第3話 記憶の空白

キャンパスに降り積もった雪は、昼を過ぎても一向に融ける気配を見せなかった。

それどころか、地面に触れれば本来なら水滴となって染み込むはずの白が、妙にねっとりとした粘性を帯びて、そこにある。通常の雪とは違う、不気味な存在感。アスファルトの上で融解することなく、まるで"形を保とうとする意思"を持っているかのように、不自然な立体感を維持していた。太陽の光を受けても、その白さは変わらない。溶けるべきものが溶けない。その異常さが、キャンパス全体を覆っていた。

洋子は、その異質な雪の上をぎこちない足取りで歩いていた。

一歩踏み出すたびに、体のバランスが微妙に崩れる。足元が定まらない。ブーツの裏から伝わる感触が、いつもと違う。サクッという乾いた音ではなく、何かもっと重たい、泥濘(ぬかるみ)を踏むような鈍い音が足元から響いてくる。その音は、不快で、どこか生理的な嫌悪感を催させる。まるで、生き物の上を歩いているような。

研究室へ向かっているはずなのに、内心はどこか遠くへ迷い込んでいるような心持ちだった。

道は知っている。毎日通っている道だ。だが、今日は何か違う。景色が微妙にずれている気がする。いつも見ている建物の配置が、わずかに変わっているような。それは錯覚かもしれない。だが、その錯覚が、洋子の不安を増幅させていた。

昼夜、布団に入ったあとから、胸の奥にさざ波のようなざわつきが止まない。

眠れなかった。目を閉じても、意識は覚醒したままだった。暗闇の中で、天井を見つめ続けた。何か、重要なことを忘れている気がして。だが、それが何なのか思い出せない。その焦燥感が、一晩中洋子を苛んでいた。

理由ははっきりしない。けれど、ポケットに入れたはずの鍵がないことに気づいた時のような、あるいは出かける前に何か致命的な忘れ物をした時のような、心もとない焦燥感がずっと付きまとっている。

何か、大切なものを取り落としてしまったのではないか。

その「何か」が何なのかさえ、思い出せないままに。

それは、名前のない不安だった。形のない恐怖だった。具体的に何を恐れているのかわからない。だが、確実に何かが失われている。その確信だけがあった。

洋子は立ち止まり、深呼吸をした。冷たい空気が肺に入る。だが、それでも胸の苦しさは消えなかった。むしろ、息をするたびに、何かが欠けている感覚が強まっていく。

研究室の重い防火扉を開けると、暖房の効いた空気が顔に触れた。

その温度差が、一瞬だけ現実感を呼び戻す。外の冷たさと、内の温かさ。その境界を越えることで、洋子はようやく自分が今ここにいることを実感した。

奥のデスクでは、浩が数枚のプリントを広げていた。眉間に深い皺を寄せ、赤ペンを片手に紙面を睨みつけている。その表情は、深刻そのものだった。消失した学生に関する断片的な情報――警察発表や学内掲示、SNS上の噂レベルのものまで――を独自にまとめたものだろう。彼は昨夜から、ずっとこの作業を続けていたのかもしれない。デスクの周りには、空のコーヒーカップが三つも置かれていた。

「……洋子、来たか」

ドアの開閉音に気づいて顔を上げた浩の声は、少し掠れていた。疲労が滲んでいる。目の下には、うっすらと隈ができていた。

「うん……おはよう」

洋子の声も、小さかった。いつもの明るさがない。

「顔色が悪いな。よく眠れなかったのか?」

浩の言葉には、心配と観察が混じっていた。彼は、洋子の様子がおかしいことにすぐ気づいた。

「寝不足……なのかもしれない」

洋子は自分のデスクに鞄を置こうとして、指先に力が入らず、危うく取り落としそうになった。鞄が揺れ、中の荷物が音を立てた。その音が、やけに大きく聞こえた。

「なんだか変なの。頭の中が少しだけ空洞になってるみたいで。風邪の引き始めとも違う、もっと深いところがスースーする感じ」

洋子の説明は、抽象的だった。だが、それしか言いようがなかった。この感覚を正確に言語化することは、不可能に思えた。

浩は作業の手を止め、心配そうに椅子ごと彼女の方へ向き直った。赤ペンをデスクに置き、完全に洋子に向き合う姿勢を取った。

「もしかして……昨日のニュースのせいで、気が滅入ってるんじゃないか? 家族が記憶を失うなんて話、聞かされたら誰だって不安になる」

浩の声には、優しさがあった。彼なりに、洋子を安心させようとしている。

「それもあるけど……もっと、こう……言葉じゃ説明できない欠落感なの」

洋子は、自分の胸に手を当てた。そこに、穴が開いているような気がした。物理的な痛みではない。だが、確かに何かが欠けている。

洋子は椅子に浅く腰掛け、しばらく窓の外を眺めた。

ガラスの向こうでは、灰色の空から雪の粒が風に運ばれ、斜めに滑り落ちていく。その軌道を目で追っていると、遠近感が狂いそうになる。雪は、規則性なく舞っている。まるで、意志を持っているかのように。ある雪片は急降下し、ある雪片は宙で漂う。その動きを見ていると、目眩がしそうだった。

「ねえ浩くん。私、今日の朝……変な夢を見た気がするんだ」

洋子の声は、どこか遠くから聞こえてくるようだった。

「夢?」

浩が聞き返す。その声には、わずかな緊張が混じっていた。

「誰かと話してたの。すごく親しい、大事な人だったと思う。カフェかどこかで、笑いながら話してた。……けど、目が覚めたら、どんな話だったか思い出せない」

洋子の言葉は、ゆっくりとしていた。まるで、記憶の断片を一つ一つ拾い集めるように。

洋子は膝の上で手をきつく握りしめた。その手が、わずかに震えていた。

「それどころか……その人が『誰』だったのかも、輪郭が霞んでて、はっきりしないの。男の人だったのか、女の人だったのかさえも」

その言葉を聞いた瞬間、部屋の空気が変わった。

浩は、胸の奥がざわつくのを感じた。

彼女の訴えは、単なる悪夢の類には聞こえなかった。それは、もっと深刻な何かを示唆していた。昨日村上が話していた「認識の空白」という言葉が、不吉な符合となって脳裏をよぎる。記憶の喪失。存在の消去。それが、洋子にも始まっているのではないか。しかし、彼はその不安を表情には出さなかった。今ここで動揺を見せれば、彼女はさらに脆く崩れてしまいそうだったからだ。科学者として、冷静であらねばならない。だが、それ以上に、洋子を守らねばならない。

「……単なる夢じゃないのか? 不安が形になって現れただけだよ」

浩の言葉は、努めて軽いトーンだった。だが、その目は真剣だった。

「そうだといいんだけど」

洋子が視線を落とす。その横顔は、薄氷のように頼りなかった。今にも割れてしまいそうな、儚さがあった。

重苦しい沈黙が部屋を支配した。

二人とも、言葉を失っていた。何を言えばいいのか、わからなかった。浩は、洋子を慰める言葉を探していた。だが、見つからない。嘘を言っても意味がない。彼女は、真実を求めている。

その静寂を唐突に破ったのは、洋子の机の上で短く唸った、スマホのバイブレーション音だった。

ブブッ、という無機質な振動音が、張り詰めた空気を揺らす。

その音は、予想外に大きく聞こえた。静寂を暴力的に破る音。

洋子はびくりと肩を震わせ、恐る恐る画面を覗き込んだ。メッセージアプリの通知が表示されている。

そこには"未読"マークとともに、ひとつのトークルームが浮き上がっていた。

誰かからのメッセージ。だが、それを開くことに、洋子は躊躇いを感じた。なぜだろう。理由はわからない。だが、開いてはいけない気がした。

……誰だろう?

洋子は、震える指先で画面に触れた。表示されている名前を見る。漢字二文字の名前。見覚えがある気がする。

いや、知っているはずだ。このアプリに登録されているということは、過去に連絡を取り合った相手なのだから。友人として、知人として、あるいは親しい誰かとして。連絡先に登録するということは、それなりの関係性があったということだ。

だけど、どんな友人だったか、どういう関係だったか、具体的なエピソードが何一つ思い出せない。まるで霧がかかったように、交流の記憶が曖昧すぎる。顔も浮かばない。声も思い出せない。どこで会ったのか。何を話したのか。すべてが空白だった。

洋子の額に、冷や汗が滲んだ。心臓の鼓動が早くなる。これは、ただの物忘れではない。もっと深刻な何かだ。

指先を滑らせ、メッセージを開く。

画面が切り替わり、トーク履歴が表示される。だが、そこにあるのは断片的なやり取りだけだった。日常的な挨拶。短い返事。絵文字だけのメッセージ。それらは確かに存在している。だが、その背景にあるはずの関係性が、洋子の記憶から完全に抜け落ちている。

最新のメッセージは、あまりに短く、そして切迫していた。

《洋子、ごめん。今日の件、誰にも言わないで。頼む》

その言葉を見た瞬間、心臓が早鐘を打った。

「今日の件」とは何だ? そもそも、この相手と今日何かあったのだろうか?

洋子は必死に記憶を手繰り寄せようとした。今日の朝、誰かに会ったか。メッセージを受け取ったか。約束をしていたか。だが、何も思い出せない。記憶の中に、この人物に関する情報が存在しない。まるで、最初からそこに何もなかったかのように。

思い出そうとすればするほど、思考の歯車が空転し、急激な不安が増幅されていく。頭の中が、空白で満たされていく感覚。何かを掴もうとしても、手からすり抜けていく。

「浩くん……これ」

洋子は救いを求めるようにスマホを差し出した。その手は、明らかに震えていた。声も、不安で上擦っている。

画面を覗き込んだ浩が、怪訝そうに眉をひそめる。彼は、画面に表示された名前を見て、何かを考えるような表情を浮かべた。

「……誰なんだ? この名前」

浩の声には、慎重さがあった。洋子を刺激しないように、慎重に言葉を選んでいる。

「わからない。友達だった気がするんだけど……顔が浮かばないの」

洋子の声は、小さく震えていた。その言葉には、自分でも信じられないという困惑が滲んでいた。

浩はスマホを受け取り、静かに画面をスクロールさせた。

彼の目が、画面を追っていく。上へ、上へと。過去のメッセージを遡っていく。その表情が、次第に険しくなっていく。

「三日前のメッセージがあるな。『また来週』とだけ書いてある。……その前が、ほぼ空欄か」

浩の声は、低く沈んでいた。その言葉には、何かを確認したような響きがあった。

彼は画面を見つめたまま、息を呑んだ。

「会話のログが不自然に途切れてる。まるで、誰かが存在した"痕跡"だけが、バグみたいに残ってるみたいだ」

その言葉は、核心を突いていた。そう、これはバグだ。システムエラーだ。だが、それは機械のエラーではなく、現実のエラーだった。世界そのものに生じた、バグ。

洋子は口を噤んだ。

「そんなはずない」と否定したくても、それを否定するための材料――思い出――が、自分の内側からごっそりと抜け落ちている。証拠がない。記憶がない。あるのは、この画面に表示された文字だけ。それが、かろうじて誰かが存在したことを証明している。

自分は、誰かを忘れている。

それも、忘れてはいけない誰かを。

その認識が、洋子の胸を締め付けた。罪悪感と恐怖が、同時に押し寄せてくる。大切な人を忘れるということ。それは、その人を裏切ることだ。その人の存在を否定することだ。だが、どうしようもない。記憶は、自分の意志では制御できない。

洋子は、自分の頭を抱えた。まるで、記憶を押し留めようとするかのように。だが、無駄だった。失われたものは、戻ってこない。

浩は、洋子の肩に手を置いた。その手の温もりが、わずかに洋子を落ち着かせた。

「大丈夫だ。一緒に考えよう」

浩の声は、優しかった。だが、その目には不安が宿っていた。彼もまた、この状況に困惑している。だが、それを表に出さないようにしている。

その時だった。

研究室のドアが、ノックもなしに静かに開いた。

その音は、予想外のタイミングだった。二人は、メッセージに集中していた。外部からの侵入を、予期していなかった。

二人が弾かれたように振り向くと、そこには村上が立っていた。

いつもなら白衣をラフに着崩している彼が、今日はボタンを一番上まで留め、妙に神妙な、張り詰めた表情をしている。その姿は、普段の村上とは別人のようだった。目には、深刻な決意のようなものが宿っていた。その手には、古びた厚手のファイルが握られていた。茶色く変色した表紙。何年も前のものだろう。そのファイルは、重要な何かを含んでいるように見えた。

村上の表情は、昨日よりもさらに疲弊していた。目の下の隈が濃くなり、髪も乱れている。徹夜をしたのだろう。あるいは、一睡もしていないのかもしれない。だが、その目には、強い意志が宿っていた。何かを決意した目だった。

「二人とも……ちょっと来てくれ」

村上の声は低く、拒絶を許さない響きを含んでいた。

その声には、緊急性があった。今すぐ来いという命令の響き。それは、普段の村上からは想像できないほど、強い口調だった。

浩と洋子は、顔を見合わせた。二人とも、嫌な予感を抱いていた。村上は、何かを知っている。何か重要なことを。そして、それを今から伝えようとしている。

洋子は、スマホを握りしめたまま立ち上がった。その画面には、まだあのメッセージが表示されている。《洋子、ごめん。今日の件、誰にも言わないで。頼む》。その言葉が、妙に重く感じられた。

浩も立ち上がり、洋子の隣に立った。二人は、村上の方を向いた。

村上は、二人の表情を見て、何かを悟ったようだった。彼は、小さく頷いた。

「やはりな。お前たちも、気づき始めているんだな」

村上の言葉は、確信に満ちていた。

「何に……気づいているんですか?」

浩が聞き返す。その声には、恐怖と期待が混じっていた。答えを知りたい。だが、知りたくない。そんな矛盾した感情。

「来れば、わかる」

村上は、それだけ言うと、踵を返した。その背中は、重い責任を背負っているように見えた。

浩と洋子は、再び顔を見合わせた。そして、無言で頷き合った。行くしかない。答えを知るしかない。

二人は、村上の後を追った。研究室のドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。

廊下は、静まり返っていた。いつもなら学生たちの話し声や足音が聞こえるはずなのに、今日は誰もいない。まるで、世界から人が消えてしまったかのような静寂。

三人の足音だけが、廊下に響いていた。その音は、規則正しく、しかし重々しかった。

村上は、一言も発しなかった。ただ、前を向いて歩き続ける。その背中を、浩と洋子は黙って追った。

どこへ向かっているのか。何を見せられるのか。

その答えは、まだ明かされていない。

だが、それが恐ろしい何かであることは、三人とも予感していた。

廊下の窓から、外の雪が見えた。まだ降り続けている。溶けることなく、積もり続けている。

その白さが、妙に眩しく感じられた。

村上の背中を追って、二人は廊下の突き当たりにある資料室へと向かった。

その道のりは、妙に長く感じられた。廊下は人影もなく、静まり返っている。三人の足音だけが、規則正しく響いていた。その音は、まるで時計の秒針のように、時の経過を告げていた。

普段はあまり使われないその部屋は、ひやりとした冷気と、古紙特有の乾いた匂いが充満していた。ドアを開けた瞬間、その匂いが鼻を突いた。長年蓄積された書類の匂い。時間の重みを感じさせる匂い。並んだスチール棚には、過去数十年にわたる観測データや卒業生の論文が詰め込まれたバインダーが、地層のように積み重なっている。それらは、無数の研究者たちの足跡だった。だが、今は誰も触れない、忘れられた記録。

蛍光灯がチカチカと不安定に明滅し、三人の影を床に長く伸ばしていた。その光は、まるで部屋そのものが何かに侵されているかのような不安定さを演出していた。

洋子は、部屋の空気に息苦しさを感じた。冷気が肺に入り込んでくる。だが、それは物理的な寒さだけではなかった。この空間に漂う、何か得体の知れない重圧。過去の記録が眠る場所。そして、これから明かされる何かを待つ場所。

「ここだ」

村上は一番奥の棚の前で足を止め、一冊のファイルを慎重に取り出した。その動作は、まるで何か危険なものに触れるかのように、ゆっくりとしていた。背表紙には『○○年度 大気物理学ゼミナール 活動記録』と手書きのラベルが貼られている。インクは少し褪せていたが、文字ははっきりと読める。

「これは去年のゼミ記録だ。整理のために見返していたんだが……妙なものを見つけてしまってね」

村上の手つきは、まるで爆発物を扱うかのように慎重だった。彼の指が、わずかに震えているように見えた。それは、彼もまた、これから示すものの重大さを理解しているからだろう。

彼は作業用の長机にファイルを置き、あるページを開いて二人に見せた。その動作は、演劇的なほど慎重だった。まるで、このページを開くことで、何かが変わってしまうかのように。

そこには、ゼミ合宿の集合写真と、その下に手書きの名簿が挟み込まれていた。

楽しげにピースサインをする学生たち。背景には雪山。晴れた空と、白い雪のコントラストが美しい。何の変哲もない、ありふれた思い出のひとコマだ。笑顔、歓声、若さ。そのすべてが、この一枚の写真に凝縮されている。だが、その明るさが、かえって不気味に感じられた。

だが、その名簿の一箇所に、異様な修正が加えられていた。

ある男子学生の名前の上に、赤いボールペンで二重線が引かれ、その横に小さな「?」マークが書き込まれているのだ。その線は、迷いなく引かれていた。だが、その意味は謎だった。なぜ、この名前に線が引かれたのか。誰が引いたのか。

浩は、その線を見て、嫌な予感を抱いた。これは、ただの修正ではない。何か、もっと深い意味がある。

「この学生……洋子さん、見覚えは?」

村上が指差したのは、集合写真の端に写っている、少しはにかんだような笑顔の青年だった。眼鏡をかけ、控えめな表情をしている。だが、その顔には、確かに人間らしい温かさがあった。

洋子は写真に顔を寄せ、じっと見つめた。

その目は、必死に何かを探していた。記憶の断片を。この顔に関する情報を。だが、何も見つからない。脳の中を必死に探るが、そこには何もない。空白があるだけだった。

数秒、十数秒。

部屋の静寂が痛いほど耳に刺さる。蛍光灯の明滅する音だけが、不規則に響いていた。その音が、時間の経過を強調していた。

浩は、洋子の横顔を見つめていた。彼女が、何かを思い出そうとしている。だが、それが叶わない。その苦しみが、表情に刻まれていた。

やがて彼女は、ゆっくりと首を横に振った。

「……ううん。わからない。こんな人、いたかな……」

声は頼りなかった。その言葉には、自信がなかった。否定しているのか、疑問に思っているのか、自分でもわからないような口調。

だが、浩は気づいていた。彼女が「わからない」と言いながらも、その視線が写真の青年の顔から離れられずにいることを。

まるで、何かを思い出そうとしているかのように。あるいは、思い出せないことを恐れているかのように。

そして、テーブルの縁を掴んだ彼女の指先が、白くなるほど強く食い込んでいることを。

その手は、明らかに震えていた。恐怖、困惑、そして何か名状しがたい感情。それらが、彼女の中で渦巻いている。

「実は、この学生……」

村上は一度言葉を切り、意を決したように告げた。深呼吸をするように、一瞬の間を置いてから。

「今日のニュースで"消失した可能性が高い"とネットで特定されている一人だ。名前は佐伯。……君と同期の学生だよ」

その言葉が、部屋の空気を一変させた。

「え……?」

洋子は息を呑んだ。同期。同じ時間を過ごしたはずの人間。同じ講義を受け、同じキャンパスを歩き、同じ食堂で食事をしたかもしれない人間。

「でも……嘘よ。私、覚えてない。同期なら、話したことくらいあるはずでしょう? なのに、何も……」

洋子の声は、次第に大きくなっていった。それは、否定したいという願いの表れだった。この現実を拒絶したいという。

「それだけじゃないんだ」

村上はさらに残酷な事実を突きつけるように、名簿のページを指で叩いた。その音が、やけに大きく響いた。

「この赤線と『?』マーク。筆跡を過去のレポートと照合してみた。……これは、洋子さんが書いたものだ」

その瞬間、洋子は言葉を失った。

時間が止まったように感じられた。村上の言葉が、空気の中に浮かんでいる。それを理解するのに、時間がかかった。

目を見開き、自分の筆跡だというその線を凝視する。

確かに、右上がりの特徴的な「?」の書き方は、自分の癖そのものだった。この書き方は、他の誰でもない。自分だ。間違いなく、自分が書いたものだ。

だが、なぜ。いつ。どんな理由で。

「私が……引いたの? いつ?」

洋子の声は、かすれていた。信じられない、という思いが滲んでいた。

「日付はない。だが、君は過去のどこかの時点で、既にこの学生の存在に違和感を抱き、自分で印をつけていたんだ。……そして今、印をつけたことさえ忘れている」

村上の言葉は、冷徹だった。だが、それは事実だった。否定できない事実。

洋子の膝から力が抜け、その場に崩れ落ちそうになるのを、浩が慌てて支えた。彼女の体は、羽のように軽く感じられた。まるで、実体を失いつつあるかのように。

「洋子!」

浩の声には、焦りがあった。彼女を失うかもしれない、という恐怖。

「私……どうして……」

洋子の瞳から、生理的な恐怖の涙が滲む。それは、意志とは関係なく溢れ出てくる涙だった。

「怖いよ、浩くん。私の中に穴が開いてる。自分でも気づかないうちに、大事な記憶がどんどんこぼれ落ちていく……」

その声は、震えていた。子供のように、助けを求める声。

胸の奥を冷たい風が吹き抜ける感覚。自分という存在の輪郭が、内側から侵食され、やがて空洞になってしまうような予感。それは、存在の恐怖だった。自分が自分でなくなっていく恐怖。

浩はその震える肩を抱きしめながら、村上を睨みつけるように見上げた。その目には、怒りと無力感が混じっていた。

「村上さん。……大学は、この状況をどう考えているんですか? これはもう、一学生の失踪事件なんてレベルじゃない」

浩の声は、低く抑えられていた。だが、その奥には、強い感情が渦巻いていた。

村上は苦渋の表情で腕を組んだ。

その顔には、疲労と諦めが混じっていた。彼もまた、この状況に困惑し、苦しんでいる。だが、職務として、事実を伝えなければならない。その重圧が、彼の肩にのしかかっていた。

「ああ、その通りだ。……実は、昨日の夜の時点で、学長が極秘に"文科省の特別調査班"に連絡を取ったらしい」

村上の声は、さらに低くなった。まるで、誰かに聞かれることを恐れているかのように。

「特別調査班?」

浩が聞き返す。その言葉には、不吉な響きがあった。政府が動いている。それは、事態が想像以上に深刻であることを意味していた。

「俺も名前だけしか聞いていない。だが、どうやら政府はすでに掴んでいるらしいんだ。"消失現象"がここだけでなく、全国規模で報告されていることを」

その言葉は、重く部屋に落ちた。

「全国……規模……」

洋子が呆然と復唱する。その声は、現実感を失っていた。全国。つまり、日本中で。それは、もはや局地的な異常事象ではない。国家的な危機だった。

浩は、その意味を理解するのに数秒かかった。全国で起きている。それは、数百人、数千人、あるいはそれ以上の人々が消失しているかもしれないということだ。そして、その記憶もまた、消えている。

「表向きはまだ伏せられている。パニックを避けるためにな。だが、水面下ではすでに動き出している。明日にも、大学に政府からの調査担当者が派遣されるはずだ」

村上は、周囲を警戒するように声を潜めた。その仕草は、まるでスパイ映画のようだった。だが、これは映画ではない。現実だ。

彼は、一度ドアの方を確認してから、さらに声を落とした。

「それともうひとつ。ここだけの話だが……政府は、気象データと現象の関連を強く疑っているらしい」

「気象データ?」

浩の声が、わずかに高くなった。それは、自分たちの専門分野だった。彼らが日々研究している対象。

「ああ。消失が起きる場所では、必ず特定のパターンの雪や霧が観測されているそうだ。だから、気象学科である俺たち……つまり俺たちの研究室は、嫌でも巻き込まれることになる」

村上の言葉には、重い諦めがあった。逃げることはできない。もう、彼らはこの現象の渦中にいる。

浩の背筋に悪寒が走った。

自分たちが日々追いかけていた美しい自然現象。あの雪の結晶。その完璧な六角形の構造。無限の多様性。それらは、純粋に美しいものだと思っていた。科学的な探求の対象。だが、その雪の結晶構造が、実は人間の精神を蝕む"何か"の媒介だとしたら?

美しいものが、恐ろしいものだったとしたら。

洋子が昨日言っていた言葉が、脳裏に蘇る。「雪みたいに溶けて消えたら」。それは、比喩ではなかったのかもしれない。文字通りの意味だったのかもしれない。

「……じゃあ、俺たちの研究データが、その証明に使われるってことですか?」

浩の声には、複雑な感情が混じっていた。研究者として、真実を解明したい。だが、その真実が、恐ろしいものだったら。

「詳しくは言えない。だが、近いうちに正式な"協力要請"が来る。単なるデータ提供だけじゃない。おそらく、現象解明のためのプロジェクトに強制的に参加させられるだろう」

村上の言葉は、宣告のように重く響いた。それは、命令だった。拒否することはできない。彼らは、もう選択の余地を失っていた。

洋子は再びファイルの上の写真を見た。

佐伯という名の青年。笑顔で写っている。だが、その顔が思い出せない。どれほど目を凝らしても、そこに写る青年の"気配"や"声"が思い出せない。記憶の中に、彼の居場所がない。

けれど、胸の奥底が焼けるように痛い。

それは、物理的な痛みではない。もっと深い、心の痛み。喪失の痛み。

――私は、誰かを確かに知っていた。

――その人は、今は誰の記憶にも残っていない。

その事実だけが、形のない鋭利な氷の欠片のように、心臓に深く突き刺さっていた。痛みは消えない。むしろ、時間とともに強くなっていく。忘れたことへの罪悪感。取り戻せない記憶への焦燥感。

浩は、彼女の手をそっと、しかし強く握り返した。

その手の温もりが、洋子にわずかな安心を与えた。彼は、ここにいる。忘れていない。少なくとも、今は。

「……わかった。やりましょう」

浩の声には、悲壮な決意が滲んでいた。それは、覚悟の声だった。もう後戻りはできない。

「もし俺たちの知識で何かわかるなら、調べるべきだ。誰かの記憶が勝手に消されるのを、これ以上、指をくわえて見ているなんてごめんだ」

浩の言葉は、力強かった。だが、その奥には恐怖もあった。自分たちも消えるかもしれない。洋子も、自分も。だが、それでも。何もしないよりは、戦う方がいい。

村上は静かに頷き、ファイルを閉じた。

パタン、という乾いた音が、日常の終わりを告げる号砲のように聞こえた。

その音は、決定的だった。もう、戻れない。彼らは、非日常の領域に足を踏み入れた。

──

その日の深夜。

洋子は一人、アパートの部屋で机に向かっていた。

部屋は静まり返っていた。外からは、何の音も聞こえない。時計の秒針の音だけが、規則正しく時を刻んでいる。その音が、妙に大きく聞こえた。

静寂の中、ペンを走らせる音だけが響く。

彼女は震える手で、日記帳に今日の出来事を書き記していた。文字にして残さなければ、明日にはこの感情さえも消えてしまうかもしれないという恐怖に駆られて。記憶が消えるなら、記録を残すしかない。紙に書かれた文字は、脳内の記憶よりも確かだ。物理的に存在する。

ペン先が、紙の上を滑っていく。だが、その動きは不安定だった。手が震えているからだ。文字は乱れ、インクが滲んでいる。だが、それでも書き続ける。書かなければならない。

『私は今日、誰か大切な人を失ったことを知った』

その文字を書きながら、洋子の目から涙が溢れた。止まらない。拭っても、また溢れてくる。

『名前も、顔も、声も思い出せない。けれど、喪失感だけがここにある』

その喪失感は、言葉では表現できない。心に空いた穴。それは、何で埋めることもできない。

『明日から、この現象を"国家規模"で調べる人たちが動き出す』

その事実が、どれほど重大なことか。国が動く。それは、事態が想像を超えているということだ。

『どうか、まだ間に合いますように』

それは、祈りだった。神に向けた祈り。あるいは、自分自身に向けた祈り。

『その人が、雪みたいに跡形もなく消えてしまったのではありませんように』

洋子は、その言葉を書き終えると、ペンを置いた。

手が痛かった。力を入れすぎていたからだ。だが、その痛みが、今の自分が確かに存在することを証明していた。

ふと窓の外を見る。

カーテンの隙間から、街灯に照らされた夜の闇が見える。

そこには、政府も、科学者も、誰もまだ正体を知らぬ"何か"を告げるように、雪がしんしんと降り続けていた。

美しく、静かに。

その光景は、いつもと変わらない。だが、今は違って見えた。脅威に見えた。

世界を白く塗り潰し、隠蔽するように。

雪は、すべてを覆い隠す。痕跡を消す。存在を消す。それは、美しい破壊だった。

"消失"は、世界の表層から静かに、しかし確実に、その深部へと入り込み始めていた。

それは、もはや止められない流れだった。拡大していく。加速していく。誰も、その行き着く先を知らない。

そして翌日から――

二人は、二度と戻れない"非日常"の渦中へと、足を踏み入れることになる。

洋子は、窓の外の雪を見つめ続けた。その白さが、どこか冷酷に感じられた。美しいが、容赦がない。

明日から、何が始まるのか。

その答えは、まだ誰も知らない。

だが、確実に何かが変わる。世界が変わる。

洋子は、日記帳を閉じた。そして、深い溜息をついた。

長い夜が、ようやく終わろうとしていた。

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