第二戒(後編)探偵方法に超自然能力を用いてはならない

 5


 暖炉の奥には、確かに闇への入り口があった。

 俺はジェンキンスに工具を持ってこさせ、煤けたレンガの一部に見える鉄製のパネルをこじ開けた。そこには、かつて使用人が暖炉の灰を掃除したり、配膳用ダクトのメンテナンスに使っていたであろう、狭い作業用通路が口を開けていた。

 人が一人、這って通れるかどうかのギリギリのスペース。だが、小柄な女性なら不可能ではない。

「……こんな場所があったとは。先代の頃に封鎖されたとばかり」

 ジェンキンスが懐中電灯で奥を照らし、絶句する。

 通路の床には、埃が拭い取られたような新しい痕跡が続いていた。そして、通路の壁面に、奇妙な装置が取り付けられているのを俺は見逃さなかった。黒い箱型のスピーカーのような物体だ。

「リサ、あの装置だ。低周波音の発生源は」

「あんなところに隠してたのね。通りで壁から音がするわけだわ」

 俺は装置を慎重に観察した。バッテリー駆動式で、タイマーかリモートで制御されているようだ。

「かなり高度な代物だ。市販のスピーカーじゃない。特定の周波数を指向性を持って発振できる、軍用か特殊研究用の機材に見える」

 単なる街の霊媒師が、こんなものを調達できるか? 疑問が脳裏をよぎる。


 俺たちは通路を辿ることはせず、一旦書斎に戻った。経路は判明した。あとは、犯人を追い詰めるだけだ。

「ジェンキンスさん、警察に連絡して鑑識を呼んでくれ。この通路と装置から、必ず指紋かDNAが出るはずだ」

「は、はい。すぐに」

 執事が部屋を出て行くと、俺はリサに向き直った。

「さて、主役にご登場願おうか。マダム・エヴァンジェリンの居場所は分かるか?」

「ええ、もちろん。彼女の『聖域』と呼ばれるオフィスがダウンタウンにあるわ。……でもノックス、気を付けて。彼女、ただの詐欺師じゃないかも。あの装置、普通じゃないわ」

 リサの顔には、珍しく緊張の色が浮かんでいた。昨夜の幻覚――「お前も同類だ」という言葉が、まだ彼女の心に影を落としているのかもしれない。


 6


 マダム・エヴァンジェリンのオフィスは、ダウンタウンの古いビルの最上階にあった。

 「聖域」と呼ぶには薄汚れたその場所は、重厚なカーテンで閉ざされ、部屋中に充満する香の匂いと、不気味な宗教音楽で満たされていた。水晶玉、タロットカード、怪しげな骨董品。信者を幻惑するための舞台装置が所狭しと並んでいる。


 部屋の中央、ベルベットの椅子に、マダム・エヴァンジェリン――アンジェラ・ベルが座っていた。喪服のような黒いドレスをまとい、顔には深いヴェールを垂らしている。

「……探偵さんですね。私の予知能力が、あなたの来訪を告げていました」

 彼女の声は低く、よく響く。演技が板についている。

「警察が来る前に、あなたに真実を教えに来た」

 俺は部屋の入り口に立ち、冷たく言い放った。リサは俺の後ろで、部屋の様子をビデオカメラで記録している。

「ブラックウッド氏の死について、何かを感じ取られましたか?」

「ああ。だが、霊的な波動じゃない。もっと即物的な証拠だ」

 俺はポケットから、証拠品袋に入れた黒いレースの切れ端を取り出し、テーブルの上に放った。

「ブラックウッド邸の書斎、暖炉の奥で見つけた。あんたのドレスの一部だ。そして、そこには特殊な音響装置も隠されていた」


 アンジェラの手が止まる。ヴェールの奥の瞳が、鋭く光った。

「……何の話かしら?」

「とぼけても無駄だ。あんたはブラックウッドへの復讐のために、周到な計画を立てた。まず、特殊な音響装置を使って屋敷内に低周波音を流し、彼や使用人たちに生理的な不快感と恐怖心を植え付けた。ポルターガイスト現象の正体は、共振による家具の振動と、恐怖による集団幻覚だ」

 俺は彼女に一歩近づく。

「ブラックウッドは精神的に追い詰められ、あんたに救いを求めた。あんたは屋敷に入り込み、さらなるトリックで彼を翻弄した。そして運命の夜、あんたは屋敷の隠し通路――暖炉のダクトを使って密室の書斎に侵入した」


「証拠は?」

「あの通路は狭いが、あんたのような小柄な女性なら通れる。あんたは精神的に衰弱しきっていたブラックウッドを絞殺し、内側から鍵がかかった状態のまま、再びダクトを通って脱出した。……完全犯罪のつもりだっただろうが、ドレスを引っかけたのが運の尽きだ」


 アンジェラはしばらく沈黙していたが、やがて低い笑い声を漏らし始めた。

「……フフ、フフフ……。さすがはボーンスリッピー。よく調べたものね」

 彼女はゆっくりとヴェールを上げ、素顔を晒した。四十代半ばの、疲れた、しかし燃えるような瞳をした女性の顔だった。

「そうよ。あの男は、私の父を殺した。社会的に抹殺し、自殺に追い込んだ。だから私も、彼を恐怖と絶望の中で殺してやったの。物理的なナイフではなく、彼自身の罪悪感と恐怖心で心を壊してから、この手で息の根を止めてやったわ!」


 アンジェラは立ち上がり、叫んだ。その姿は、霊媒師の神秘性をかなぐり捨てた、復讐者のそれだった。

「幽霊なんていない! いるのは、怨みを持った人間だけよ! 私の父を奪ったあの男に、同じ苦しみを味わわせるために、私は二十年間、この時を待っていたの!」


 7


 自白は取れた。だが、俺にはまだ解けない謎があった。

「アンジェラ。復讐の動機は分かった。だが、手段が分からん」

 俺は彼女を真っ直ぐに見据えた。

「あんたはただの霊感商法の詐欺師だったはずだ。どこで、あんな高度な音響兵器を手に入れた? そして、屋敷の隠し通路の存在をどうやって知った?」

 あの装置は、個人が入手できるレベルのものではない。そして、古びた屋敷の図面など、そう簡単に見つかるものではない。


 アンジェラの表情が、ふと曇った。狂信的な怒りの色が引き、戸惑いのようなものが浮かぶ。

「……それは……『彼ら』がくれたのよ」

「彼ら?」

「分からないわ。ある日、私の元に匿名の手紙が届いたの。『ブラックウッドへの復讐を望むなら、協力する』と。中には屋敷の図面と、あの装置の使い方が書かれたマニュアル、そして機材が入ったロッカーの鍵が入っていた」

 彼女は遠くを見るような目をした。

「最初は罠かと思った。でも、実際に試してみたら……効果は絶大だった。まるで魔法のように、人の心を操れる……。私は、神が私に力を貸してくれたのだと思ったわ」


 匿名の手紙。技術供与。

 リサが俺の袖を引いた。

「ノックス、それって……」

「ああ。何者かが、彼女の復讐心を利用して、あの装置の実地テストを行ったんだ」

 俺は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 低周波音による精神干渉。幻覚の誘発。それは単なる嫌がらせ道具ではない。洗脳や精神破壊に応用できる技術だ。

 ブラックウッド邸は、実験場だったのだ。


 その時、オフィスの外からサイレンの音が聞こえてきた。ジェンキンスが通報したのだろう。

 アンジェラは窓の外を見つめ、力なく座り込んだ。

「……実験でも何でもいいわ。私は目的を果たした。父さんの無念を晴らせたんだから……」

 彼女は満足そうに微笑んだが、その笑顔はどこか壊れていた。低周波音の影響か、それとも復讐という毒に侵されすぎたのか。


 8


 アンジェラ・ベルは連行された。彼女の証言と物的証拠により、ブラックウッド殺害の容疑は固まった。

 事件は解決した。だが、謎は残った。

 警察が押収した音響装置は、製造元を示す番号が削り取られていたが、内部の部品には見慣れないロゴが刻印されていたという情報を、後日リサが仕入れてきた。

 『Arias Lab』――アリアス研究所。


「ドクター・アリアス……」

 バーのカウンターで、俺はその名を呟いた。

「聞いたことある?」リサが尋ねる。

「いや。だが、きな臭い名前だ」

 俺は煙草に火をつけた。

 アンジェラに技術を提供した「彼ら」。それは、アリアス研究所の関係者か、あるいはその技術を盗み出した何者か。

 ブラックウッドは、単に過去の怨恨で殺されただけではない。何かもっと大きな、見えない歯車の一つとして潰されたのかもしれない。


「ねえ、ノックス」

 リサがグラスを傾けながら言った。

「私、あの屋敷で見た顔のこと、まだ忘れられないの」

「窓の外の顔か? あれはアンジェラが仕掛けたホログラムか何かだろう」

「そうね……。でも、『お前も同類だ』って言葉……妙に心に残ってるのよ。復讐に取り憑かれた人間は、みんな似たような顔になるのかなって」

 彼女は寂しげに笑った。その横顔に、ふと影が差したように見えた。

「……考えすぎだ。お前はただの好奇心旺盛なジャーナリストだろ」

「ふふ、そうね。私はただのワトスンよ」

 リサは影をかき消すように再び笑った。


「幽霊が事件を解決してくれるなら、探偵なんて商売はとっくに廃業だ」

 俺は第二の戒律を口にした。

「だが、幽霊よりも恐ろしいのは、科学という仮面を被った人間の悪意かもしれないな」

 俺たちはグラスを合わせた。氷の溶ける音が、かすかに響いた。


 ノックスの十戒 第二戒――

『探偵方法に超自然能力を用いてはならない』

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