(下) 灰色の卵はまだ死んでいない
教室が真空になる。
時計の秒針さえ止まったようだった。
講師が眉をひそめ、手を伸ばしかけて止める。
「……おかしい。死卵は動くはずがない。」
殻の上に細い光の線が走った。
割れたのではない。
――何かが「起動」した。
淡い光が波紋みたいに広がり、
消えたはずの「何か」が息を吹き返す。
私は指先でそっと触れた。
その瞬間、卵は強く跳ねた。
熱ではない。
もっと根源的な……脈動。
「それは孵化じゃない。」
講師が私を見た。
「君に反応しているんだ。」
胸がぎゅっと掴まれる。
三年前の記憶が一気に蘇る。
――明るくて、温かくて、私を照らしてくれた日々。
通勤電車で握りしめ、
食事中は手元に置き、
寝る前には殻に浮かぶ新しい線を眺めた。
名前、場面、 セリフの切れ端。
あの卵は確かに私の人生を照らしていた。
仕事がどれだけ辛くても、
生活がどれだけぐちゃぐちゃでも、
あれを見るだけで「待ってくれているもの」があった。
けれど――
怖くなった。
いい物語にならないかもしれない。
誰にも読まれないかもしれない。
自分なんかには書けないかもしれない。
その恐怖に、私は負けた。
「忙しいから」「また今度」
自分にそう言い続けて、
手に取る回数は週一、月一と減っていき、
たまに持ち上げると、弱い光が「おかえり」と言うようで、
それすら聞こえないふりをした。
それは三日でも三週間でもない。
気づけば季節がひとつ終わっていた。
再び触れたとき、
温度計は表示すら拒む低さだった。
卵は割れもせず、音も立てず――
ただ、深すぎる眠りに沈んでいた。
私は謝りもしなかった。
謝るつもりもなかった。
小さな箱に入れ、
本棚の一番奥に押し込み、
二度と光を当てるつもりはなかった。
――先週、引っ越しの荷物を整理するまでは。
埃を払った瞬間、
灰色の卵が一瞬だけ光った。
かすかに、かつてのぬくもりがよみがえったように。
あまりにも短くて、見間違いかと思った。
でも、私は手に取った。
期待じゃない。
ただ――
これ以上、暗闇に閉じ込めておくのが残酷に思えた。
だから、あの日、私はそれをバッグに入れた。
そして今日、この互助会まで連れてきた。
灰色の卵がまた震えた。
長い眠りのあとで、
初めて空気を吸い込もうとするみたいに。
ざわめきが完全に凍りつく。
誰かが息を飲む音。
卵を抱きしめる音。
講師の笑顔だけがバグったみたいに固まっていた。
「……おかしい。
状態は Dead のままなのに……」
講師が一歩退く。
私だけが動けなかった。
恐怖ではない。
もっと深い、
三年間閉じていた扉がいきなり開いたような痛み。
殻の表面に淡い光の筋が浮かぶ。
底から滲むぬくもり。
何かを言おうとして喉が塞がったみたいな震え。
――死んだはずの卵が、生き返っている。
頭の奥で、あの夜の後悔が形になって押し寄せる。
私はあの子を暗闇に閉じ込めた。
私が……そうした。
そのとき、殻にかすかな文字が浮かんだ。
消えていたはずのフレーズの残滓。
そして、ほんの小さな声。
く……
……くすん。
「……泣いてる……?」
誰かがごくりと唾を飲む。
全員が私を見ている。
手のひらだけが熱くなる。
卵ではない。
私自身が熱を取り戻していく。
講師が震える声で言う。
「これは……唯一の可能性だ。
この卵は、完全には死んでいなかった。
創作者を――まだ待っていたんだ。」
「すげぇ……死卵って復活するの?」
「いや、規格外すぎでは?」
「てかホラーでは?」
教室は大混乱なのに、
私の呼吸だけが静かに整っていく。
卵がまた強く震えた。
さっきよりもずっと大きく。
まるで必死に私へ手を伸ばすみたいに。
抱くべきなのか、まだ早いのか。
分からない。
でも、私は手を伸ばす。
三年前、謝ることすらしなかったくせに、
私は心の中でそっとつぶやいていた。
――ただいま。
卵殻が呼吸するみたいに膨らむ。
酸素が全部吸われたみたいに教室が静まる。
そして――
殻が細かく鳴った。
それは死の音ではなく、
確かにこう言っていた。
「始まるよ」と。
(完)
灰色の卵はまだ死んでいない 雪沢 凛 @Yukisawa
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