灰色の卵はまだ死んでいない
雪沢 凛
(上) 失敗の殻と灰色の卵
私は正直、この「クリエイター互助会」に来るつもりなんてなかった。
でも、あの日、同僚がチラシを押しつけてきたとき、
私はちょうど机いっぱいに散らばった殻の破片を眺めていた。
――それは、「失敗」した「物語の卵」のひとつだった。
ここ最近、私はいくつもの卵を産んでいた。
その中でも、これは一番期待していた卵だ。
時間をかけて温め、見つめ、寄り添い、
透明だった殻が少しずつ明るくなっていくのを見守ってきた。
まるで物語の形が静かに芽吹いていくように。
けれど、その熱は先週あたりから急に下がりはじめた。
そして今朝、ついに私の掌の上で「パキッ」と音を立て――
ガラスの心臓が割れるみたいに、
卵はその場で「自壊」した。
物語の雛形も同時に霧のように消え、
残ったのは細かな殻の欠片だけ。
そこには途切れた文章、ちぎれた名前が刻まれ、
まるで捨てられる直前まで必死に抗っていた痕跡のようだった。
正直、最初からそこまで温まっていたわけじゃない。
割れてくれて、むしろほっとした。
これで、「まだ望みがあるふり」をしなくて済む。
私は出来たての失敗をひとまとめにして引き出しに押し込み、
ようやくバッグを開いた――
本当に私を迷わせていたのは、その中にある一つの卵だ。
灰色の、小さな、三年前から冷え切っている物語の卵。
割れてもいない。消えてもいない。
ただ静かに眠っていた。
「もう書けない」と分かっていながら、
どうしても捨てられなかった未完の一文みたいに。
私は冷たい殻にそっと触れた。
三年間、一度も孵そうとしてこなかった。
それでも――捨てることもできなかった。
だから、自分がなぜここへ来たのか、
本当のところは今でもよく分からない。
たぶん、ただ――
私はいまだに「卵の孵し方」を知らないだけだ。
「全員――卵を出せ!!」
講師の怒鳴り声でホワイトボードが三度揺れ、
教室は一気にパチンコ台みたいな騒がしさになった。
カラカラ、コロコロ、ぱちぱち――
さまざまな物語の卵が机の上を転がる。
鏡面みたいに輝く卵、深海鉱石のように暗い卵、
丸いの、平たいの、シマウマ柄まである。
どれもこれも、新人の手つきとは思えないほど立派だ。
私は眩しい殻を眺めながら、胸がズンと沈む。
「……みんな、こんなに上手く育ててるの?」
つい漏れた呟きは、疑問よりも自己嫌悪に近い。
「え?普通だよ?」
隣の席の女子はあっけらかんとして、
自分の星砂色の卵を机にそっと置いた。
殻は夜光砂みたいにきらめき、
息を吸うたび胸元がほのかに明るくなる。
「昨日ね、ふっと場面が浮かんだの。そしたら勝手に温まりだして。
この子、ほんと敏感なの。」
彼女は威張るでもなく、ただ長年世話してきた観葉植物の話みたいに語る。
孵化寸前の物語の核であるはずなのに。
私は曖昧にうなずく。
「……へぇ。」
心臓だけがどんどん早くなる。
バッグの中の灰色の卵は――
この光景とは正反対の世界にある。
講師が手を叩き、空気を締めた。
「いいか!熱は君らの『心』だ!
放置すれば――死卵になる!!」
「ひえっ…」「こわ…」
教室がざわめき、卵を抱きしめる者までいる。
「死卵」の二文字は、「打ち切り」より怖いらしい。
「じゃあ、前の列から発表!」
一人目の男子が真っ赤に燃える卵を掲げた。
熱気がゆらゆらと立ち昇っている。
「俺のはラブコメ卵!昨日、好きな子と喋ったら
+30度上がった!そろそろ孵ると思う!」
拍手が起こる。
次は隣の女子だ。
「私は女主人公のファンタジー長編。この子、気圧にも左右されるの……」
言い終えた瞬間、卵がぴょこんと跳ね、
教室は「おおお〜!」と湧いた。
そして講師がこちらを見る。
「次。君だ。」
なぜか心臓が逃げ出したがっていた。
私はゆっくりバッグを開き、
灰色の卵を取り出す。
冷たい。
重い。
暗い。
何も刻まれていない、磨り消されたみたいな殻。
「……」
三秒の沈黙。
誰かが小声でつぶやく。
「その色って……まさか……」
講師が厚い耐熱手袋をはめ、
博物館の展示物でも扱うみたいに卵をひっくり返す。
殻の底に、素っ気ない文字。
進捗:0%
状態:Dead
「……これは死卵だ。」
講師の声は優しいのに、残酷だった。
視線が一斉に押し寄せる。
私は乾いた笑いをこぼす。
「はは……冬だからちょっと冷えただけで……」
「死卵はもう温まらない。
それは――君がその作品を手放した証だ。」
隣の女子がそっと突ついた。
「……いま、動かなかった?」
私は息を呑む。
灰色の卵が、もう一度……微かに震えた。
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