演技でもない。彼らは"心から"、息子の存在を認知していないのだ。記憶が、完全に書き換わっている。あるいは、削除されている。

洋子は、その映像を見ながら、胸が締め付けられるような思いだった。もし、自分が消えたら。自分の両親も、こんな顔をするのだろうか。娘がいたことを、完全に忘れて。

浩は、拳を握りしめていた。これは、あまりにも残酷だった。存在を消されるだけでなく、記憶からも消される。それは、二重の死だった。

「我々は、この現象を"消失現象(Disappearance Phenomenon)"と呼称しています」

岸本は表情一つ変えずに告げた。その声は、学術的な発表のように冷静だった。だが、その内容は、科学の常識を超えている。

「正式に報告されているものだけで、すでに全国で百二十六件。予兆と思われる事例を含めれば、その三倍に上ります。特に、北日本および日本海側の降雪地域での発生頻度が、統計的に突出して高い」

百二十六件。

その数字が、部屋に重くのしかかった。百二十六人。百二十六の人生。それらすべてが、消えた。そして、誰も覚えていない。

浩は、その数字を頭の中で反芻した。正式に報告されているだけで百二十六。実際には、その三倍。つまり、四百人近く。それは、もはや局地的な現象ではない。全国規模の災害だ。

北日本。

日本海側。

その単語を聞いた瞬間、浩は無意識に横のブラインドの隙間へ視線を走らせた。

ブラインドの隙間から、外の景色が見える。ここから見える景色。雪に包まれた、自分たちの住む町。

ここも、該当する。北日本。日本海側。降雪地域。すべての条件が揃っている。

ということは、ここでも起きる可能性が高い。いや、すでに起きている。佐伯という学生が、消えた。

岸本はさらに言葉を続ける。

その声は、変わらず淡々としていた。だが、その内容は、核心に迫っていた。

「ここからが本題です。我々の分析班が、消失が起きた日時と場所の気象データを解析したところ、極めて高い相関性が確認されました。消失発生時には、ある特定の気温・湿度・気圧、そして何より――特殊な『降雪パターン』が観測されているのです」

その言葉を聞いた瞬間、浩の背筋に冷たいものが走った。

降雪パターン。

それは、自分たちが研究している対象だ。雪の結晶。その構造。その形成過程。すべてが、気象条件によって決まる。

もし、消失現象と降雪パターンに相関があるなら。

それは、雪そのものが、何らかの媒介になっているということだ。

洋子も、その意味を理解した。彼女の顔が、さらに蒼白になる。

自分たちが美しいと思っていた雪。その結晶構造を研究していた雪。それが、人を消す原因だとしたら。

岸本は、二人の反応を冷静に観察していた。その目は、評価するような目だった。彼らが、この情報をどう受け止めるか。それを見極めようとしている。

学長たちは、黙って聞いていた。彼らもまた、この事実に困惑しているのだろう。だが、何も言えない。権限は、すでに政府に移っている。

部屋の中には、重苦しい沈黙が流れた。

岸本は、タブレットを操作し、次の資料を表示した。そこには、複雑なグラフと数式が並んでいた。気象データの解析結果だろう。

「詳細は、後ほどご説明します。ですが、まず皆さんに理解していただきたいのは、この現象が、単なる超常現象ではなく、何らかの物理法則に基づいている可能性が高いということです」

物理法則。

その言葉が、わずかに希望を与えた。物理法則に基づいているなら、解明できるかもしれない。対策を立てられるかもしれない。

だが、同時に、その恐ろしさも際立った。物理法則であるなら、それは誰にでも起こりうる。条件さえ揃えば、誰でも消える可能性がある。

岸本は、再び二人を見据えた。

「そこで、お二人の研究室に、全面的な協力をお願いしたいのです」

その言葉は、予想されていた。だが、実際に聞くと、その重みが違った。

全面的な協力。

それは、研究データの提供だけではない。もっと深く、関わることになる。

浩は、覚悟を決めた。もう、逃げることはできない。

洋子も、同じことを考えていた。彼女は、浩の方を見た。その目には、不安と決意が混じっていた。

二人は、無言で頷き合った。

やるしかない。

この現象を解明するために。

そして、これ以上、誰も消さないために。


岸本は手元のタブレットを操作し、スクリーンに一枚の複雑なグラフと、顕微鏡写真を映し出した。

その操作は、無駄がなく、流れるようだった。指先がタブレットの画面を軽く滑らせるだけで、映像が切り替わる。プロジェクターの光が、新たな画像を映し出した。

「最後に、最も不可解かつ重要なデータをお見せします」

彼女の声が、少しだけ低くなる。それは、これから示すものが、最も核心的な情報であることを示していた。会議室の空気が、さらに緊張した。

「消失現象が報告される直前、現場周辺では例外なく『強い結晶性降雪』が観測されています。それも、通常の大気状態では考えられないほど急速に成長したものです」

その言葉とともに、スクリーンに映像が映し出される。

スクリーンに映し出されたのは、あまりにも完璧で、鋭利な美しさを持つ雪の結晶だった。

六角板状、六花樹枝状。

浩は、その画像を見た瞬間、息を呑んだ。これは、ただの雪ではない。教科書通りの分類に当てはまる形だが、その枝の分岐は異常なほど緻密で、フラクタル構造が無限に続いているかのような錯覚を覚えさせる。まるで、コンピューターで生成されたCGのように完璧だった。自然が作り出したものとは思えないほどの、幾何学的な完璧さ。

洋子もまた、その画像に釘付けになった。彼女は、無数の雪の結晶を顕微鏡で見てきた。だが、このような結晶は見たことがない。美しいが、不気味だった。

「過冷却水滴が氷晶に取り込まれる速度、そして水蒸気の昇華プロセス……そのすべてが、既存の物理モデルから逸脱したスピードで進行している。まるで何らかの意思が、急いでその形を作ろうとしたかのように」

岸本の言葉は、科学的だったが、その内容は科学の常識を超えていた。「意思」という言葉。それは、擬人化された表現だった。だが、それ以外に説明のしようがない。まるで、雪が自ら形を作ろうとしているかのような、異常な成長速度。

浩は背筋に、氷水を流し込まれたような寒気を覚えた。

気象学を学ぶ者として、その画像の異様さが肌感覚で理解できてしまう。雪の結晶は、大気中の水蒸気が凝結し、成長していく。その過程は、温度、湿度、気圧、すべての条件が絶妙に組み合わさって決まる。だが、この結晶の成長速度は、その常識を超えている。物理法則を無視しているかのようだ。

会議室の中で、浩だけがその異常さを正確に理解していた。そして、その理解が、恐怖を増幅させた。

「まさか……雪の結晶の形成プロセスそのものに、"人の記憶が消える現象"がリンクしていると言うんですか?」

浩の声は、わずかに震えていた。その問いは、自分でも信じたくない仮説だった。だが、口に出さずにはいられなかった。

「断定はできません」

岸本は慎重に言葉を選びながら、浩を真っ直ぐに見据えた。その目は、評価するような目だった。彼が、この仮説の意味を理解していることを確認している。

「ですが、無視できないほどの相関(パラメータ)の偏りがあります。大気中の水分子が結晶化する際、周囲の空間から『何か』をエネルギーとして奪っている可能性がある。……それが熱エネルギーだけなのか、それとももっと高次な情報エネルギーなのかは、我々にはわかりませんが」

情報エネルギー。

その言葉は、科学用語としては曖昧だった。だが、その意味するところは明確だった。記憶もまた、情報だ。脳内に蓄積された情報。もし、それがエネルギーとして扱えるなら。もし、それが外部に抽出できるなら。

「情報……エネルギー……」

洋子は、無意識に自分の胸元を握りしめていた。

心臓が早鐘を打つ。その鼓動が、やけに大きく感じられた。

――雪の結晶と、人間の記憶。

かつて自分が「似ている」と直感的に口にした比喩が、最悪の形で科学的な仮説として提示されている。あれは、ただの詩的な比喩だった。雪が人と似ていると言ったのは、その儚さ、その多様性を表現したかったからだ。だが、今、それが文字通りの意味を持ち始めている。

脳内の神経ネットワークと、雪の樹枝状結晶。

どちらも複雑で、個性的で、そして環境の変化ひとつで容易に崩れ去る。その類似性は、表面的なものではなかったのか。もっと深い、本質的な繋がりがあるのか。

もし、雪が降るたびに、この世界から私たちの記憶という"情報"が吸い上げられ、あの美しい幾何学模様の中に封じ込められているとしたら?

その想像は、恐ろしかった。だが、否定できない。すべての事実が、その仮説を支持している。

洋子は、自分の手を見た。この手で、どれだけの雪を触ってきたか。その雪の中に、誰かの記憶が閉じ込められていたのか。

「……正直に申し上げます」

岸本は、ふっと表情を曇らせ、人間味のある弱さを垣間見せた。

それは、初めて見せる感情だった。それまでの彼女は、完璧に感情を制御していた。だが、今、その仮面が少しだけ剥がれた。その表情には、困惑と、そしてわずかな恐怖があった。

「我々政府も、まだ"現象の本質"を理解できていません。ただ、これだけは言えます。事態はすでに、従来の防災計画や治安維持の枠組みでは対処不能な段階(フェーズ)にあります」

その言葉は、重苦しい会議室の空気をさらに澱ませた。

対処不能。その言葉の重みは、計り知れなかった。政府が、自らの無力を認めている。それは、事態がどれほど深刻かを物語っていた。

学長や学部長たちは、ただ押し黙って俯いている。彼らの理解を超えた領域の話だということは明白だった。彼らは、学術的な議論には慣れている。だが、これは、学問の枠を超えている。現実が、理論を追い越している。

洋子は拳を握りしめた。爪が掌に食い込む痛みが、かろうじて現実感を繋ぎ止めていた。

『誰かを忘れた気がする』

昨日、震える手で日記に記した言葉が、脳裏に焼き付いて離れない。あの言葉は、予感だった。そして、その予感は正しかった。

自分の記憶が、内側から少しずつ"空白"に蝕まれていく感覚。

それは、ただの不安ではなかった。現実だった。自分もまた、この現象の犠牲者だ。佐伯という学生を忘れた。そして、他にも忘れているかもしれない。気づいていないだけで。

そして世界もまた、その空白へ向かって静かに、しかし確実に傾いている。

全国で百二十六件。実際には、その三倍。そして、これからも増え続ける。止まらない。誰も止められない。

「……岸本さん」

静寂を切り裂くように、洋子は声を上げた。声は震えていたが、そこには確かな芯があった。

その声は、部屋中に響いた。全員が、洋子の方を向いた。

岸本が視線を向ける。その目は、興味を示していた。

「その特異な雪の条件……特定の環境要因が揃ったときに限られていますか? 例えば、気温と飽和水蒸気圧のバランスとか」

洋子の問いは、専門的だった。それは、研究者としての問いだった。感情を排し、事実を追求する姿勢。

「その可能性が高いと見ています。だからこそ、皆さんの専門知識が必要なのです」

岸本の答えは、肯定だった。そして、それは依頼でもあった。協力してほしい。力を貸してほしい。

「……わかりました」

洋子は顔を上げ、岸本の冷徹な瞳を真っ直ぐに見返した。

その目には、決意があった。恐怖はあるが、それを超える意志。

「調べます。必ず。……私たちが知っている雪と、その雪が違うものなのかどうか。見極めてみせます」

その言葉は、宣言だった。約束だった。自分自身への、そして世界への。


岸本は、わずかに目元の緊張を和らげたように見えた。

その変化は微細だったが、確かにあった。冷徹な仮面の下に、人間らしい安堵が滲む。彼女もまた、助けを求めていたのだろう。この得体の知れない現象に、一人で立ち向かうことの恐怖を、抱えていたのだろう。

「期待しています。今、この国で頼れるのは、あなた方のように理屈を超えて"雪を知る人間"だけですから」

その言葉には、重みがあった。それは、単なる社交辞令ではない。本心だった。政府の力をもってしても、この現象は理解できない。科学者の力が必要だ。それも、雪を研究してきた、雪を愛してきた人間の力が。

浩は、隣の洋子を見た。彼女の横顔には、決意が刻まれていた。震えていた手が、今は静かに膝の上に置かれている。彼女は、覚悟を決めたのだ。

浩もまた、同じ決意を固めた。逃げることはできない。そして、逃げたくもない。この現象を解明しなければ、もっと多くの人が消える。洋子も、自分も、消えるかもしれない。

会議は、そこで終わった。岸本たちは、さらなる資料を大学に提供すると約束し、定期的な報告を求めた。学長たちは、全面的に協力すると誓った。もはや、大学の自治などという言葉は、意味を持たなかった。

──

一時間後。

長い会議を終えた二人は、逃げるように学内の中庭へと出た。

会議室の扉を出た瞬間、二人は同時に深く息を吸った。あの部屋の空気は、重すぎた。圧迫感が、胸を締め付けていた。

重厚な建物の外に出た瞬間、冷たく湿った外気が頬を打ち、肺の中の澱んだ空気を洗い流していく。

その冷たさが、心地よかった。生きている実感。外の世界は、まだここにある。雪は降っているが、世界はまだ存在している。

空は相変わらず鉛色で、太陽の気配はない。

いつから太陽を見ていないだろう。何日も、灰色の空が続いている。まるで、世界が色を失いつつあるかのように。

風はなく、灰色の天井から、細かい雪が音もなく降り続けていた。

その静けさが、不気味だった。雪は、音もなく降る。そして、音もなく世界を変えていく。

「……始まったな。完全に」

浩が白い息とともに呟く。

その声には、もう迷いはなかった。あるのは、巨大な不条理に立ち向かう覚悟と、隠しきれない畏怖だけだ。会議室で聞いた情報が、まだ頭の中で渦巻いている。異常な雪の結晶。記憶の消失。情報エネルギー。すべてが繋がっている。だが、まだ見えない。全体像が。

「うん……」

洋子は立ち止まり、空を見上げた。

その動作は、ゆっくりとしていた。まるで、何かを確かめるかのように。

無数の白い粒子が、視界を埋め尽くして落ちてくる。

それは、美しかった。いつもと変わらない、雪の光景。だが、今は違って見える。脅威に見える。一つ一つの雪片が、何かを奪おうとしているように見える。

彼女はそっと手袋を外し、素手の掌を空へ差し出した。

その動作を、浩は黙って見ていた。止めるべきか、迷った。だが、止めなかった。彼女は、確かめたいのだろう。この雪が、本当に何かを奪うのか。

冷たい感触。

掌に、雪が触れる。その感触は、いつもと変わらない。冷たく、柔らかく、儚い。

舞い落ちたひとつの雪片が、掌の体温に触れ、一瞬だけその精緻な六角形の構造を主張してから、すうっと透明な水滴に変わった。

儚い。あまりにも儚い。

その様子を、洋子は見つめていた。溶けていく雪。形を失い、ただの水になる。その過程は、一瞬だった。

だが、その一粒一粒に、誰かの「名前」や「笑顔」が閉じ込められているとしたら。

その想像が、洋子の胸を締め付けた。もし、この水滴の中に、佐伯という青年の記憶が含まれているとしたら。もし、自分が失った記憶が、この雪の中にあるとしたら。

「ねえ浩くん……」

洋子は、濡れた掌を見つめたまま呟いた。

その声は、小さかった。だが、確信を帯びていた。

「この雪の降り方、昨日と……少し違わない?」

その問いかけに、浩もまた、空を仰いだ。

眼鏡のレンズに、小さな氷の粒が付着する。その感触が、冷たく頬に伝わる。

「……ああ。違うな」

浩は、その違いを即座に認識した。気象学を学ぶ者として、雪の性質の変化を感じ取る。

確かに違っていた。

昨日の雪は、湿り気を帯びたぼたん雪だった。重く、水分を多く含んでいた。地面に落ちれば、すぐに溶ける雪。だが今の雪は、恐ろしいほど粒が細かく、乾いていて、ガラス細工のように透明に近い。

まるで、物質としてのリアリティが希薄になっているような、デジタルなノイズのような降り方だ。

それは、自然の雪とは思えなかった。人工的な、作られた雪のような。だが、人工降雪機などない。これは、自然に降っている雪だ。だが、その性質が変わっている。

「結晶の純度が高すぎるんだ。不純物がなくて、あまりにも整然としすぎている」

浩は静かに分析し、そして空恐ろしい結論を口にした。

その声は、震えていた。科学者として、この異常さを理解してしまう。そして、それが何を意味するのかも。

「……たぶん、これは何かの序章なんだろうな」

序章。

その言葉が、重く二人の間に落ちた。これは、始まりに過ぎない。これから、もっと悪いことが起こる。その予感。

洋子は唇を噛み締めた。

胸の奥にある"空白"が、ズキズキと疼く。

誰かを喪ったという事実だけを残して、その対象を奪い去った残酷な欠落感。それが、雪が降るたびに少しずつ広がっていくような気がする。まるで、傷口が広がるように。止血できない傷。

雪は静かに降り続く。

その白は、優しく世界を包み込んでいるようで、その実、記憶の境界線を曖昧にし、すべてを無(ゼロ)へと還そうとする死の色のようにも見えた。

美しいが、恐ろしい。それが、雪の本質なのかもしれない。創造と破壊。生と死。その両方を内包している。

二人は、大学の研究棟へ戻る前に、同時に悟っていた。

言葉を交わさずとも、理解していた。この状況が、もはや普通ではないことを。

この雪の調査は、もはや学位論文のための"研究テーマ"などではない。

それは、学問的な興味ではない。生存のための戦いだ。

これは、人間の存在証明(アイデンティティ)をかけた、静かで壮絶な戦争なのだと。

自分たちが何者であるか。それを証明する戦い。記憶がなくなれば、自分は自分ではなくなる。他者の記憶がなくなれば、自分は存在しなかったことになる。

――人間の記憶そのものが、雪のように溶けて消え始めている。

その認識が、二人の中で確信に変わった。もはや疑いようがない。

ここから先、二人は世界の最前線に立つことになる。

それは、選択ではなかった。運命だった。避けられない道。

希望があるかどうかもわからない、白く閉ざされた闇の中で。

前に進むしかない。答えを見つけるまで。あるいは、自分たちも消えるまで。

ただ、雪は無慈悲に、美しく降り続けていた。

何かを告げるように。

まるで、世界の終わりを予告するかのように。

あるいは、この世界から何かを永遠に奪い去るために。

その白い沈黙の中で、二人は立っていた。手袋を外した洋子の手に、雪が降り積もる。そして、溶ける。また降り積もる。また溶ける。その繰り返し。

浩は、洋子の肩に手を置いた。その温もりが、わずかに彼女を安心させた。

「行こう」

浩の声は、静かだった。だが、その中には力があった。

「ああ」

洋子は頷き、手袋をはめ直した。

二人は、研究棟へと歩き始めた。その背中に、雪が降り積もる。白く、静かに。

世界は、変わり始めている。

そして、二人もまた、変わらなければならない。

この戦いに勝つために。

生き残るために。

記憶を守るために。

雪は、まだ降り続けていた。

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雪の哲学 唯野眠子 @tadano-neko

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