第三戒(前編)秘密の通路や部屋を用いてはならない

「探偵小説のルールって知ってるか?」

 事件の真犯人に、俺は告げることになる。

「秘密の通路なんてものは、小説の中だけで十分だ。現実の悪党は、もっと単純で、汚い手を使う」


 1


 過去の事件が、亡霊のように次の事件を呼び寄せることがある。あるいは、忘れようとしていた過去の残滓が、新たな悪夢を呼び覚ますのかもしれない。

 ブラックウッド邸での幽霊騒動から一週間。すっかり埃をかぶり始めていた、俺の探偵事務所の電話が、けたたましく鳴った。外は冷たい雨が降っており、窓ガラスを叩く音が不吉なリズムを刻んでいる。


 手元の資料――リサがどこからか入手してきたアリアス研究所に関する断片的なレポート――から目を離し、俺は受話器を取った。

「ノックスだ」

「あ、ノックス様……! よかった、繋がった……」

 電話の向こうから聞こえてきたのは、しわがれた、しかし切迫した声だった。聞き覚えがある。あのブラックウッド邸の執事、ジェンキンスだ。

「どうした、ジェンキンスさん。屋敷の整理は順調じゃなかったのか?」

 俺は声を和らげた。彼は前回の事件で、主人の罪と自身の過ちを認め、憔悴しながらも屋敷の後始末に残ると言っていた。あの生真面目な老人が、今さら何事だろうか。

「それが……ノックス様、どうか、もう一度屋敷に来ていただけないでしょうか。大変なものを……見つけてしまったようなのです」

 声が震えている。ただ事ではない気配が、受話器越しに伝わってくる。

「大変なもの?」

「はい……旦那様の書斎を整理しておりましたら……壁紙の裏に、奇妙な空洞の反応がありまして。調べてみると、隠し金庫のようなスペースが……。中に、古い日記と、研究資料のようなものが」

「日記? 研究資料?」

「ええ……旦那様の……いえ、『アリアス』という名が記されています。それに……」

 ジェンキンスの声が一段低くなり、周囲を警戒するような響きを帯びた。

「この日記を読んで、恐ろしいことに気づいてしまいました。前回の事件……マダム・エヴァンジェリンの手引きをした協力者のことです。あの日、屋敷に来ていた……」

 言葉が途切れた。

「ジェンキンスさん? 誰のことだ?」


 ザザッ……

 突然、激しいノイズが走り、通話がかき消された。

「おい、ジェンキンスさん! もしもし!」

 返事はない。ツー、ツー、という無機質な電子音だけが残った。

 切断されたのか、彼が切ったのか。それとも――。


 背後で、資料の整理をしていたリサが顔を上げた。

「どうしたの、ノックス? 怖い顔して」

 彼女はいつもの人懐っこい笑顔を浮かべている。手には淹れたてのコーヒーポットを持っていた。

「……ジェンキンスからだ。屋敷で何か見つけたらしい」

「へえ、何かお宝でも出たのかしら?」

 リサは興味深そうに首を傾げた。

「さあな。だが、ただ事じゃなさそうだ。すぐに屋敷へ向かうぞ」

 俺はコートをひっつかんだ。


 2


 雨脚が強まる中、俺とリサは再びあの丘の上に建つブラックウッド邸の前に立っていた。

 タクシーを降りると、屋敷は前回訪れた時よりもさらに静まり返り、まるで主を失った巨大な抜け殻のように雨に打たれていた。呼び鈴を何度か鳴らしたが、応答はない。

「留守かしら?」リサが傘を差しながら言う。

「約束したんだ。彼なら待っているはずだ」

 俺はドアノブを回してみたが、施錠されている。

「……嫌な予感がする」

 俺は舌打ちし、屋敷の裏手へ回った。勝手口のドア。ここも鍵がかかっていたが、ピッキングツールを使って強引に解錠した。

「行くぞ」


 足音を忍ばせ、屋敷の中へ入る。相変わらず、淀んだ空気が重く漂っていたが、今日はそれに加えて、鼻をつく鉄錆のような臭い――血の匂いが混じっていた。

「ノックス、これ……」

 リサが鼻を覆う。

 俺たちは無言で階段を駆け上がり、二階の書斎へ向かった。あの、忌まわしい密室殺人が起きた場所だ。

 書斎のドアは閉まっていた。ノックをしても返事はない。

「ジェンキンスさん!」

 俺は声を張り上げたが、静寂が返ってくるだけだ。ドアノブに手をかける。鍵がかかっている。内側からだ。

 デジャヴだ。前回の事件と同じ状況。だが、中の気配が決定的に違う。死の気配が濃厚に漂っている。


「どけ、リサ」

 俺はドアに肩からぶつかった。古い木製のドアが軋む。一度、二度。三度目の衝撃で、錠前周辺の木枠が砕け、ドアが勢いよく開いた。


 そして、俺たちは見た。

 書斎の中央、大きなデスクの前の床に、ジェンキンスが仰向けに倒れていた。

 その胸には、アンティークのペーパーナイフが深々と突き刺さっている。白シャツが鮮血で赤く染まり、床にはおぞましい血溜まりが広がっていた。

 彼の見開かれた目は、虚空を見つめたまま固まっていた。その表情には、驚愕と、そして深い悲しみが刻まれているように見えた。


「いや……嘘でしょ……ジェンキンスさん……」

 リサが息を呑み、ドア枠に手をついて身体を支えた。その顔色は蒼白だ。


 俺は遺体に駆け寄り、頸動脈に触れた。脈はない。死後、数時間は経過しているだろうか。電話があった直後か、あるいは電話の最中に襲われたのか。

 俺は周囲を見渡した。窓はすべて内側から施錠されている。またしても密室。

 だが、今回は決定的な違いがあった。


 部屋の壁一面を覆う本棚の一部が、無残に破壊されていたのだ。

 本が散乱し、木枠がバールのようなもので叩き割られている。そして、その奥には、黒々とした暗い空洞が口を開けていた。

 前回、俺とリサが探した時には見つからなかった、新たな空間。


「……秘密の通路」リサが震える声で呟いた。「犯人はここから逃げたんだわ」

 俺は懐中電灯でその穴を照らした。

「いや、違うな」

 俺は冷静に現場を観察した。

「見てみろ、リサ。この壁の厚さを」

 破壊された本棚の奥には、確かに人が通れそうな通路がある。だが、その入り口は、厚い漆喰と何層もの古い壁紙で塗り固められていた形跡があった。それが内側からではなく、この部屋側から、最近になって無理やりこじ開けられたように見える。

「この通路は、長年封鎖されていたんだ。前回、俺たちが見つけられなかったのも無理はない。壁紙の下に隠され、完全に塗り込められていたからな」

 ジェンキンスは、整理中に偶然この封鎖された空間を見つけ、壁を壊して中を確認したのだろう。そして、そこにあった日記を見つけた。

「……日記がない」

 俺はジェンキンスの手元やデスクの上を探したが、彼が電話で言っていた日記や資料らしきものは見当たらなかった。

「犯人が持ち去ったのか」


 3


 すぐに警察が到着し、見知った顔の刑事が現場に入ってきた。

「またお前か、ノックス。しかもまた密室、またブラックウッド邸……。ここは呪われてるのか?」

 刑事はジェンキンスの遺体を見て、痛ましげに顔をしかめた。

「善良な爺さんだったのにな……」


 鑑識が入り、現場検証が始まった。

 刑事は破壊された本棚と、その奥の通路を興味深そうに覗き込んだ。

「ここが抜け道か。犯人はジェンキンスを殺して、ここから逃げた。決まりだな」

 刑事は部下たちに通路の先の調査を指示した。通路は埃っぽく、地下の古いワインセラーの隠し扉に繋がっていたという報告がすぐに入った。ワインセラーの扉は施錠されていなかったため、そこから外部へ脱出可能だ。


「待て、刑事さん」

 俺は刑事を呼び止めた。

「単純すぎると思わないか?」

「何がだ?」

「犯人がこの通路を使って逃げたのなら、なぜわざわざ部屋側の入り口をこんなに派手に破壊したままで放置した? これじゃあ『ここから逃げました』と宣伝しているようなものだ」

 俺は破壊された本棚の断面を指差した。

「それに、通路の入り口付近の床を見てくれ。埃が厚く積もっている。ジェンキンスが発見した時につけたと思われる足跡はあるが、犯人が慌てて逃げたような乱れた足跡がない。もしここを通って逃げたなら、もっと痕跡が残るはずだ」

 俺は断言した。

「犯人は、この通路を使っていない。これは、捜査の目を欺くための、悪質なミスディレクションだ」


 刑事が眉をひそめる。

「じゃあ、どうやって逃げた? ドアも窓も鍵がかかってたんだろ? また暖炉のダクトか?」

「いや、ダクトは前回の事件後、警察が鉄格子をはめて封鎖したはずだ」

 俺は暖炉を確認した。鉄格子は健在で、外された形跡はない。

「つまり、犯人はこの部屋から、物理的に出入りしたわけではない可能性がある」

「幽霊かよ?」

「まさか。……合鍵だ」

 俺は推測した。

「犯人は合鍵を使って正面から入り、ジェンキンスを殺害し、日記を奪った。そして、部屋を出る際に鍵をかけ、さらに秘密の通路を破壊して見せることで、あたかもそこから侵入、逃走したかのように偽装したんだ」


 4


 捜査は「消えた日記」と「合鍵の持ち主」に絞られた。

 ジェンキンスが死ぬ直前に俺に連絡してきたこと、そしてブラックウッド家の内情に通じている人物。容疑者は限られてくる。


 警察の調べで、二人の人物が浮上した。


 一人は、ブラックウッド家の顧問弁護士、ハロルド・グレイ。

 冷静沈着で、常に完璧な身なりの男だ。ブラックウッドの遺産管理を担当しており、屋敷の鍵(合鍵)を管理する立場にある。

 彼には動機があった。警察がブラックウッド社の過去の帳簿を洗い直したところ、グレイが関与したと思われる不正な資金移動の形跡が見つかったのだ。ジェンキンスが見つけた日記に、その決定的な証拠が記されていたとしたら、彼は口封じをする十分な理由がある。

 だが、彼にはアリバイがあった。犯行推定時刻、彼は市内の法律事務所で同僚と打ち合わせをしていたという証言がある。


 もう一人は、ヴィンセント・カーライル。

 ブラックウッドの元ビジネスパートナーの息子だ。父親がブラックウッドに騙されて破産し、自殺した過去を持つ。彼は長年ブラックウッド家を恨んでおり、特に執事のジェンキンスに対しても「悪党の片棒を担いだ」と敵意をむき出しにしていた。

 彼は最近、屋敷の周辺をうろついているのが目撃されている。また、彼がブラックウッドへの復讐のために、屋敷の構造や合鍵の入手ルートを調べていた可能性も否定できない。

 彼にはアリバイがない。「自宅で一人でいた」と主張しているが、証明できる者はいない。


 5


 リサは、持ち前の行動力でグレイ弁護士周辺の情報を集めてきた。

「ねえノックス、グレイ弁護士って、評判はいいけど裏の顔があるみたいよ。『ファーマコープ』っていう製薬会社の顧問もしてるんだけど、そこでの仕事内容がかなりブラックらしいの」

「ファーマコープ……?」

 聞き慣れない名前だが、妙に引っかかる。

「それとね、カーライルの方も怪しいわ。彼、借金まみれなんだけど、最近急に羽振りが良くなったって噂。誰かから裏金をもらって、汚い仕事を請け負ってるんじゃないかって」


 俺は再び現場の書斎に戻り、破壊された本棚と通路を調べ直した。

 犯人が秘密の通路を偽装に使ったという仮説。だが、そのためには、犯人はこの通路の存在を事前に知っていなければならない。

 壁紙で隠されていた通路。それを知っていたのは、発見したジェンキンスと、かつてこの屋敷を設計・改築に関わった者、あるいは……。


 ふと、床に落ちていた本の山の下から、一枚の紙片が覗いているのに気づいた。

 鑑識が見落としたのか、あるいは本に紛れて隠れていたのか。

 俺は手袋をしてそれを拾い上げた。

 それは、古い日記の切れ端のようだった。破り取られたページの一部。

 そこには、震える筆跡でこう書かれていた。


『……研究所への送金はグレイに任せた。アリアス博士の研究は順調だ。脳への直接干渉……恐怖の除去……これが完成すれば、私は死を恐れる必要がなくなる。だが、あの薬の副作用は……』


 アリアス博士。脳への干渉。

 ジェンキンスが電話で言っていた名前だ。

 そして、グレイの名前。

 ブラックウッドは、アリアスという科学者の研究に投資していた。そしてグレイがその仲介をしていた。

 日記の残りの部分――ジェンキンスが「恐ろしいこと」と呼んだ記述は、犯人が持ち去った本体にあるはずだ。


「……やはり、グレイか」

 俺は呟いた。

 グレイはアリアスの研究に関与し、その秘密を守るためにジェンキンスを殺した。アリバイは同僚と口裏を合わせた偽装だろう。合鍵を持っている彼なら、侵入も容易だ。

 そして、彼なら屋敷の図面を見る機会もあったはずだ。隠し通路の存在を知っていてもおかしくはない。


「リサ、グレイの事務所に行くぞ」

「えっ、直接乗り込むの? 証拠もないのに?」

「証拠なら、奴の反応が教えてくれるさ。それに、この紙切れが切り札になる」

 俺は日記の切れ端をポケットに入れた。


 だが、俺はまだ気づいていなかった。

 この事件の裏に潜む、もっと深く、暗い悪意の存在に。

 ジェンキンスが本当に伝えたかったこと。そして、秘密の通路という偽装工作に込められた、犯人からの嘲笑的なメッセージの意味に。


 第三の戒律。秘密の通路を用いてはならない。

 だが、もし犯人が「秘密の通路を用いたように見せかけること」そのものをトリックとして利用していたとしたら?

 そして、その目的が、単なる逃走経路の偽装ではなく、探偵である俺の思考を誘導するためのものだったとしたら?


 俺たちは雨の降る街へと車を走らせた。グレイの事務所へ。

 雨音が、俺の胸騒ぎをかき消すように激しくなっていった。

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2025年12月28日 09:00
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【Gemini 3 pro版】十戒探偵ボーンスリッピー・ノックス 平手武蔵 @takezoh

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